Rail Story 14 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 14 

 箕面線の謎

箕面駅の阪急3100系電車阪急で最も歴史がある宝塚線。その宝塚線からは支線である箕面線と、阪急系列の能勢電気鉄道の路線が分かれている。今度はこれら二つの路線について注目してみよう。
まずは箕面線に残る、この線の遺構と歴史に触れてみよう。

明治43年3月10日、阪急の前身、箕面有馬電気鉄道(以下略して箕有)梅田-宝塚間と箕面線石橋-箕面間が開業する。もっとも箕有は現在のJR宝塚線・福知山線である阪鶴鉄道が、路線の国有化以前に計画した川西池田延長線とその支線をベースにしたものであることは以前話したとおりである。
阪鶴鉄道時代の計画案では既に箕面線が存在していたが、これは池田から分岐するものだった。箕有が改めて路線特許を申請した時には池田ではなく現在の石橋から分岐するものに変わっている。また本線も十三を経由せず一部は現在とは違うルートでの申請だったようだが、最終的には現在の阪急宝塚線・箕面線のルートで開業した。ただし路線を特許申請した関係で路面区間が一部存在したが、路上に停留所は設置されず全て道路から独立したプラットホームを持つ「駅」とされた。電車も路面電車スタイルとはいえドアにステップはなく、最初から郊外電車を意識したものだった。

社名が謳った有馬までの路線は結局建設されずに終わってしまったが、終点となった宝塚は温泉地ではあるものの天下の名湯と言われる有馬とは比べものにならない規模の小さな温泉で、しかもその宝塚温泉に面していたのは箕有の基となった阪鶴鉄道だった。箕有はその温泉とは武庫川を挟んだ対岸に駅を設置してしまった。
これでは集客すらままならないと考えた箕有は、宝塚温泉の対岸に「新宝塚温泉」を建設する。いわゆる二番煎じに過ぎなかった。この温泉には続いて室内プールが建設されたが人気は今ひとつ、代わって結成された少女唱歌隊が後に宝塚歌劇団となって人気が出たのである。新宝塚温泉には追って遊園地などのアミューズメント施設が次々につくられ、本家の宝塚温泉を向こうに「タカラヅカ」を全国区にのし上げる基礎を築いたとも言えよう。

箕有の路線は能勢街道沿いに一部路面区間として建設されたため、カーブが多くてとても高速電車とは言えなかった。大正7年2月4日、社名を阪神急行電鉄と改め、今度は路線特許申請した区間に既存の街道筋がなかったのを幸いに、極力一直線に神戸を目指す路線をつくることになる。現在の阪急神戸線だ。大正9年7月10日、上筒井-十三間が開業して電車が走り出した。今度は高速電車を目指したが、開業当初は電車の正面には路面電車同様の救助網があり、架線からの集電も路面電車と同じポール式となっていたなど、完全な高速電車のスタイルからはかけ離れていた。

このように現在の阪急電車とは想像もつかないような話だが、現在もなお不思議な謎が、箕面線の終点、箕面駅には残されている。

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では実際に梅田から阪急電車に乗って、箕面を目指してみよう。

宝塚線から箕面線には朝夕ラッシュ時には直通の準急が運転されているが、石橋での乗り換えがポピュラーだ。石橋駅は豊中駅や川西能勢口駅などが再開発と同時に駅が高架化されたのとは違い地平のままで、古くからの阪急電車の駅という趣を残している。梅田からの電車が駅に着くと、反対側の宝塚線梅田方面行きホームの奥には、ほぼ直角に電車が停まっている。これが箕面線のホームだ。まるで路面電車のような配置だが、神戸線の夙川駅も同様で、甲陽線が神戸線と直角に接している。
もっともこの石橋駅の梅田方には宝塚線直通の準急のため、デルタ状の両線を繋ぐ線路とホームがある。今では梅田-箕面間の直通運転だけが行われているが、かつてこのデルタ線は宝塚方にもあり、梅田-箕面-宝塚間の直通運転も行われていたという。こんな交差点のような駅が出来たのも、阪急が軌道線で、路面電車スタイルでスタートした歴史でもある。

箕面へは上り坂が続く。途中駅は桜井、牧落の二つで終点の箕面までは4.0kmしかない。所要時間も6分だ。どこかのんびりした雰囲気の中、電車はもう終点箕面に着いてしまう。ただ駅の手前で電車はやや左にカーブしたかと思うと、ホームは逆に緩く右にカーブして停車する。ただの行き止まりなのに、地図で見ると何故このようなスプーンを横から見たような線路なのだろう。

箕面駅のホームはカーブしている
何故か緩くカーブしている箕面駅ホーム

創業当時の阪急の電車は郊外電車の装いながらも法規上は「路面電車」、架線からの集電はポールが使われていて、終点で折り返すには乗務員が一旦外に出てポールを架線から外し、ポールに繋げられたロープを引っ張って反対側に切り替えるという簡単なようで煩雑な作業を必要とした。その折り返し作業の間は当然電車は線路に止まったままだ。次の折り返しの電車が来ると邪魔になってしまう。
このため路線開業当時の箕面駅には、電車がUターンしてそのまま折り返して行ける「ループ線」がつくられていた。
箕面駅に着いた電車は一旦降り場で乗客を降ろし、ドアを閉めてUターン、今度は乗り場で乗客を乗せるという方法を採った。このような方法は開業当初の京急でも行われており、純粋な路面電車ではもう少し規模を大きくして、終点付近の経路をループ状の一方通行とした例が全国に存在した。また路面電車でループ線の採用が多い欧米などでは、電車そのものを一方通行に限定した設計として、バスのように運転台を片方だけとしたものも見受けられる。

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阪急箕面駅前広場はロータリー状になっている。実はこれがかつて電車がUターンしていた線路の跡で、現在の箕面駅は降り場だった。線路をそのまま延長すれば、ちょうど今のバス乗り場の外周がUターンしていた線路のあった場所と一致し、これがループ線の跡と容易に推測される。現在乗り場は全く痕跡を残していないが、駅前広場から先、再び箕面線へと戻る線路の跡を示すものは、奇跡的に残っていた。

阪急箕面駅舎 箕面駅前のロータリー
阪急箕面駅舎 駅前ロータリー

箕面駅ホームの南側の住宅街には、妙な段差がある。どうやらこの段差が土盛りされたループ線の端だったようだ。段差は駅前広場に近い場所ではちょうど民家の敷地境界となっているが、石橋方に近づくにつれ現在の箕面線の線路に近づいてくる。場所によっては民家の敷地の中に段差が存在する例もあるのは驚きだ。

今も残る段差 段差は住宅の敷地内にも
妙な段差が敷地境界に 民家の敷地内に段差がある例も

箕面は宝塚と違い、古くから大阪のリゾート地として親しまれている。特に紅葉を楽しめるスポットとしてはポピュラーだったが、箕有は当初箕面の観光開発を進めるため動物園も建設している。また現在駅前広場となっているところには、かつて公会堂が建っており、そこでは後に宝塚で花咲いた少女歌劇のルーツとなるものも行われていたといわれている。箕有の開業当初は宝塚よりも、歴史のある箕面のほうがメジャーな存在だったようだ。
しかし箕有は宝塚の観光開発を行っていたこともあったが、箕面がこれ以上俗化するとせっかくの自然が破壊に繋がるのではないかと懸念するようになった。
結局箕面における観光開発は早々にピリオドを打ち、箕有は改めて宝塚のアミューズメント施設を充実させる方針に転換する。動物園は宝塚に移転し、公会堂も大正8年頃には閉鎖されて姿を消したという。箕面駅のループ線も数年後には廃止され、現在の駅の形になったようだ。いっぽう宝塚に集められた施設は植物園などを加え、昭和に入り「宝塚ルナパーク」となり、後々まで「宝塚ファミリーランド」として親しまれたのである。

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箕面線は阪急最古の路線である。その生まれはライバルJR宝塚線のルーツである阪鶴鉄道だったというのも興味深いが、創業当初の運行形態を垣間見せる証が1世紀を過ぎようとしている今も、謎として残っているのである。そしてあの「タカラヅカ」のルーツも、ここ箕面だったのだ。


今は静かな住宅街へと走る阪急箕面線ですが、その豊かな自然が残されたというのは素晴らしい判断だったと言えるでしょう。一方、もう一つの支線的存在の能勢電鉄にも、興味深い謎があるようです。

次はそんな謎に迫ります。

【予告】 能勢電の謎

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1998年12月臨時増刊号 <特集>阪急電鉄 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 2006年盛夏号 阪急電鉄特集PartY 宝塚線・能勢電鉄 関西鉄道研究会

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