寮の部屋にて
註:東京転勤に伴い家族を呼ぶまで4ヶ月の寮生活

机の上に
岳彦の残していった紙片がある

「かにひけ」
「たにひこ」
上手に書けるようになったな
もう一息だな
「け」と「な」と「に」が
チャンポンになってるんだな

くずかごの中に
明治パンチの空き瓶が残っている
しょっちゅう喉を渇かせていた
汗っかきの春菜が飲んだんだな
「半分分けよ」と言われたかもしれないな

ここで二時間
買い物、洗濯、衣類の整理
走り回っていた菊枝と
叱られながら
賢く待っていた
岳彦と春菜
その情景が目に浮かぶ

「田中さん ちょっといいですか」
「はい、いいよ」
原稿の中身の相談
「田中さん ここに印をお願いします」
「はいはい」
デザイン室から回ってきた伝票
「田中さん 電話」
「今日の午後あいているかい?だったら博報堂へ挨拶に行こうか」
「それじゃあお願いします」とぼく。

「田中さん この件は聞いてられますか?」
「どれ、いやこれは知らないな」
「田中さん 大阪から電話」

田中さん たなかさん タナカくん タナカサン
はいはい ハイハイ どれどれ なになに

誰も待っていない
コンクリートの壁の
せまい部屋だけれど
一日の終わりに早く帰りたい
ここには菊枝の心に通う品々がある
子どもたちの匂いがある

みんな元気で機嫌よく過ごしてるかな
そろそろ秋風が立った
風邪をひくなよ 菊枝がんばれよ
秋から冬へ季節が移るのを
楽しみに待とう
みんな揃って暮らせる日の来るのを

1972.8.25

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