外国語について

作成日:2000-04-09
最終更新日:

1. はじめに

私は日本語も苦手だし、外国語が苦手だ。英語についての苦手意識は別に書いたので、 他の外国語についてどう苦手なのか、少しは書くべきだろう。

2. ドイツ語

私が大学に入って、第二外国語として選んだのがドイツ語だった。選んだ理由は他でもない、 ドイツ語をやっておけば、シューベルトのリートが歌えるのではないか、 というたわいもないものだった。

1年生のとき、ドイツ語は週に3コマあった。そのうち2コマが文法、1コマが読本であった。 文法を担当したのは K 先生だった。そのときは特に有名な先生とは知らなかったが、 私が卒業して以降、この K 先生は右翼の論客として知られることになる。しかし思い返してみると、先生は特定の思想を授業で開陳することはなかった。 さほど厳しいという感じはしなかった。1年生のときは、ドイツ語の試験は優か良であった。 残りの1コマは、夏学期が簡単な読み物、冬学期が福音書のマタイ伝!であった。マタイ伝の授業には全く出ず、 かろうじて中古で買ったレコードでマタイ受難曲を聴いて(というより解説の対訳が頼りだった)試験だけ受けた怠け者だった。

2年生からはドイツ語は2コマになった。夏学期のうちの1コマは引き続き K 先生だったが、しっかり落とされた。 おまけに、もう1コマは撃墜王と言われたドイツ語作文の A 先生で、これまたしっかり落とされた。

さすがにこれには焦った。ドイツ語の力をあげなくてはいけないと思い、これらの必須ドイツ語とは別に開講されていた少人数ドイツ語というクラスを取り、 毎週課題を提出した(先生の名前は失念した)。 教科書はニーチェの伝記だった。この課題ではドイツ語の作文が必ずあり、私は同じところで間違えるため、先生も呆れていた。 が、課題の提出のかいがあってか、どうやら進級はできそうなめどを立てることができた。 しかし、ドイツ語には最後まで苦しめられた。

ドイツ語は2年生後期が最後だった。ドイツ語の2クラスのうち、1クラスはがりがりのドイツ文学であった。 私はいきなり M 先生に指名され、しどろもどろになりながら訳したところ、教師に冷笑を浴びせられた。 もう1クラスは K 先生だっただろうか。ハイゼンベルクの自伝からの一節であり、こちらは自分の興味も伴って (私の専攻は応用物理)多少は読むことができた。 こちらのクラスでは多少時間があまっていたので、 先生が別に用意してくれたテキストも読んだ。ネタはブレヒトの小さな戯曲。 あらすじは次の通りだったと思うが、 なにぶんにも二十年近く前のことである。正確なあらすじと題名のお分かりのかたがいたら、 そっと私に教えてほしい。

戦争中、一人で暮らしていた中年のもとに、突然将校がやってくる。 将校は中年にこういって脅した。「お前は俺のいうことを聞くか?」 中年は黙って将校の世話をしてやる。将校は至れり尽くせりの生活のなか、 肥満になりそれがもとで死ぬ。 中年は死んだ将校を蹴りあげ、痛めつけ、 悪態をついた後でいう。<Nein.>。

初老の教師は最後の<Nein.>のときにいっていた。 「この<Nein.>はどう訳すのでしょう。日本語の 「いいえ」や「いや」じゃ弱いし。英語の「ノー」でしょうか」

3. フランス語

つれあいの話

私はフランス語には縁がないと思っていた。しかし、フォーレの音楽に興味をもったため、 フランス語も勉強しないと、と最近は思っている。 ちなみに、つれあいは2000年から、 テレビのフランス語講座とラジオのフランス語講座を聞いている。 勉強の甲斐あって、つれあいはフランス語検定の5級と4級に2001年に合格した。 その後つれいはさらに勉強し、3級、2級まで合格した。 しかし、私は何も張り切っていない。

私は学生時代に、ラジオのフランス語講座を半年だけ聞いたことがある。 しかし、その講座で何を学んだか全く思い出せない。かろうじて雰囲気を覚えているのは、 第1講だけである。こんな筋立てだったと思う。登場人物は役者である。 この役者は芝居の幕前で小道具の確認をしている。"Le miroir, la canne"というところだけ 覚えている。フランス語ではそれぞれ鏡、杖であろう。

その後、フォーレが好きになったがフランス語はあいかわらずわからないままであった。 フォーレ好きの S くんから教えられたフランス映画の「田舎の日曜日」を後で見に行ったが、 当然何もわからなかった。一つだけ聞き取れたのは、 "Je suis fatigué." (疲れた)であった。なぜこのことばが聞き取れたのかはわからないが、 Je suis が I am に相当することはラジオで知って覚えていたのだろう。 それから、fatigué. は英語では fatigue という類語がある。 そして映画の光景、これらがたまたま出会ったおかげだろう。

その十五年後、事情があり入院していた先でのこと。患者ロビーでぼんやりしていると、 金髪の患者に向かって熱心にフランス語で話し掛けている初老の日本人と思しき女性がいた。 えらい熱心だなと思って感心していた。 金髪の患者と別れた女性に対して、私は話し掛けてみた。「今のはフランス語ですか? 私には"Je suis fatigué."だけしかわかりませんでしたが」。 とたんに女性は私に対してフランス語で まくしたててきた。ひたすらフランス語を聞いているだけの時間は十分にも達したろうか。 やっとその女性は疲れたとみえて、「もういいわ」と日本語でつぶやいたので私はほっとした。 その後はお互いに日本語で話した。 女性はアテネ・フランセで長い間フランス語を勉強したとのことだった。 納得した。その方がフランス語を勉強した理由は、終戦後、 今さら英語をやる気がしなかったからだそうだ。

私達夫婦は新婚旅行の先にパリを選んだが、全くといっていいほどフランス語は話せなかった。 だいたい英語で用は足りた。もともとあまり遊ばなかったということもある。 予約なしにあるレストランを訪れたところ、だめといって断られたが、 これを理解するのに5分はかかった。 なかなか大変である。

一つだけ自慢できることがある。パリのあるレストランで飲み食いしていたところ、 つれあいが「水が欲しい」と言い出した。 日本のレストランはたいてい水を最初から出してくれるが、ヨーロッパではそうはいかない。 さて水を意味することばは何か。 ラテン系ならアクアのような気もするがフランス語ではどうだったか。 ふと、ラヴェルが作曲した「水の戯れ」というピアノ曲を思い出した。原題はなんだったか。 Jeux d'eau だった。誰かがこの題名に「柔道」という漢字を振っていた、 その落書きまで思い出した。 水は「オ」でいいはずだ。ただ、冠詞もいるだろうからエルの子音をつけよう。 そこで、ウェイターを見つけ、「ロ、シルヴプレ」といった。ウェイターは聞き返すこともなく、 すぐに水をもってきてくれた。

どうやら正解は「ドゥ・ロ」らしい。

2002 年に、最初に書いた思いを実践しようとして、 手始めにフォーレの歌曲に出てくる詩を調べている。フランス語の辞書をひくのも大変だ。 たとえば、彼の作品「優しい歌」の第8曲「ねえ、どうだい」の冒頭で、nous irons とあるが、 irons だけひいてもどうにもならない。 irons が「行く」という動詞 aller のある種の活用形であることがわかって初めて意味がわかるのだ。 困ったものだ。

ただ少しは面白い発見もある。フランス語の on がエスペラントの oni に相当すること、 同じくフランス語の「示す」を表す動詞 montere とエスペラントの montri が似ていることである。 こういうときにエスペラントをやっていて良かったと思う。 もちろん、エスペラント自身をもっと使う努力もしないといけないけれど(2002-01-06)。

日本人の興味とフランス人の興味

つれあいがあるフランス人と知り合いになった。そのフランス人はつれあいと私に 「私は禅が好きなのですが、知っていますか」と聞いた。私たちは答えられなかった。 禅のことを知らないからである。悔しいので、私はそのフランス人に「ガブリエル・フォーレは 知っていますか」と聞くと「知らない」という答だった。ポール・ヴェルレーヌも同様だった。 本当に知らないのか、私の発音がフランス流でないために通じなかったのか、 真実はわからない(2002-02-23)。

演劇のフランス語

2004年5月26日、「シカゴ・ブルース」という劇を観た。 もとの脚本はフランス語である。この日は、前半が日本人による日本語の劇、 後半がフランス人によるフランス語の劇だった。 フランス語はどの程度見当がつくか、少しは楽しみにしていたが、やはり全然聞き取れなかった。 かろうじて聞き取れたのはいくつかの単語だけで、文章となったものは、やはり "Je suis fatigué." (疲れた)だけであった(2004-05-26)。

4. イタリア語

イタリア語は勉強したことがない。音楽をかじっていれば、 フォルテだとかピアノだとか、 アレグロだとかはわかるが、それ以上は知らない。 とはいえ、高校の音楽の先生は声楽を修めた方だったので、 イタリア語の歌を歌わされた。若いということは恐ろしいことで、 今でも「カーロ・ミオ・ベン」はイタリア語の歌詞でそらで歌える。

5. スペイン語

スペイン語は全然知らない。これだけでは何も接点がないなあ、と思っていたら、 セサミ・ストリートを見ていた時のことを思い出した。 今でこそセサミ・ストリートは二か国語放送だが、 昔は英語をそのまま放送していた。英語学習者のため、という名目だった。 で、そのセサミ・ストリートにはたまに、 スペイン語が混ざるのだった。ヒスパニックの文化圏がアメリカにある、 ということを知ったのだった。 もっとも、この放送で知ったスペイン語は、ウノ、ドス、トレスだけだった。

知り合いに S さんという方がいらっしゃった。 この方はある食品会社で外国からの食品の買い付けの仕事をしていた。 スペイン語をばりばりと使っていたらしい(上智大学のイスパニア語専攻とも聞いた)。 あるとき、S さんや私を含めた十何人かでとある催し物に招かれた。 その催し物の余興を頼まれたのだ。どういうわけか催し物にはミスユニバースの何人かが来ていた。 S さんは得意のスペイン語で南米のミスに向かってなにやらかにやら話し掛けていた。 このとき、スペイン語は役に立つのだなあと感心したのだ。 S さんは 2000 年の暮れ、亡くなった。御冥福をお祈りします。

6. ロシア語

大学生になったとき、なんでも自由に学べる気でいた。その一つが語学である。NHK のラジオ講座には、英語のほかにこれらの外国語があった。

というわけで、ロシア語も学生のときラジオ講座で学んでいたのだが、結局何も覚えられなかった。 わたしが覚えているのは、最初に「ウローク,ノーメル,なんたかしたッチ」という音 (たぶん第何課、という意味だろう)と、やはり最初の課で教わった「エータ、アントン」 だけである。字の読み方は少しは覚えたつもりだったが、今では一部を除き忘れている。 ロシアの音楽にもあまり興味がわかなかったし(からきしロシア音楽が苦手だ)、 やはりだめなものはだめなのかもしれない。

私の出身高校から上智大学のロシア語学科に入学した奴がいて、話を聞いてみた。 ロシア語は難しく、そのゆえ教官は皆反ロシア主義者だという。自分もそうなるだろう、 と言っていた。

7. 中国語

本当は中国語でなく、シナ語とか漢語などといえばいいのだろうか。もっと精密には北京語なのだろう。 さて、その北京語なのだが、 大学に入って妙に気合が入ったときに上記の NHK のラジオ講座がある語学すべてのテキストを買ったのが始まりだ。 もっとも、他の外国語と同じく、テキストを買っただけで終わってしまった。

その後はずっと接点がない。あるとき、何を思ったのか中国語を学びたいと思い、 勤務先で中国語の講座があるというので申し込んでみた。すると、「実は中級コースなんですがいいですか」 といわれ、ギャフンとなった。当然断った。

ということで中国語は読み書きすべて未だに接点がない。残念なことだ(2013-01-19)。

8. 朝鮮語

通勤では新大久保駅を使っている。当然、ハングルがあちこちにある。少しはハングルを読めればいいなと思い、 朝鮮語がわかればもっといいだろうと期待していたが、ハングルが読めないまま、今に至っている。 朝鮮語について というページも立ち上げたが、まだ完成していない。

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MARUYAMA Satosi