理想のピアニスト(第6回):ピアニストに関する観点

作成日:2003-03-30
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前々回、前回と、ピアノそのものから少し離れて考えを述べてみた。 そろそろピアノとピアニストに戻って考えてみたいが、もう少し一般論を続けてみたい。

プロのピアニストは確かに存在する。なぜ、プロはプロ足りうるのだろうか。

ピアニストに関して、次の観点が考えられる。

  1. 聴衆
  2. 環境

まず、ピアニストは、ピアノ曲を弾かなければピアニストにはなれない。 どんな曲を弾くかということについてはさておき、曲は存在する。 ジョン・ケージの4分33秒という極端なものも、曲は曲である。

次に、ピアニストが曲を弾く時、聴衆が存在しないといけない。 最近「だれもいない森の中で木が倒れたら音が出るか」という哲学の問題があることを知った。 この問題と答は、 お笑い哲学者である土屋賢二氏の真面目な論文集「猫とロボットとモーツァルト」に収められている。 この答を導き出すプロセスに驚きながら、 ピアニストにおける聴衆の必要性を感じた。

最後に、環境と記したのは、曲でも聴衆でもないもろもろの対象としてもよい。 普通に考えると録音か実演かという場の問題が大きいが、そのほかにもあるはずだ。

このように考えると、ピアニストからみた場合には、直接の対象は曲そのものであり、 「曲を作った専門家、すなわち作曲者」というのは副次的な関係しかない。 この結論は自分でもおかしいと思う。 というのは、クラシックではバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、 ショパンというように、 作曲家の分類が重要と思われている。これはどういうことだろうか。

曲を分類するには、それを作曲した人によるもののほか、 作品年代、作品ジャンル、作曲技法、作品誕生背景など、さまざまなものが考えられる (ピアノ曲は他の器楽曲に比べ、聴衆は調性を重視することも付け加えておく)。 しかし、分類の基準としては作曲家によるものが一番多い。 モーツァルト専門家が存在すること、ショパンコンクールが盛り上がることは、 分類の基準が作曲者であるという現実を反映している。 フーガのスペシャリストというのはまず聞かないし、 トッカータ国際コンクールなどは考えることさえ難しいだろう。

かくいう私も特定の作曲家に入れこんでいる。なぜ曲そのものでなく、 曲を作った人物を重要視することになるのか考えるつもりだったが、 面倒なのでやめた。それでも敢えて言うとすれば、作曲家という分類をすることで、 作品を思考する労力の軽減になるからだろう。 作曲家というフィルターをはずして曲そのものの研究をするのは、 相当に大変な作業となることは間違いない。

私も、そして周りも特定の作曲家を讃えたり貶したりしているが、 本来は個々の曲そのものの出来不出来を議論しなければならない。 自戒を込めて、この項を終える。

追記:古楽とか現代音楽というくくりはできるかもしれないが、それだって作曲家による分類と似たものだろう(2016-03-26) 。

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MARUYAMA Satosi