組織の記憶 |
作成日:2000-07-01 最終更新日: |
痛みは忘れずに、繰り返し伝える。
この「組織の記憶」という句が気になっている。 どこで聞いたのかすっかり忘れてしまった。 忘れそうになった頭で記憶の断片を拾い集めた。 次の文脈で語られていたようだ。
成功するプロジェクトもあれば、失敗するプロジェクトもある。 その成功のコツや失敗から得た教訓は個人では記憶されている。 しかし、組織としては記憶されていない。そのため、成功のコツを生かすことは できないし、 失敗の教訓は生かされない。これは、組織の記憶がないためだ。
これは耳の痛い意見であった。私がリーダーをしていたときは 痛い目に何度もあっていて(そしてメンバーを痛い目に合わせていて)、 二度とこんなことをしたくない、させたくないということがゴマンとあった。 しかし、人間は嫌なことを忘れるようにできている。私の場合はなおさらだ。 これでは、後に続く人間のためにならない。 この場を設ければ古傷がうずくが、罪滅ぼしである。
絶えず言うことは、難しい。自分で飽きるからだ。 しかし、言わなければならないことは、言わなければならない。 これすらできないと、私のようなダメなリーダーになってしまう。
言わなければならないことを言い続ける、これにあてはまる例があった。 私がやっていたのではない。また分野も違う。何か。安全である。
妙だと思うだろう。私もそう思う。しかし、安全に関する教育を 8年間受け続けたその過程は、今でも残っている。
私は社会人になって8年の間、ある重厚長大産業の工場にいた。 正確にはその工場と同じ敷地のある研究所にいた。 私の研究は軽薄だったが、安全だけはしっかりと重厚に受けさせられた。 工場の敷地を歩くときは、 出勤退勤を除いて安全靴・きゃはん・ヘルメット着用である。 工場の人間にとって、これら3点セットは必須だった。 いかんせん、これらがなじむようになったのは入社後8年目だった。 この年、工場を去った。
去って初めてわかったことがある。 3点セットを怠ると、上から物を落とした時に足を傷めたり、 ズボンのすそが回転体に巻き込まれたり、頭を低い天井に打ったりする。 これらの怪我を予防するための道具だったのだ。