「凡例」より引用する:
本書は、江戸時代の将棋名人三代伊藤宗看の詰将棋百番『将棋無双』と、 贈名人伊藤看寿の詰将棋百番『将棋図巧』を収録し、詳細な解説を付け加えたものである。
本書は後に、若島正の解説が付されて平凡社ライブラリー 911 として刊行されている。
『将棋無双』と『将棋図巧』とのすべてが解説されているのがうれしい。 なお、本書の続編の続 詰むや詰まざるやにも『将棋無双』や『将棋図巧』の一部が採録されている。
まえがきには、これらの傑作集を評して日本人の頭脳の優秀さを示す誇るべき文化遺産である。
とまで言っている。
ちょっとこれは面映ゆい。三代宗看と看寿の頭脳は優秀だろうが、日本人全体に適用するのはおかしい。
また、まえがきにもあるが、「詰むや詰まざるや」とは『将棋無双』の別名であり、『将棋図巧』の別名が「神局」である。
さらにややこしいことに、編者によれば、『無双』第三十番を指して、
本局は『将棋無双』中でも屈指の秀作で、「神局」の名を関されるほどの素晴らしい作品である。
本の題名からすると、「詰むや詰まざるや」が指すものが『無双』と『図巧』を合わせたものと誤解しそうだが、
気をつけないといけない。
なお、本書ならびに続編の「続 詰むや詰まざるや」でも、駒が成らないときの動きを「不成」ではなく「生」で表している。 この古風な書き方がいい。
本書の p.27 によれば、『無双』の本題(第十七番)と三十六番、四十六番、八十一番の四題は、
「これを詰めれば初段の力あり」と云われる。
という。私は(指し将棋)初段の免状を持っているが、本題はおろか、どの題も詰ますことができない。これでは初段を返上するしかないか。
編者は、どの題も一様に称賛しているかというとそうではない。
『無双』の第二十二番は全体としては印象に乏しい作品である。
としているし、
『無双』の第三十四番は宗看の作品にしては、中心手のない、小味の積み上げの作品である。
と評している。
『図巧』の第三十一番は本局の狙いは(中略)鮮かな収束手順にある。前半は複雑であるが、妙味は乏しい。
とも言っていたり、
『図巧』の第三十四番は終わりの数手が本局の眼目である。すなわち(中略)たたみかけるような収束がすばらしい。
本局はこの収束から創作を始めて、だんだん前半を引き延ばしたものと思われる。というのは、
前半の手順は、かなり変化が厄介ではあるが、あまり面白味がないからである。
と自ら思うことを書いている。このような素直な物言いが面白い。
書名 | 詰むや詰まざるや ― 将棋無双・将棋図巧 |
編者 | 門脇芳雄 |
発行日 | 昭和 50 年(1975 年) 12 月 19 日 初版第1刷 |
発行元 | 平凡社 |
定価 | 円(本体) |
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備考 | 東洋文庫 282、草加市立図書館にて借りて読む |
まりんきょ学問所 > 読んだ本の記録 > 門脇芳雄(編):詰むや詰まざるや