大変ながらくお待たせ致しました
レイル・ストーリー7、只今発車します


 ●二つの『しらさぎ』ものがたり(前編)

北陸地方には富山・石川・福井の各県にローカル私鉄が存在する。現存する路線は随分少なくなってしまったが、今なお活躍を続けているのは全国的にも珍しいケースだ。

石川県加賀地方に点在する「加賀温泉郷」には、かつて北陸鉄道の線路が温泉地に張り巡らされていた。どの路線も湯治客で賑わったが、いずれも現在は廃止されてしまっている。
最後まで残っていたのは北陸本線の大聖寺から山中温泉を結ぶ山中線と、その途中の河南から山代温泉を経由して北陸本線の動橋(「いぶりばし」と読む難読駅名の一つ。北陸鉄道の駅は新動橋)までを結ぶ山代線だった。

山中線の前身は古く、明治33年5月16日山中馬車鉄道の手により全通を見ている。つまり電車ではなく馬車でのスタートだったのだ。のち輸送量の増加に馬たちが音をあげてしまったようで、大正2年3月18日に電化されて石川県で初の電車が走り出した。相前後して山代線の前身の山代軌道、北陸本線粟津駅前の符津から粟津温泉を結ぶ粟津軌道などが続々と誕生し、温泉郷へのアクセスがつくられていく。
のちこれらの会社は統合され「温泉電軌」となり戦前の活況を迎えることになるが、路線の小松への延長や、逆に大聖寺から海沿いに福井方面へと向かう計画は、昭和6年の山代大火の影響で実現しなかったという。しかも昭和16年11月28日には山代温泉にあった車庫が火災に遭い、多くの電車を焼失してしまった。温泉電軌は焼け残った足回りを利用して電車をつくったが、それもつかの間昭和18年には陸上交通調整法により、金沢の市内電車を運営していた金沢電気軌道を前身とする北陸鉄道と合併することになる。もと温泉電軌の路線は総称「加南線」と呼ばれるようになった。

戦後の復興により加南線には湯治客が戻って来たが、所詮沿線の人口は少なく経営は思わしいものではなかった。そんな中で昭和37年11月22日に粟津線の宇和野-新動橋間が姿を消し、続いて昭和40年9月24日には片山津線の動橋-片山津間も廃止された。残ったのは山中線・山代線だけとなってしまった。

しかし北陸鉄道は迫り来るモータリゼーションを簡単に受け入れようとはしなかった。
廃止された他の路線よりも距離が長い山中線・山代線では、その方向性を探ろうと昭和37年に新車6000系が導入された。名古屋の日本車輛で製造されたその電車は『くたに』と愛称がつけられ、急行列車を中心に走り出した。ちなみに『くたに』とはこの地方の伝統工芸品、九谷焼からとったものである。電車の正面にはその九谷焼でつくられた「くたに」のエンブレムが飾られた。またこの電車は乗り心地もよく大好評で乗客に迎えられ、翌年さらに新車を導入することになった。

6000系『くたに』は足回りを含めた完全な新車だったが、今度は余剰となる旧型車の足回りを再利用することになった。『くたに』に比べれば非力なのは否めなかったが、当時まだ日本でも採用例がなかったオールアルミ車体を採用することで車体を『くたに』のスチール製よりもずっと軽量化し、『くたに』と同等の性能を持たせることになった。
日本初のアルミカー北陸鉄道6010系は昭和38年に加南線にデビュー、僚友『くたに』と共に活躍を始めた。なんといってもアルミボディは斬新かつ眩しい存在だった。

北陸鉄道で現役当時の『しらさぎ』6010系
北陸鉄道加南線にデビューした『しらさぎ』

その色は、かつて羽根に怪我をした白い鷺がその温泉の湯で傷を癒していたという山中温泉発祥の伝説にイメージが重なることもあって、電車の愛称は『しらさぎ』と名付けられた。
北陸鉄道『しらさぎ』は『くたに』と共に加南線のスターの座に君臨し、山中温泉・山代温泉は大聖寺から北陸鉄道の電車で…というのがいっそうポピュラーな存在となった。

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同じ頃、全く別の『しらさぎ』を名乗る列車が現われた。

昭和38年8月24日に富山まで交流電化された北陸本線には、翌昭和39年12月25日から待望の特急電車481系がデビューした。富山-大阪間の『雷鳥』と富山-名古屋間の『しらさぎ』である。この年には東海道新幹線が開業しているが、当時在来線近代化のフラッグシップ的存在だった「こだま型」をそのまま受け継いだスタイリングは、実にセンセーショナルなものだっただろう。

北陸線特急『しらさぎ』
北陸線特急にデビューした『しらさぎ』

それまで北陸本線の特急といえば大阪-青森・上野間の『白鳥』が唯一の存在だった。なにしろこの頃は特急列車というのはホントに特別な存在で、停車駅は一つの県に一つというのが定説だった。石川県内では県庁所在地の金沢の他に加賀温泉郷があるということでもう一つ停車駅が認められていたが、『白鳥』運転開始の頃は誘致合戦が激しく、結局上りが動橋、下りが大聖寺に停車して事を納めたという話が残っている。しかしこの変則的事態は『雷鳥』『しらさぎ』が加わったことで解消したという。大聖寺駅では国鉄特急『しらさぎ』と北陸鉄道『しらさぎ』の両方が見られることになった。

『しらさぎ』は『雷鳥』と共に仲間を増やしていくが本来中部地方である北陸と中京という繋がりよりも、経済圏としての繋がりはむしろ関西とのほうに重きがあり、山陽新幹線が全通した昭和50年3月の時点で『雷鳥』は12往復まで成長したのに対し、『しらさぎ』は6往復までにしかならなかった。

北陸路で産湯を浸かった481系電車は、のちに改良型の485系となって活躍の頂点を迎えることになる。北陸路はもとより、山陽・九州系統の特急も一気にまかなうオールラウンダーとしての座を確立していく。『しらさぎ』『雷鳥』もこの電車で仲間を増やしていったのはもちろんだが、昭和47年3月のダイヤ改正ではちょっとした変化が『しらさぎ』に現われた。

北陸線特急『しらさぎ』に進出した583系

名古屋-博多間の夜行寝台特急『金星』の電車581・583系は、昼間は特急『つばめ』に使用されていたが、山陽新幹線岡山開業により『つばめ』が岡山始発着となり、代わってこの時増発された『しらさぎ』として北陸路に姿を見せるようになった。今までになかったそのスタイルはちょっとしたアクセントにはなったが、やはり特急といっても急行と同様な向かい合わせシートは評判が悪かったのか昭和53年10月の改正で『しらさぎ』から撤退している。

ただしこの時には逆に『雷鳥』の内4往復にこの583系が進出、寝台特急で休止していた食堂車まで営業再開というオマケまでついたが、やがて食堂車は再び営業休止となり、昭和60年3月には『雷鳥』からも撤退した。その583系は後に北陸線の普通電車419系に改造され、三度目の北陸進出を果たしてはいるが…。

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北陸線特急『雷鳥』『しらさぎ』の本数が増えてくるに従い、加賀温泉郷への誘客に問題を引き起こすようになった。

山代・山中温泉へは大聖寺、片山津温泉へは動橋、粟津温泉へは粟津がそれぞれ玄関口となっていたが、特急がすっかり大衆化されたとはいえ1〜2駅しか離れていないこれらの駅に、特急を全て停車させるのはスピードダウンの原因になってしまう。かといって列車ごとに停車パターンを変えるのにも限界がある。そこで当時の国鉄金沢鉄道管理局は既に北陸鉄道粟津線、片山津線が既に廃止されてバス転換されていることから、加賀温泉郷への玄関口を一本化し、そこに特急を停車させて乗換えの効率アップを図ることを決めた。

新しい駅は大聖寺-動橋間にあった作見駅を少し移転したもので、昭和45年に完成。駅名はズバリ「加賀温泉」となった。駅前には各温泉地に向かうバスの停留所が設けられ、鉄道に代わる新たな温泉アクセスとしてのスタートを切った。

しかし加賀温泉駅の開業は唯一残った北陸鉄道加南線に大きなダメージを与えた。なにしろ大聖寺に国鉄の特急列車が停まらないのでは乗客は減る一方。それに昭和40年代以降のモータリゼーションも重なって、とうとう加南線の行き末に赤信号が灯りはじめた…。


北陸路に舞い降りた2羽の『しらさぎ』。しかし早くも運命の別れ道が見えてきたようですが、果たしてどのような展開となっていくのでしょうか。

次は全く相反する二つの運命の話です。

【予告】二つの『しらさぎ』ものがたり(中編)

−参考文献−

鉄道ジャーナル 1975年5月号 聞き書き 北陸本線の生い立ち 鉄道ジャーナル社
鉄道ピクトリアル 1996年9月号 <特集>北陸の鉄道 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2001年5月臨時増刊号 【特集】北陸地方のローカル私鉄 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2002年4月号 【特集】581・583系電車 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2003年1月号 【特集】私鉄高性能車の半世紀 鉄道図書研究会
名列車列伝シリーズ 17 特急はくたか&北陸の485/489系 イカロス出版

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