藤谷 治:船に乗れ! Ⅲ 合奏協奏曲

作成日 : 2011-08-20
最終更新日 :

概要

主人公の津島サトルは高校3年生になった。考え、悩み、進路について重大な決断を下す。

感想

この第3巻では再度音楽が主軸に据えられる。頂点となるのは、バッハのブランデンブルク協奏曲第5番だ。 副題の合奏協奏曲は、このブランデンブルク協奏曲を指している。

私がこの巻で印象に残っているのは第二十章の次のくだりだ。ながくなるが勘弁されたい。 同級生のフルート吹きの伊藤が、主人公の津島に向かって声をかける場面である。(pp.21-23)

「津島、大丈夫か?」
(中略)
「別に」
僕は伊藤をちらっと見て、わざとそっけなく答えた。
「なんか、元気ないけど」
伊藤はおずおずといった。
「んなこと、ねえよ」僕は答えた。「別に普段から暴れてるわけでもねえだろ」
「そうじゃなくて、チェロが」
伊藤は僕が一番気にかけていることを、平気で口にした。
「チェロが、なんだよ」
「おとなしくなってる」伊藤はいった。「なんていったらいいのかな……。ワイルドじゃないっていうか、ぶんぶんいわなくなった」
「なんだそれ」
僕は笑い飛ばすフリをしようとしたけれど、伊藤には見抜かれていたと思う。
「この時期に楽器鳴らしてぶんぶんいうようじゃ、駄目じゃねえか」
「そうかもしれないけれど……」
(中略)
「でも僕、津島のぶんぶん弾くチェロ、すごい好きなんだけどな。あれが持ち味だと思うけど」
「大学の実技試験が控えてんだよ。持ち味なんて今は邪魔なんだよ」
「ほら」伊藤は僕を指差していった。「そのいいかた。そんな保守的なこと、前はいわなかったよ、お前は」
「うるせえなあ」そういって僕は、乱暴にチェロを構えた。「ぶんぶんいわせりゃいいんあろ、ぶんぶん!」
(後略)

何が好きかというと、この「ぶんぶん」という擬音語がものすごくしっくりくるからだ。 第1巻では、 津島は自身が出演したオーケストラでコンマスの後から登場するという何様チェリストとして、 三学期までたっぷりみんなにからかわれることになったと述懐している。 傲慢で口調が荒いけれどみんなに慕われる性格が、伊藤のいう「ぶんぶん」でみごとに言い表されていると思うからだ。

音楽上の詮索

大作曲家たち

津島はバッハの無伴奏チェロ組曲の練習に難儀して、悩む。

いつになったら弾けるようになるのだろう。四小節目までを弾けるようになっても、 まだ五小節目が、六小節目が、七小節目が待っている。楽譜は頁をめくってもめくっても続き、 たとえバッハの楽譜を、僕の一生が終わる前にめくり終えられたとしても、 その次にはボッケリーニが、ベートーヴェンが、シューマンが、ラロが、ドビュッシーが、プロコフィエフが、プーランクが待っている。 それなのに僕は、バッハのニ短調のクーラントが弾けずにいる。もうすぐ十八歳になる僕が。

津島が列挙した大作曲家の作品には何があるのだろう。 ボッケリーニは弦楽五重奏曲からのメヌエットで有名だが、チェリストには難物のチェロ協奏曲で恐れられている。 私も一度実演を聞いたことがあるが、生半可なプロでは太刀打ちできない。ハイポジションが続く恐ろしい曲である。 ベートーヴェンは言うまでもない。チェロ協奏曲こそないが、チェロソナタ5曲はチェリストの宝である。 また、トリプルコンチェルト(ピアノ・ヴァイオリン・チェロ)もあり、あまり知られていないがチェロのパートは難しい。 シューマンには、津島が好きといっているチェロ協奏曲がある。これは本当にシブすぎる。 なお、シューマンはあらゆる分野に曲を残したが、チェロソナタはない。 ラロはチェロ協奏曲が有名だ。 ドビュッシーには、チェリスト誰もが憧れるチェロソナタがある。 プロコフィエフは、チェロ協奏曲もチェロソナタもあり、難物だ。 プーランクは管楽器の作品群が有名だが、意外にもチェロソナタがある。あまり日の目は当たらないが、 佳品である。

バッハ:ブランデンブルク協奏曲第5番

この曲を、私はピアノで弾いたことがある。自分が参加した曲は思い入れがそれだけ強くなる。

音楽上のちょっかい

バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調

津島が重大な決断をしたきっかけとなったのがこの曲のクーラントである。冒頭は次の通りだ(Becker 版)。

第23章p.78では次の会話がある。地の文は津島の練習と述懐、カギカッコは津島のチェロの師である佐伯先生の注意である。

2、2、4、1、4、0、1、弓を返して1、3、4、3、4、3、4,1、和音。 エフもアーもまだ高い。和音も和音になっていない。それでも先へ進む。0……。
「そこはアップ」
アップで0.それから1、2、4、3、4、1……。

引用した1、2、4、3、4、1……の数列は、正しくは1、2、4、2、4、1……ではないか。 その理由は次の通り。アップで0は、2小節1拍めの和音の次、16分音符の D を指す。 上の楽譜でも0の字が書かれている。なお、0は左手の指を使わないこと、言い換えれば開放弦で出すことを表している。 次の1、2、4は順に音名で E D G である。その次、もし3だったら音は G の半音下の Fis でなければならない。 4である小指と3である薬指は常識的には半音の幅しかとれない。ところが楽譜は Fis ではなく F となっている。 したがって、指記号は4の次には2が来るのが正しいと予想する。

数字一つにずいぶんと粘着質の解説をしたが、津島の運命を決めた曲である故、私も通常を超える感情移入をしてしまった、ということだ。

書誌情報

書 名 船に乗れ! III 合奏協奏曲
著 者 藤谷 治
発行日
発行元 ポプラ社
シリーズ ポプラ文庫ピュアフル
定 価 620円(本体)
サイズ 文庫版(15cm)
NDC 913
ISBN 978-4-591-12401-7

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MARUYAMA Satosi