ここの項はこっそり書く。
私はなぜ運転免許を取らないわけは、自動車に対してかなりの敵意を抱いているからだ。
たぶん、私の自動車嫌いは生理的なものでだろう。そうでもなければ、 この時代に運転免許を取得していないことが考えられない。
私は小学校3年生のとき、交通事故に遭った。登校時に前方不注意で飛び出してしまったためだ。 これはこれで大変な思いをしたが、その後の後遺症もなく、なんとか生きている。 当時の担任の先生は、ほどなく先生をやめてしまった。 この事故が原因かどうかは知らない。幼いながらも心を痛めたできごとだった。
そのあと、しばらくは自動車そのものに興味をもつ生活が続いた。 高速道路ですれちがう自動車を見るたび、 あれはどの会社のなんとかという車だと友達と言い合っていた。
私が自動車に対して敵意を抱くに至った遠因は、自分の交通事故ではなく、次の話かもしれない。 中学生のころ、私は自転車で車道を走っていた。 そのとき、停車していた車がいたので邪魔だと思い、 ぎりぎりのところですり抜けた。 すると、すぐに後でクラクションが鳴った。 振り向くと、先の車が私の自転車を追い掛けている。 不審に思い自転車を止めた。 すると、車の主が自動車を降りて血相を変えて私に突っかかって来た。 二十歳前後の男性だった。 「何も言わずに俺の車をすり抜けていったな。傷がついたらどうするんだ。おまえのせいだ」 私は大事にならないよう、ひたすら謝るしかなかった。 幸い私は肉体的な傷は受けることはなく、 運転手の捨て台詞をさんざ聞かされただけで済んだ。 しかし、このとき初めて、 自動車の運転手はこわいということを身に染みて感じた。
この表題を見てピンと来た方は何人いるだろうか。 そう、岩波新書から出ている宇沢弘文の書物の題名だ。 私が運転免許を持たないことにした理由はもやもやしたものだったが、 そのもやもやした理由を明確にしたのがこの本だ。 なぜ免許をもっていないかと人に問われる度、私は曖昧な理由を並べるだけだ。 いわく、めんどくさい、金がかかる、仮に持ったとしても自動車に金がかかる、車検に金がかかる、 俺は酒が好きで夜は酒を飲んで帰りたいから車を使うことができない、 などなどどうでもいい理由ばかりだ。 ただ、多少心が許せると私が判断した知人に対しては、 上記の宇沢さんの書物の内容にふれつつ、自説を述べることもある。
わたしだって、自動車を運転したいのかもしれない。 以前はよく、無免許で町中を運転した挙句、道端の車に衝突して捕まってしまう夢を何度も見た。 また、自動車が欲しいと思うときもある。 私はチェロを弾くので、重いチェロケースを担いで歩くのは疲れる。 こんなとき車があればいいとつくづく思う。 事実、チェロをやり初めてしばらくして、 行き帰りに担ぐのに疲れるから一発念起して免許をとった、 という話を初老の婦人から聞いたことがある。 また、子どものいる家族の方からも言われた。 子どもをいろいろな所に連れていくとき、 特に病気などで病院に連れていくなどの大変なときには車がないとどうしようもない。
しかし、宇沢さんの本や、鎌田慧さんの「自動車絶望工場」を読むと、せめて私だけでも、 自動車を増やす助けになることは避けよう、ということを思う。
2000 年ごろ、私の出身高校のメーリングリストで、交通事故で身内の方を亡くしてしまった、 と述べてきた方がいた。
何人かの方が御悔やみのことばを述べていたが、私はその方と直接の面識はなく、 何も言わずに黙っていた。心の中では哀悼の意を表しているが、これからも黙っていようと思う。 なぜ黙っているか。それは、御悔やみのことばを述べるたとしたらそれだけでは済まず、 きっと、世の中の車乗りに対して非難をしてしまうだろう。 これは本意ではない。
今 (2000年) から十五年以上前だろうか。 私と高校も、大学も同じだった後輩がいた。 一度だけだがその後輩と酒を飲んだ。気のいいやつだった。 その後輩が、交通事故で亡くなった。何かの用事があり、 高速道をかなりの速さで走っていたときにハンドル操作を誤ったのが原因だと聞いた。
別の知人も交通事故で亡くなった。彼はロシアの音楽に興味をもっていて、 モスクワへ研究に行っていた。 冬のモスクワで車を運転していた彼は、 地面の氷にハンドルをとられ、壁に激突したと聞いた。
他にも、私の知人の中に、交通事故で身内の方を亡くしてしまった方がいる。 (こんな話も追加しておく。私の職場の先達で、その後職場を変えた方と話をしたら、 その方は職場の上司を交通事故で突然失った、とおっしゃっていた 2014-04-21 )
とはいえ、人の車には多少後ろめたさを覚えつつも平気で乗ってしまう。 それが私の弱いところだ。
先の宇沢さんの本は既に古典となった。 現在は、杉田聡さんという方が反クルマ運動で有名だ。 杉田さんは、講談社+α新書で、クルマを捨てて歩く!という本を書いている。 ここで挙げられているクルマを運転しないことの利点は私が実感する効用と多く一致する。 たとえば、次のようなことがある。
杉田さんの本には「免許を取らないので、教習所の教官からいじめられていやな思いをすることがない」 という利点は載っていないが、これはクルマを捨てる効用ではないからだろう。
車を運転しないことを説く一方で、この本では歩くことの喜びをも伝えている。 残念ながら歩くことの実践はまだまだだ。中性脂肪は毎年健康診断で指摘される。 自宅から駅まで、また、職場から最寄りの駅までどちらも徒歩5分なので、 歩く効果がないのです。一つ前の駅で降りるといいといわれるが、 そうすると通勤時間が伸びるので気が進まない。杉田さんは歩きながら本を読んだり、 メモをとったりするというが、とても私にはまねできない。なぜなら、 クルマがこわいからだ(2002-06-08)。
追記:2010 年ごろから、朝の通勤だけ勤め先の最寄駅から2駅前でおり、25 分は歩くようにした。 また、2012 年 2 月から勤め先が新宿に移転し、最寄駅が新宿駅に指定された。 私には新宿の混雑が耐えられないので、 一つ手前の新大久保駅を起点として通勤の往復とも歩くようにした。 片道 20 分はかかる(2012-08-19)。
2008年に聞いた話で面白い、と思ったことがある。 今の大学生は運転免許を取らない、というのだ。 車に金がかかるので取らないのか、あるいは教習所の金も払えないのか、 その理由は忘れてしまった。運転免許を取らないことは、大いに喜ぶべきことだ。
この話を聞いたのと前後して、こんな新聞記事を読んだ。 ある東大教授がいうには、東大卒という学歴より、運転免許がよほど役に立つ。 東大で運転免許取得を必須にせよ、という主張であった。そして、 その談話を紹介していた記者も、この主張を支持していた。
結論はなんとも短絡的な発想だが、東大卒という学歴より運転免許が役に立つことは認める。 私がいいたいのは、運転免許を取得してどんな使い方をするのか、 目的を考えてほしい、ということだ。役に立つと一口にいうが、 どんな使い方ならば役に立つか、ということだ。 単に高速道路を爆走してリフレッシュになる、ということだけであれば、 有害無益だ。
私は学生時代、論理学の授業を取っていた。この授業では、前期と後期で先生が交代する。 後期予定されていた先生が、外国の地で自動車事故を起こしたらしい、ということで、 急に別の先生になったことがある。
同じく学生時代、私は物理学の授業を取っていた。厳しい先生で、授業中新聞を読んでいた生徒を指し、 教室を去れ、と叱っていた。 この授業のあと35年以上経ってその先生の名前を新聞で見た。 自動車事故を起こした、というものであった。先生は「事故のことは覚えていない」という。 (2009-08-16)
最近、ある分野で偉かった人が自動車事故を起こし、通行人を死亡させた。 その加害者は、「アクセルが戻らなくなった」といっている。 一部で、その加害者の氏名が報道された。私の学生時代に、就職先で人気のあった組織の長だったのではないか。 その組織は確か、「学部卒業生は受け入れず、大学院卒業生のみを受け入れる」と言っていた。 当時私は学部4年生で、大学院試験に合格するだけの自信もなかったし(学科生は 50 人ほどいたはずだが試験を受けなかったのは私以外誰も聞いていない)。 それはともかく、偉い人でも事故を起こすのだ(2019-05-03)。
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