加藤 秀俊:なんのための日本語

作成日: 2010-03-21
最終更新日:

概要

「文字本位」ではなく「はなしことば」をだいじにしよう、 漢字はできるだけつかわないようにしよう、 ものごとすべてわかりやすいほうがいい と説く、日本語利用者からみた著者の日本語論。

感想

表記が独特である。動詞はひらがな、音読みの単語は漢字でほぼ一貫している。 話しことばが大事というのもわかる。 そして、日本語を学ぶ外国人の日本語に慣れろ、というのもわかる (わかるけれど、ききづらいだろうな)。 しかし、わからないことも多くあった。

外国人の日本語と日本人の日本語

外国人の日本語に慣れろ、というのはいたるところに書かれている。 たとえば、69ページにはこうある。

「母語ばなれ」したさまざまな日本語を許容し、 おたがいに理解することにつとめることこそが日本語の国際化というものだろう。

一方で、113ページから121ページまでは、 日本語で適切な距離感をとることの重要性を力説している。 距離感というが、実際には敬語である。 なぜ「母語ばなれ」の日本語を許容してにもかかわらず、 正しい「敬語」を使うべしと力説するのか、その違いがわからなかった。

これらについての説明は、最終の章にあった。p.240では次のように言っている。

外人のはなす日本語は(中略)「通じる」日本語ならそれでいい。 (中略) とはいうものの、そのことは日本語を母語としてそだった「日本人の日本語」 もまたいいかげんであっていい、ということを意味するものではない。 (中略) 「母語日本語」をはなす人間たちが模範をしめさなければ「外語日本語」 がよくなるはずがない。

模範を示すべきだ、という著者の主張はわかる。 しかし、日本語はもうわけのわからない状態にまでなった。 いまさら、正書法をまとめることができるだろうか。むりだろう。 外国人が日本語を学ぶときの教科書も多く出てきているから、 それらを使っていいのではないか。 外語日本語と母語日本語を区別する必要はなく、 すべてが日本語であると考えるべきだ。

もっとも、私は著者の書き方、すなわち漢字は漢語、 すなわち音読みの単語にのみ用いる、という方針はよいと思う。 自分で使うには違和感が残るが、読みやすいのはいいことだ。 具体的には、この段落の「もっとも」を「最も」か「尤も」かを意識する必要がないからだ。

漢字の使用とふりがな

あとがきで、とくにむずかしい固有名詞以外はルビをふらなかった。(中略) そして漢字の濫用がいかにめんどうであるかがわかっていただけるとおもうからである。 とある。これはずるい。 なぜかというと、p.216 で めんどうな文字にはかならず「ふりがな」をつけてください。 ましてや、ただしくよんでもらえない、 などというのはその文字をつかわなかったひとの責任である。 よめないからといって劣等感などもつにはおよばない。 とあるからだ。

この本の著者だって、難しいことばを使っている。たとえば、さきほどの引用文に 「濫用」がある。 これだって、≪漢字をつかいすぎることがいかにめんどうであるか...≫ とすればいいだろう。

それでも、漢字の使いすぎには気をつけよう、 と自覚できたことはこの本のおかげである。 たとえば、「Q さま 」という、難しい漢字を読むクイズ番組は、 以前は楽しみにしていたが、もう今では興味がなくなった。 それから、麻生太郎の漢字の読み間違いも、 今はからかう気にはなれない。

書 名 なんのための日本語
著 者加藤 秀俊
発行日20年?月??日(初版)
発行元中公新書
定 価740円(本体)
サイズ新書判
ISBN978-
その他越谷市立南越谷図書館で借りて読む。

まりんきょ学問所読んだ本の記録 > 加藤 秀俊:なんのための日本語


MARUYAMA Satosi