「何も足さない…何も引かない…」(イングリット・ヘブラー讃)

  ある大手メーカーが その名もピュアモルト・シリーズというオーディオ製品を出していて、なかなかの好評らしい。
 ピュアモルトという言葉を聞けば、酒好きの男でなくとも、本物志向の高級品を思い浮かべる。そして、ピュアモルトのTV-CMで「何も足さない、何も引かない」というコピーが流れると、ますます自然のままの純粋さに憧れることになる。

 ピュアモルト・シリーズは このウィスキーの樽材をスピーカーやプレイヤーの木部に使用したものらしい。例えば、芳醇な香りが漂ってきそうなスピーカー・ボックス…だから、何も足さず、何も引かない音がするかというと、これは別問題。箱というものは、どんなに補強しても鳴るのだから、それなら きれいに鳴る素材で作ろうという趣旨なので、他製品よりも良い響きがする。これがピュアといえるかどうか、美しい響きを足してしまったな…とも感じてしまう。
 製品のアラ探しは止めるが、かようにバリバリの純粋志向人間だということを宣言しておいて、今回は演奏家の話題である。

 何も足さない、何も引かない演奏家だと思って、長年 愛聴しているイングリット・ヘブラーというピアニストがいる。最近、久々に来日し、また CD10枚構成のモーツルト・ピアノ作品全集が再編集発売された有名なモーツルト弾きである。レコードを通じて、私にモーツルトの楽しみを教えてくれた恩人であり、私としては、彼女にこそ 今回のタイトルどおりの賛辞を捧げたい。

 モーツルトは かく在るべしというような巨匠達の名演が中心だった時代、それはまた、LPレコードの最盛期ともいえる時代に、若きヘブラーは とびきりの美音を奏でて登場した。それは スタインウェイから なんでこんな音が出るのかといぶかる程の柔かい美音だった。後に、特注品だと知ったが、ヘブラーが作為的な思い入れやペダル効果に頼らずとも、その十指だけで モーツァルトの音楽を紡ぎ出せる、じつに多彩なタッチの持ち主だという点に疑う余地はなかった。

 彼女への批評はさまざまで、要約すると、美音の魅力、自然な素直さの一方で、精神性や人間性の欠如というものだった。しかし、ヘブラーに音だけを感じ、巨匠たちに精神性とやらを感じるとしたら、彼女が完全に音に没頭しているのに対して、彼らは音と作品の間で自己の精神注入の作業を目立たせ過ぎてしまったせいではないか。感動が音だけなればこそ、人間のすべてがその中に込められているはずなのに、精神やら人間臭が目に付く方を高尚だとすることが、モーツァルトを妙に小難しげなものにしてはいまいか。彼女の演奏を聴くたびに、そんな思いがしたものだ。

 どんな時でも、作品の手前で演技して見せたりはしないし、作品の向こう側に自分の音楽を創ってしまうこともない。聴こえてくるのはモーツァルトだけ…それはまた、素材の味をじつに大切にした料理、薄味の京料理を思わせた。調味料も添加物も控えて、誤解を恐れずに書けば、同じ女流モーツァルト弾きの内田光子やマリア・ジョア・ピリスのような才気やエスプリという、人によっては 美味しく感じるものさえも足そうとはしない…こんな調理法は良い素材と手際なくしてはできまい。いま時の料理に、濃い味付けが増えてしまったのは、これが手に入らないからだという。しかし、モーツァルトという素材とヘブラーの手際なら何の不足もなくて、長年 飽きることなく、自然の味を楽しんできたのである。

 悲しい思い出話もある。
初来日のリサイタルには、 胸をときめかせて駆けつけたものだ。ところが、そこで聴かされたものは、ヘブラーらしくないルバートとペダル操作で ほんわかとごまかされた音楽だった。なぜ?…この悲しい原因を私なりに こう信じている。

 その日のリサイタルは、まさに 大ホール超満杯のビッグイベントになった。そんな大空間は、彼女の“何も足さない、何も引かない自然さ”を発揮する場所と違ったのではないか。本物の“京懐石”は、 やはり 宴会の大部屋で味わうものではなかったのではないか。
(いや、私にはピュアモルトの話の方が分かりやすい。この酒は、満員のビヤ・ガーデンやパーティーが似合うビールやシャンパンとは違って、やはり 独りしみじみと飲む酒なのだ…)
その後、彼女のリサイタルには行かない。

 1人の演奏を千人のホールで聴くのは貧乏人のやることだと言った毒舌の評論家がいたが、現代の庶民が王侯貴族のように自宅のサロンに演奏家を呼べる道理もなく、ひたすらレコードだけに耳を傾けることになった。こんな演奏家が居てもいい。こんなレコードこそ あってもいい。レコードを通してしか味わえない演奏というものがあることが、レコード鑑賞という行為を一層 楽しくするのだから…。
   

   

フィリップスだから実現した自然音(ヘブラーの録音)

 先月に続いて、ヘブラーが1963年から約15年かけて、モーツァルトのピアノ曲のほとんどを収録したフィリップス盤の録音について話を始めたいのだが、音を文字で表現するのは非常に難しい。
 例えば、ヘブラーのモーツァルト・ピアノソナタ全集は、フィリップス(旧盤)の他にDENON(新盤)もあるが、レコード芸術誌の録音評では「旧盤に比べて新盤は残響が少なく、タッチが生で聴こえる」となり、かたやステレオ誌は「新盤はエコーで装飾されたピアノ」だという。ピアノ録音に詳しい高城重躬氏も、技術誌で「新盤は残響で美化され、旧盤の方がタッチ明瞭」と逆の批評をしておられた。再生時の環境の違いや観点の差が録音評を一層 まちまちなものにしているのだろう。
 そこでまず、 フィリップスの音の基準になっているモニター環境になるべく近づける努力をしながら、楽器の音の自然さ、素直さという観点に絞って聴いてみる。

 フィリップスの音の基準となるモニター・スピーカーは、スタジオでも録音現場でも、クォードのESLというコンデンサー型である。ヘブラーの頃は、パネルヒーターというあだ名の旧タイプ(左の写真)、その後、新タイプESL-63proへと変わる。
 どちらも プロ用としては、ダイナミックレンジ不足だし、耐久性にも乏しく、何とも扱いにくいこの製品を一貫して使い続けた。理由はESLの再生音の自然さという特長を最重視したためである。確かに、ESLには 前項のピュアモルト・シリーズのスピーカーとは異質の自然さがある。

 そして、フィリップスのサウンド・ポリシーこそが 自然のままの音の収録と再生ということであり、これを徹底させる姿勢は どのレーベルよりも厳しい様に思われる。自然音収録を実行するために選ばれたモニターがESLであり、この使用条件にも細かい規程が定められている。

 まず、設置規程は図の様に正三角形の頂点で聴くこと。録音現場では、このスペースの板囲いを造り、左右壁面を布地で吸音する。狭い場所なら、この比率を守って各寸法を狭める。録音スタッフは、巻尺を鼻の頭に当てて自分とスピーカーとの距離を測り、いとも簡単に配置するらしい。
 再生音量にも規程があって、4〜8時間の作業なら90dB、それを超える時間になれば80dBにセットする。耳の負担を減らし、正確な聴力を保たせるためである。
 他の機器にも規程があるが、決して高級品ばかりでなく、スピーカー・ケーブルもベルデン社の赤と黒の線を縒った普及品をあえて指定している。彼らは、この規程のもとで再生される音こそが、真の自然音だと信じている。

 クォードは本来、家庭用の製品だから、私も63proを求め、フィリップスの基準でセッティングした。これで愛聴盤を片っ端からかけて、どの盤もが、じつに自然なピアノの音質だということ、それは奇麗に鳴らすのではなく あるがままごく自然に聴かせるイメージに、ヘブラーの魅力を再認識させられた。
 レコードで聴く楽器の音というものは、もちろん演奏者独自のものもあるが、録音スタッフが会場でマイクを立てるという行為で、音色やイメージの大部分が決まってしまう。何人もの人間が、いろんな会場で、何年間にもわたって収録したものが これほど統一した自然音である点にも感激した。
 これはフィリップスの統一されたモニター基準とヘブラー自身による真剣なマスター・チェックと共に、「ミュージカルサウンド・アップルーバル・システム」と呼ばれる、常に経験豊富な一人の人物によって音の品位が管理され、彼の権限で録り直しまで行われる厳しい制度に拠るものだろう。

 ヘブラーが これ程までに自然音収録にこだわるフィリップスで録音を続けられたことはじつに幸せだった。同じ系列でも、重厚、強靭な独グラモフォンの音はギレリスやアルゲリッチ向きだったし、鮮鋭、華麗な英デッカの音はアシュケナージや七色のタッチといわれた頃のラローチャに相応しかった。
 最近は、音の好みが多様化し、販売政策も多角化したため、レーベルのサウンド・ポリシーは守り難くなった。サウンド・ポリシーなど不要だという意見まである。
 しかし、スコッチウィスキーが泥炭地帯の地下水の香りを失い、サントリーモルトが日本の山崎の涌き水らしい清らかさを無くした時、酒の喜びなんて半減する。京の老舗・瓢亭の優しい味わいも、大阪生まれなのにキリッとした吉兆の旨さもが ごちゃ混ぜになった時、グルメの楽しみなんて消滅する。(今回は 固有名詞だらけだが、表現力の至らなさを補うための例えだとご勘弁いただきたい)

 そこでいま、再生音にサウンド・ポリシーを感じ、その音にアイデンティティーを偲べるピアニストは少ない。例えば、一頃ブームをまき起こしたブーニンの音を、いまキチンとイメージできるファンが何人いるだろうか。ムザ、メロディア、日本ビクター、グラモフォン、EMIが 同じレーベルでもいろんな録り方をして提供してくれたお陰で枚数は多いが、私には何となく華やかな音がしたという覚えしかない。同じ頃、POPSとして聞き流したクレイダーマンの方が、まだ この音だという記憶が残っている。
 一つのレーベルが、一人の演奏家がサウンド・ポリシーを永々と守り通すのは大変なことだが、それを捨ててしまっては、本当の名盤は、名盤としての良き記憶は残らない…ヘブラーの録音は そんなことまでも痛感させるのである。
   



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