テーオドール・アドルノ:楽興の時 |
作成日: 2015-03-07 最終更新日: |
音楽評論家としてのアドルノの評論集。目次は次の通り。
それにしても、翻訳が難しい。きっと、原文も難しいのだろう。
シュトラウスでなく、ブゾーニでもない。
といきなり始まって困ってしまった。シュトラウスとはワルツ王、ヨゼフ・シュトラウス二世ののことだろうか、
それともリヒャルト・シュトラウスのことだろうかと迷った。この文脈ではワルツ王ではありえないから、R・シュトラウスのことだとわかるが、
まずそれだけのことでも頭を使わないといけない。次にはこう続く。
前者は、持ち前の活力あふれる素朴さにあわただしく立ちかえる習性を有し、後者は、それを考え企てたけれども、
音楽そのものにおける形象化に成功したことはかつてなかった。
後者の「それ」とは何だろうか。「持ち前の活力あふれる素朴さ」のことだろうか。いや、そうすると、音楽のそのものにおける形象化に成功した、
という記述とうまくつながらない。そして次の文はひとりラヴェルだけが、鳴りひびく仮面の大家である。
と続く。
ということは、俺が整理するとこうなる。
ということは、後者の「それ」とは、すぐ後で出てくる「形象化」のことだろう。さて、形象化とは何か。インターネットで調べると、 思想や感情などを何らかの手段で形や象徴として表すこと、とある。すると、音楽は思想や感情をもっているということになる。 なぜラヴェルが成功したのか。いやだいたい、何をもって成功とか失敗とかと判断するのだろうか。もっと読まないとわからない。
少し読み進むと、ラヴェルとドビュッシーを比べてしかし個性というものは、たがいにもっとも近接した時ほど、判然と食い違ってくることもないのである。
といっている。最後の「ない」が気になる。文意としては「食い違いが判然とする」ということではないだろうか。
わたしにしては入りやすいと思ったラヴェルでさえこうだった。まして、他の評論は歯が立たないに違いない。
書 名 | 楽興の時 |
著 者 | テオドール・アドルノ |
発行日 | 年月日 |
発行元 | 白水社 |
定 価 | 円(本体) |
サイズ | ページ、 |
ISBN | |
その他 |
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