理想のピアニスト(第7回):曲を論ずること、ピアノを論ずること

作成日:2003-04-05
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前回、個々の曲そのものの出来不出来を議論しなければならない、と書いた。 そのあと、またしても重大な誤りがあることに気が付いた。そのあとの考えがまとまらない。 同じところをぐるぐる回っているようだ。

誤りというのは、個々の曲そのものの出来不出来の議論は、 本来の目的である理想のピアニストについて追求することと異なる、ということである。 ピアニストはさまざまな曲を弾くし、一つの曲はさまざまなピアニストによって弾かれる。 だから、個々の曲を論ずることと、ピアニストについて論ずることとは一致しない。

おまけに、曲の出来というのは、楽譜に定量的に書かれた楽譜の出来というのと、 演奏者を媒介として得られたある解釈による演奏の出来という両者の意味がある。 ここまで論じなければならない。

思うに、今まで書いて来たことはごく当たり前のことである。 それを今さらながら確認するとは、私の頭の鈍さにもほどがある。

さて、私が気付いた誤りは、どのようにすれば直せるか。 一つの方法は、理想のピアニストという論の立て方を止めることである。 もう一つは、ピアニストを通して他の観点も一緒に考えることである。 これからは、後者の考え方で進む。すなわち、曲の出来不出来や、 作曲家の個性、演奏のあり方を、すべてピアニストを媒介として考える、ということである。 言い換えれば、ピアニストを中心に考えるというより、 各種の見方をピアニストと結び付けてしまうということである。 たとえば、次の見方を統計的な(すなわち多数の例で成り立つ) 事実として認めようということである。

ここまでうるさく論じてきて、 初めて私が理想とするピアニストについて意見をしたためることができるような気がしてきた。 何ともまだるっこしい書き方でごめんなさい。

追記:振り返ると、そもそも「よい出来の曲」というのをどのように定義するのだろうか。俺の考えていたことが俺にはわからない (2016-03-26) 。

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MARUYAMA Satosi