土屋 賢二:猫とロボットとモーツァルト

作成日: 2009-09-06
最終更新日:

概要

芸術とは何かを巡る論考である表題論文のほか、存在論に関する論文2編、 時間概念を探求する論文1編、知覚に関する論文2編ほかを収める。

感想

猫とロボットとモーツァルト

表題の論文が面白い。それは、私の関心が音楽にあるから、でもある。 ただ気になるのは、このような関心からは音楽美学という領域があって、 そこでかなりの部分が論じられているのではないか、 という不安である。

とはいえ、芸術と非芸術を区別するさまざまな観点を挙げ、 本質に迫るところは見事だ。 そして、その中にも、悲劇のマラソンランナーである円谷幸吉の遺書(実は原文のままではない) まで引用されているところを見ると、哲学においては見通しを広げることが重要だ、 と思わされる。

この不思議な題名の理由を考えてみた。 論文の第4章は「なぜ猫は作曲しないのか-デタラメと規則のあいだ」という表題が付けられている。 「猫がピアノの鍵盤の上で出す音がなぜデタラメだと言えるのだろうか。」 という疑問から、さまざまな可能性が検討される。 私はここで、昔の論争を思い出す。「ピアニストがピアノを弾いても、猫がピアノの鍵盤の上で歩いても、 出る音は同じじゃないか」と言った音楽美学者があった。 また、音の動きがデタラメに聞こえるフーガの主題から 「猫のフーガ」と題されたスカルラッティの作品もあった。 そんなことで、猫はデタラメの対象にされているのである。

ロボットは、芸術を解するロボットができるか、という文脈で触れられている。

そしてモーツァルトは、芸術を作る代表者として挙げられている。もっとも、 著者の解説はクラシックではなくむしろジャズを元に展開している。

だれもいない森の中で木が倒れたら音が出るか

なかなかわからない論文であった。なぜか。 第2段落では、常識的な考えとして、「人間が聴いていなくても、木が倒れたら音がでるはずだ。」と著者はいう。 これを受けた第3段落で「アリストテレスの立場も常識に一致する。」 と書き出している。ところが、後に著者がまとめたアリストテレスの主張はこうである。

(P)「(物体から)現に音が出ている」のは「現に音が聞こえている」時、またそのときだけである。

あれ、常識では、木が倒れたら(聞こえなくとも)音が出るといっているのに、なぜだろう。 著者は(P)の解釈としては、「特定の状況」、「特定の条件」のもとで必然的に成立する、というのが自然とする。 ここで、「特定の状況」とは列挙できないほど多様な条件を含んでいるとして、たとえば、 音源から適当な距離にいる、音が十分な大きさである、等々を列挙している。

私は、ここでコンピュータソフトウェア開発との類似性について考える。 というのは、音が聞こえることの判定をコンピュータが行うことを考えてみよう。 すると、「特定の状況」をそのつど列挙して書き下さないと、要件「音が聞こえたら音が出ていると判断する」 を満たせなくなってしまうのだ。こわいことである。(2009-09-06)

書 名猫とロボットとモーツァルト
著 者土屋 賢二
発行日年月日
発行元頸草書房
定 価円(本体)
サイズページ
ISBN

まりんきょ学問所読んだ本の記録土屋 賢二:猫とロボットとモーツァルト


MARUYAMA Satosi