プアな音で音楽が聴けるのか
  
 オーディオがまだ贅沢品だった時代、音楽マニアの間には、音楽を聞くための手段なのだから、音さえ鳴ればよい…聞くべきは作品や演奏であって、手段に凝るのはいかがなものか、という風潮があった。そして、オーディオが大衆化した現在でも、熱心で、純粋なリスナーほど、音楽さえ聞ければ、音質は二の次という傾向が少なくないように感じられる。
 音楽を十分に理解し、スコアも諳んじているような人なら、例え貧弱な音質(装置も録音も)で演奏の細部が聴き取れなくても、本来の”音楽”を鑑賞するのに何らの不都合も起きないないのだろう…しかし、本当にキチンと音楽が聴けているのだろうか?と疑心暗鬼でもあった。

   

メイプル音楽堂も創刊から半年が経ちましたが、予想以上のご訪問をいただき誠に有難うございました。
しかし、オーディオのイメージ向上とマインドシェア育成(大袈裟な)を目指して始めたはずが、いつのまにか発行人の趣味の頁に陥りかけてきた今日この頃でございます。
初心に帰って、音楽のためのオーディオを真剣に考えるご意見板を開設しました。この殊勝な意気ごみが続きますよう…暖かきご支援をばお願いいたします。(2000.6.15)

 そこで、ずいぶん以前の話になるが、藤田容子(Vn)、福田進一(G)、雄合恵子(Cemb)の演奏による、パガニーニとヘンデルの室内楽曲集のCDが発売された。私の好きな1枚で、「レコード芸術」の月評でもたいへん好評だった。
 そのヘンデルの方の批評で、ニ人の評者は「これは雄合恵子の伴奏」「チェンバロがギターに変って登場」と福田は弾いていないように書くのだが、一人は「(福田の)ギターの役割が重要性をおびて、生気をとりもどしたようだ」と福田の演奏を褒め上げていた。はたして、福田はこの曲を演奏しているのか、いないのか。再生状態の不備で、どちらかが聞き違いしているのだが、ライナーノートには説明がないので、リスナーの耳と装置で判断するしかない。
 演奏家が、もし演奏しているのに無視されたり、してもいないのに誉められたりするなら、決してその演奏を聴いたことにはならない。それぞれの楽器によって表現法も異なるはずだから、違う楽器を想定して鑑賞したなら、その作品をキチンと聴いたことにもならない。
  
 だいぶん昔の話とことわったように、まだ若気の至りの私は抗議の意をこめて、「レコード芸術・編集部」宛に、上記の文面を郵送した。それが次月号の読者欄のトップで、原文のまま一字一句の修正もなく掲載されたのには、さすがレコ芸と、かえって恐縮したものである。しかし、若気…ではなく今でも、これが非常に重要なことだという思いは変っていない。
 今も、レコ芸はじめ多くの音楽誌で見かける批評だが、小編成の緻密なアンサンブルが「美しいホールの響きで、まるでフルオーケストラのように豊かに聞える」などという録音(そう聴える装置)は、決してあってはならないのである。そんな快感はヘタなカラオケどまりにしておきたい。本当に大切な音楽にとっては、正確な録音と再生こそが、正しく聴くための必要かつ絶対の条件だと思う次第である。
    
   

音楽を聴かずにオーディオがやれるのか
  
 オーディオは確かに音楽を聞く手段だが、独立した趣味にもなり得る。趣味とは、手段を楽しむことという考え方もある訳だから…。しかし、音楽を聴く道具だから、音楽と無縁で居られるはずはない。製作、調整段階から、音楽が不可欠となる。アンプは電気製品だが、動特性などは測定器やテスト信号だけでは測れないという解説は、むしろ電気関係の専門書に詳しい。
 客観性を持たせるために、ブラインドホールド・テストだとか、印象が消えないうちに短いフレーズを繰り返してリアルタイムで比較するとか、各々の工夫があるらしい。私には信じられないことだが、「ツァラトゥストラ…」の冒頭 数10秒しか聴いたことがないと威張るマニアが居たりする。はたして、こんな方法でよいのだろうか。
  
 これもずいぶん前のことだが、オーディオ評論家で優れたデザイナーでもあった瀬川冬樹さんの記事に、こんなエピソードが紹介されていた。
 国産のハイテク製品こそ最高だと信じる若い技術者たち3人が、海外製品を愛用される老マニアのお宅を訪問した。彼らは持参した国産の高級トゥイーター(高音用スピーカー)を、その装置につないで鳴らしてみたいと言い、氏は快く了解された。音が鳴り出すと同時に、3人は素晴らしいと叫んでいた。そして、高域の改善で、こんなに楽器のニュアンスが生きたこと、臨場感まで豊かになったことなどを熱っぽく訴えた。氏は暫く黙って聴いておられたが、立ち上がってスピーカーの側へ行くとこう言われた。「このトゥイター、線が外れて鳴っとらんぞ」。慌ててセットしたので、配線が外れていたのである。3人は、まさしく幻の美音を聴いていたのである。
 改めてつなぎ直して聴いた音がどうだったかは書かれていない。しかし、心やさしい瀬川さんは、この話をこう結ぶのである。「私は若い技術者たちを揶揄するつもりはない。その時、彼らの耳には信じている美音が鳴り響いていたに違いない。私にはその気持ちが、悲しいほどよく分かる。人間が音を聴くということは、実はそういうものなのである。」
  
 人間の感性が、その時々の心理状態やらコンディションに左右される以上は、あらゆる状態の平均値が出せるまで、何回も聴き直さないと正確な結果は得えられないことになる。
 その上、基準にするレコード(CD)にどんな音が入っているのか分からないという問題がある。もともと完璧な再生装置というものは無いから、絶対に本当だという音は誰も聴いていないのである。これを解消するため、普通は2つの方法が採られる。
 1つは、レコード音源に頼らず、生演奏をその部屋で録音、その部屋で再生して等しい音に調整するという原音再生的な方法がある。もう1つは、やはりレコードを何回も繰り返し聴いて、経験則を蓄積して、より正確な判断に近づけることで、一般的にはこの方法に頼らざるを得ない。
 レコードには、当然、レーベルごとの音の傾向や録音技師による個性もある。これがサウンド・ポリシーであり、また、G・ヘルスマンによるカラヤンの音、ジェイムス・ロックによるVPOの音という特徴こそ、レコード鑑賞の楽しみでもある。しかし、これを基準の物差しにする場合は、回数と時間をかけて聴かないと、耳の感性がこの個性や特徴の影響から逃れることは難しい。「ツァラトゥストラ…」冒頭のオルガンをちょっと聴いただけで、これを補正し、”音楽”が聴ける道具をつくれるほど、聴覚は万全ではないということである。
  
 確かに、音楽を聴く手段だけを楽しむのも、オーディオという趣味なのだが、その必要条件は音楽を聴けるものなのかどうかに尽きる。もし、音楽が聴けない道具をつくってしまう可能性がある方向に進むなら、オーディオという趣味自体が成り立たないことになってしまうのである。



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