廣松 渉(編):資本論を物象化論を視軸にして読む |
作成日: 2021-01-28 最終更新日: |
「まえおき」から引用する。
『資本論』を“純粋経済理論書”としてでなく、 或る種の論者からは夾雑視されていた“非経済学的”な部面をも体系の内部に位置づけつつ、 トータルに解読することによって、 マルクスが近代市民社会・近代文明・近代的価値感、等々の地平を対自化し、 それを踰越する方向を指し示した構制が
闡 かになります。 そのことで、『資本論』という古典のもつ現代的アクチュアリティもあらためて宣揚される所以となりましょう。
「まえおき」からの引用で雰囲気はわかると思うが、私にとって見慣れない語が次々と出てくる。 辞書を引くだけで精一杯、というのが私の偽らざる気持である。なお、上記の引用文中、 <近代的価値感>は誤植ではない。p.55 の右から6行めでは、 わざわざ<当事者の主観的価値感>と傍点が打たれている。
それはともかく、とにかく読み進めるのが大変だ。第一講、第一節「商品の二重規定」 からして大変だ。p.7 にこんな文章がある。
当事者たちの日常的意識にとっては、「商品」は、このように、 使用価値と価値という「二要因」をそなえた事物の相で現前する。
なんだこれは。使用価値というのは価値の一部ではないのか。しかし、そうではない。 単なる「価値」はある内実である。どんな内実かというと、 <交換価値なるものは、交換価値それ自身とは区別されうる別の或る内実を表現する様式たるにすぎず、 或る内実の“現象形態”にすぎない」という説明にある、別の或る内実のことをいうのだそうだ。 だからこれから使用価値でない「価値」ということばが出てくるときは、 「内実」だの「交換価値」だのを頭に思い浮かべながら読まなければならない。なんということだろう。
書 名 | 資本論を物象化論を視軸にして読む |
編 者 | 廣松 渉 |
著 者 | 廣松 渉, 高橋 洋児, 吉田 憲夫, 山本 耕一, 石塚 良次, 須藤 修 |
発行日 | 1986 年 7 月 3 日 |
発売元 | 岩波書店 |
定 価 | 3200 円(本体) |
サイズ | |
その他 | 岩波セミナーブックス 18 |
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