バッハの協奏曲の暗譜

作成日 : 2001-05-07
最終更新日:

バッハの協奏曲のソロをとるにあたり、思っていることを述べる。

バッハに決めたいきさつ

今回、私は協奏曲の独奏を行う。私はこの合奏団に長い間所属しているが、 単独でソロをとるのは初めてである。 「単独でソロをとる」というと牛の牛肉に聞こえるかもしれないが、 そのこころは「複数楽器の協奏曲」の楽器部分は担当したけれど、 わたしのピアノだけというのは始めて、ということである。

私が担当した「複数楽器の協奏曲」は、バッハのブランデンブルグ協奏曲第5番がある。 また、協奏曲でないピアノ入りの曲は私の担当で何度もやっている。 それに、私以外の方が独奏ピアノを披露したことも何度かある。しかし、 しつこいようだが、私が単独でソロをとるのはこれが初めてである。

候補は3曲あった。バッハのチェンバロ協奏曲第1番、ヘンデルのオルガン協奏曲、 モーツァルトのピアノ協奏曲第14番である。ヘンデルはかわいらしくていいのだが、 過去にやってしまっている。 モーツァルトは同じプログラムで「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と ぶつかっているので避けたい。また本来は2管編成の曲であるので管が入らないと寂しい。 バッハは過去に第1楽章だけうまい方が弾いている。しかし今回は全楽章行うつもりであるので、 売りはそこだろう、こう考えた。

暗譜を目標とする

今回の演奏に当たり、一つの誓いを立てた。

暗譜で弾く

これだけである。なぜもの覚えの悪いおじさんが暗譜という冒険をするのか、 その経緯を話そう。

1. 偉そうにみえる

この理由が大きい。独奏者は暗譜で弾くものと相場が決まっている。そうであるものと観客が期待している。 だから暗譜をする。

ある方からこんな話を聞いた。その方はあるプログラムで、 日本を代表する某ピアニストの弾くこの曲を聞いたのだそうだ。 そのピアニストの演奏は惨かったという。 16分音符のリズムが均等ではなく崩れてしまっていた。 おまけに譜面を見ながら弾いていたんだ、と憤りを込めてその方は言った。 それを聞いて、暗譜さえすれば他はともかく、そのピアニストより偉いのだ。 そんな理屈が成り立つ。勝手にそう思うことにして暗譜の意志を固めた。

2. 顔が見える

私のようなおじさんが見えたってしょうがない、そう思う方もいらっしゃるでしょうが、 最後まで付き合って下さい。

私がピアノ演奏会に出かけると、たいていは舞台に向かって右側に席をとる。 昔ピアノに関する小冊子で、向かって右側が音がいいということが書いてあったからだ。 その理由はこうだ。ピアノには弓形のくびれがあるが、 そのくびれの対称線の延長上に一番音が集まるからだ、というのだった。 理屈は私には飲み込めない。 今まで8:2程度で右と左それぞれに座っているけれど、 右に座って聴く音が左よりよさそうな気がする。

しかし、それ以上に重要なことを発見した。右側に座ればピアノ弾きの顔がよく見える。 こんな当たり前のことに気がつかない人が多いのは不思議である。 素人は、指の動きを見たって何の感慨も催さない。ところが、顔を見ることは誰でもできる。 その顔は、思いのほか表情豊かである。昔どこかの詩人が、真剣な顔の美しいことの例として、 「ピアニストが困難なパッセージを弾くとき」と形容した。 その顔が見られるのはまさに向かって右側なのだ。

暗譜をすれば譜面台はいらないか倒しておける。そのため、顔がよく見える。 譜面台をとることによって、ピアノの生の音がよく聞こえるというのが暗譜の産物としていわれ、 事実その通りである。しかし、お客にしてみればそんなことはどうでもよい。 ピアニストの表情を(味わえるに足るのであれば)味わうのも、一つの楽しみである。

昔誰かが、「スカルボを弾きながら眼鏡を手でずりあげる野島稔の芸」 を褒めそやしていたのを思い出した。言われてみれば彼はそんなことをしそうだ。 私にはそんな芸はできないが、願わくば目でも楽しめればそれに越したことはない。

なんでも、私がピアノを弾いている時は口をぱくぱくさせていて、 さながら金魚が水面であっぷあっぷしているかのようだ、というのがつれあいの評である。

これを見たつれあいは「金魚が水面で、なんていったっけ」と不思議がる。 「そうは言っていないかもしれないな」と答える。 すると「金魚じゃなくて、なんかこう、顔が変になって足りない人に見える」というのだ。 これでは金魚よりひどいではないか。

暗譜は達成できない

5/12 に八重洲の練習に行った。第 1 楽章と第 3 楽章はほぼ憶えたつもりでいたが、 それがつもりに過ぎなかったことが露になった。第 1 楽章は普段流せるところで飛んでしまったし、 第 3 楽章も途中でパニックに陥ってしまった。 指揮の先生がいたことと、伴奏楽器があったこと、 家では電子ピアノで練習していたのに練習場ではアップライトピアノであったこと、 こんなことがさまざまにからみあっているのだろう。 まだまだ修行は続く。

バッハというブランド

今挑んでいる曲は、どうやらバッハの原作ではないらしい。 「クラシック音楽辞典」に「バッハの作か疑問」という記述があり、愕然とした。 私は、 「鍵盤楽器の協奏曲という概念を発明したのは J.S.バッハだ」と思い込んでいて、 おまけにこの第 1 番をかっこいいと思っていたから、バッハ作ではないと聞いて実は落ち込んでいる。

もちろん、バッハのチェンバロ協奏曲は人(や自分)の協奏曲の借物だということは知っている。 たとえば、 バッハの「4 台のチェンバロのための協奏曲」の原作は、 ヴィヴァルディの「4台のヴァイオリンのための協奏曲」である (たまたまこれは同じプログラムで行う)。 この第 1 番も、「そういわれれば J.S.バッハとはちょっと違うか」とも思える。 しかし、バッハが編曲したのは確かなようだ。 それならば、やはりそれはバッハの作品として認めようではないか。

もっとも、編曲者の腕というのは時代を下れば多く認められる。 ピアノでいえば、リストの演奏会用パラフレーズ、 ゴドフスキーに代表される超絶技巧を駆使した編曲などがゴマンとあって、 ピアノ編曲で一大共同体ができている。 オーケストラはいわずもがな。

だから、編曲者の個性と作曲者の個性を別のものと捉えてこの協奏曲を捕らえないといけない。 つまり、私はバッハというブランドに弱かったのだ。

なぜチェンバロではないのか

バッハのこの協奏曲は、チェンバロ協奏曲である。ピアノ協奏曲ではない。 バッハやスカルラッティの時代に、すでにフォルテピアノが発明されていたのではないか、 彼等はフォルテピアノのために作曲したのではないのか、こんな議論がある。 私はあまり興味がない。なぜなら、フォルテピアノもチェンバロも弾けないからだ。 それに、楽器の調達が大変である。チェンバロは私の中では未だに良家のお嬢様の楽器である。 フォルテピアノにいたっては、博物館の楽器である。 フォルテピアノは最近演奏される機会が増えたようであるが、私は生の音を聞いたことがない。 チェンバロなら何度か演奏会にいった。 しかし、私がチェンバロを弾いたのは今までのべわずか1時間である。 だから、私はチェンバロが弾けない。 消去法でいくと、ピアノしか残っていない。

それで、バッハである。この協奏曲は鍵盤楽器協奏曲であると私は捉えている。 だから、これをピアノで弾くことにはなんらためらいもない。だいたい、この曲のもとは ヴァイオリン協奏曲である。それを思えば、ピアノであろうが、チェンバロであろうがたいした 違いはない。

というのはさすがに言いすぎだ。でもそこまで言いたい。なぜか。 あるところで聞いたのだが、バッハの時代の曲を弾くなら、ピアノは絶対さけるべし、 ぜったいにチェンバロを使え、電気楽器のチェンバロの音でもいい、という議論があった。 本当にそうなのか。

音だけでいえば、私はさほどこだわらない。問題は、電気楽器にはプラグがついているということだ。 しかも、演奏会ではそのプラグが見える。これには感心しない。 演奏会のもつ雰囲気がどうにもうさんくさくなる。音だけは昔と似せても、 演奏者と観客が一体となる空間までを昔と似せることはできない。

もう一つ、チェンバロの音色への過度の固執は、 現代ピアノの表現力を過小評価しているとも思う。

曲の長さ

この曲を弾いたあとで、「長い」と団員の中でいう方がいる。私もそう思ったことがある。 しかし、今は長いとは思っていない。弾いていて思う暇がないのだ。 私は心配している。長い、ということばの裏に、 つまらないとか退屈だとかという気持ちがあるのではないか。 だいたいこの曲の長さはブランデンブルク協奏曲第5番と同じくらいだ。 ブランデンブルクを長いという人はいなかった。 ということは、こちらのピアノ協奏曲の魅力がブランデンブルクより劣っているのか、 あるいは私の演奏に魅力がないのか。 曲の巧拙は今さらながら変えられない。だから演奏に磨きをかけないと、そう思ってはいる。 しかし今日も(2001-05-26)未だに満足のいかないピアノになってしまった。

第2楽章をさらう

この項は実は演奏会後に書いているが、気分は演奏会前であるのでここに記す。 第1楽章、第3楽章の暗譜がほぼすんだ後、第2楽章の暗譜に取り組んだ。 これはダメであった。なぜか。この楽章は一種のシャコンヌだからである。 シャコンヌ(パッサカリアというべきか)は、一定の低音音型をいろいろ装飾しながらその展開を 楽しむ形式である。この楽章は、同一の音型の低音部が g-moll(提示), g-moll(展開1), d-moll, c-moll, g-moll(展開2), g-moll(提示の再現)という具合に進んでいく。 最初の提示と最後の提示の再現はユニゾンであり、ユニゾンではさまれる右手の歌がすべてである。 そんなものだから、微妙な装飾音の付け方などどうでもよくなってしまう。そんなことで、 楽譜に書いてある音を逐一なぞるのは早くにあきらめた。 今は和声構造を壊さない程度でよいと開き直っている。

まりんきょ学問所八重洲室内アンサンブル活動実績 > バッハの協奏曲の暗譜

MARUYAMA Satosi