佐々木 俊尚:「当事者」の時代

作成日: 2015-03-12
最終更新日:

概要

「当事者」をめぐる多くの事例を引いて、私たちが今何をすればいいのかを確認する。

感想

考えは難しいが、随所に出てくるできごとが面白い。たとえば、pp.160-161 で述べられている川島豪(かわしまつよし)にかかわる話である。 川島は連合赤軍のリーダーであったが、出獄後家業の屎尿くみとり会社を経営した。そして岐阜県環境事業協同組合(岐環協)の理事となり 行政への不満があれば組合傘下のバキュームカーを動員し役場で抗議デモを行った。同書によればバキュームカーの中身をぶちまけることまでやったという。 ちなみに、バキュームカーの動員については 岐環協のホームページ(www.gikankyou.or.jp)でも掲載されている。 このような運動について、同書はこう記録している。

岐環協と川島豪という名前は「元連合赤軍」という恐ろしい肩書きとともに岐阜県下に響きわたったのだった。川島の名が出るたびに、 地元の人たちはバキュームカーのデモを思い浮かべ、「あれは黄色い革命を目指してるんだ」と口々にささやき合った。

ことばについて

同書で出てくる聞きなれない言葉について整理してみよう。

サバルタン

自らを語ることのできないマイノリティを指す人類学の用語。もともとは社会の支配階級に服従する底辺の層を指していた。 サバルタンは支配階級に抑圧されているので、自らを語る語ることができない。 したがってサバルタンのことを語れる、書けるのは支配階級のみとなる矛盾した状況をはらむ。(p.305)

マイノリティ憑依

マイノリティ=最下層がもつべき革命思想は、学生や大学教授といった上層の活動家によって独占されているという矛盾した状況を打ち破るために、 活動家が最下層まで堕ちていくことを「憑依」と表現した、著者の造語。(p.292)

オーバードース

原意は薬物を適量を超えて過剰に摂取すること、およびそのために生じる副作用を指す。 著者はこのことばを次の場合に使っている。小田実の提唱した<被害者=加害者>論は、 被害者であることは加害者であることと不可分であることを前提としている。ところが、この前提が欠落してしまうと、 <被害者抜きの加害者論>にいたる。あるとき小田は、血気盛んな若者がこの<被害者抜きの加害者論>を振りかざした事件に直面した。 この事件をとらえた著者がオーバードースと名付けた。小田の<被害者=加害者>論が思想という薬物の適量摂取であることと対比させて、 問題となる<被害者抜きの加害者論>は思想の過剰摂取による副作用と著者は考えた。

新宿西口バス放火事件

終章で、新宿西口バス放火事件について記載されている。私はそのころ高校生で、その凄惨な写真を今でも覚えている。 その写真に秘められたある事実について取材があるが、ここでは伏せる。ある傍観者が当事者となった事例とだけは言っておこう。

私の職場は新宿駅近くにあり、この新宿西口バスターミナルも何度も見ている。そして見るたびに放火事件を思い出す。 この本を読んでから、私は当事者なのだろうか、と問わずにはいられない。

また、通勤経路には新大久保駅もある。ここは、ホームからの転落者を救おうとして2名が亡くなったところだ。ホームドアが2014年に設置されたが、 いつあのような事故がどこかの駅で起こるかもしれない。そのとき、私は当事者なのだろうか、と考えるだろう。

当事者のことをエスペラントでどのようにいうか

当事者、という意味のエスペラントはどのようにいうのだろうか。辞書にはいろいろあるが、たとえば阪直さんのエスペラント作文を見てみよう。 作文 n-ro395 ではこのように言われている。

無冠詞の koncernatoj を使った訳が応募の大部分を占めましたが, この語には冠詞を付けて言いましょう。 koncernato はいつも冠詞を付けて使われるとおぼえておいてよいでしょう。 例えば,聞き手が知っている訴訟事件について言うときは la koncernatoj de la afero(例の訴訟事件の当事者) と冠詞付きの afero を使って言いますし, 聞き手の知らない訴訟事件の当事者について言うときは,la koncernatoj de afero(ある訴訟事件の当事者) と無冠詞の afero を使いますが, どちらの場合も koncernato には冠詞が付きます。

以上の説明は、koncernato にいつも冠詞が付く理由としては不足していると思う。私の考えでは、 聞き手の事件に関する認否にかかわらず、事件が決まっていれば当然、その事件に関連する当事者がいると考えてよいから、というの冠詞がつく理由である。 なお、ここでの冠詞とは無条件で定冠詞を指す。エスペラントには不定冠詞はなく、単複にかかわらない定冠詞 la のみがある。 以下、本稿で冠詞といえばエスペラントの定冠詞 la を指す。

さて、この本の題名をエスペラントに訳した場合、当事者、すなわち koncernatoj (語尾の j はエスペラントでは複数を表す)には冠詞 la をつけるべきなのだろうか。 私はつけられないと思う。なぜなら、ある事件を特定したとして、この本の主張によればその事件の当事者が特定できるとは限らないからである。 著者は p.460 でこういっている。

私があなたに「当事者であれ」と求めることはできない。なぜならそれは傍観者としての要求であるからだ。
 だから私にできることは、私自身が本書で論考したことを実践し、私自身が当事者であることを求めていくことしかない。
 そしてそれはおそらく、マスメディアの記者たちにも同じ課題が用意されている。
 そしてさらに、それはソーシャルメディアに参加する人たちにもやはり同じ課題が用意されている。
 そう、あなたはあなたでやるしかないのだ。

これは、事件を特定しても当事者は特定しえない、つまり一個人から「自分が当事者だ」と認識できれば当事者になれるからである。 もしある事件に対して「自分が当事者だ」と認識できている人が数えられ神様のような人がいれば、 冠詞はつけられるだろう。しかし、ものを書くのは(少なくとも著者の佐々木氏は)神様ではないし、 そんなことをいったらすべての名詞に冠詞がついてしまうだろう。ということで、冠詞なしの koncernatoj を採用する。

書誌情報

書 名「当事者」の時代
著 者佐々木 俊尚
発行日年月日(第37版)
発行元光文社
定 価950円(本体)
サイズ
ISBN978-4-334-03672-0
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MARUYAMA Satosi