Rail Story 14 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 14 

 遠かった御輿入れ

愛知県小牧市の郊外にある博物館明治村。明治期以降の著名な建築物を移築して公開されていることでは全国に知られている。また村内の移動手段として、かつての京都市電北野線N電が、京都電気鉄道時代の姿そのままで、陸蒸気と呼ばれた日本の鉄道黎明期の可愛らしいマッチ箱客車を牽く蒸気機関車の姿も、ここ明治村ではもちろん現役である。

明治村は愛知県小牧市の郊外、入鹿池のほとりにある。緑豊かなその地は、まさに建築物にとって生きたままの姿を伝えつつも安住の地とも言えるだろう。しかしこの明治村が、東京につくられる計画があったことはあまり知られていない。

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明治村創始者で後に名古屋鉄道(以下名鉄)の社長となる土川元夫は、大学時代を金沢で過ごした。盟友で後に建築家となった故谷口吉郎と、ここで知り合うことになる。谷口の作品は皇居の東宮御所など近代建築ながらも日本の伝統的な意匠を巧みに取り入れた端正なものが多く、出身地の金沢にも金沢市観光会館(現在の金沢歌劇座)などが残されている。
二人は日本の高度経済成長に伴って、明治期以降の伝統的建築物が取り壊されるのを気に病んでいた。出来ることならばしかるべき地にそれらを移築し、文化財として継承していくべきと考え付いた。現在明治村には第四高等学校(現在の金沢大学)武術道場「無声堂」や、旧金沢監獄中央看守所・監房が移築されているが、これらは彼らによる金沢ゆかりの建築物と言えるだろう。
結果的には名鉄のお膝元で、名古屋近辺での展開が行われたのだが、当初は今ひとつ集客面での心配があったという。そこで一旦考えられたのが明治村を東京につくるという案だった。

土川は東京の千住に目を付けた。それは元の千住製絨所で戦後は大和毛織の生地工場となった場所なのだが、大和毛織は昭和30年代に業績が悪化、工場は昭和35年に閉鎖されていた。後にこの場所の一部を名鉄が取得、明治村の建設も将来的に見据えられていたという。

同じ頃、東京では後楽園球場(現在の東京ドームの前身)を本拠地とするプロ野球球団が三つもあった。読売ジャイアンツはもちろん、国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)、それに大毎オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)だった。当然セパ両リーグの試合がひしめき、スケジュールは過密を極めていたという。その中で大毎オリオンズの母体、大映が本拠地球場の建設を表明、一部を名鉄が取得した大和毛織の工場跡を買収し、ここに「東京スタジアム」が出来上がったのは昭和37年5月31日のことだった。大リーグのボールパークをお手本に、親しみやすさを第一にしたこの球場のスタイルは、現在のパ・リーグ各球団にも受け継がれているとも言えよう。
続く6月2日にはこの球場で記念すべき初ゲームが大毎オリオンズと南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)との間で行われた。ちなみにこの試合で生まれた球場第一号ホームランを打ったのは、現在楽天イーグルス監督の野村克也氏だったとか。

華やかにオープンした東京スタジアムだったが、肝心の大毎オリオンズの成績は低迷、代わってセ・リーグでは読売ジャイアンツが黄金のV9時代を迎えパ・リーグそのものの人気も落ち、スタジアムは閑古鳥が鳴く始末…。昭和44年シーズンからはスポンサーのロッテが球団を引き継ぐ形となり翌昭和45年には念願のリーグ優勝を果たした。この時スタジアムではスタンドから東京音頭の大合唱があったという。今では東京音頭は東京ヤクルトスワローズの応援歌のようになっているが、当時はロッテオリオンズの応援歌だったようだ。

しかし球団の成績に反して観客数は泣かず飛ばずの日が続き、もともとフィールドの形状に問題があったこともあってロッテオリオンズは昭和47年シーズンを最後に本拠地を宮城球場に移すことになる。その後もスタジアムは残ったが昭和52年4月、解体されてしまった。

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東京スタジアムの建設で明治村の東京進出は成らなかった。名鉄は改めて名古屋近郊に明治村をつくることになり、現在の小牧市にその場所を求めた。昭和40年3月18日、明治村は15棟の建築物をもってオープンした。その中には明治22年に建設された鉄道局(現在のJR)新橋工場が含まれていたが、何か歴史的な車両の展示が求められたのはいうまでもない。そこで当時の国鉄と話し合いが持たれ、貸し出しという形ではあるものの、明治期につくられた皇族用車両、すなわち御料車が展示されることが決まった。

鉄道局新橋工場 鉄道寮新橋工場
鉄道局新橋工場
(明治村1丁目 御料車の保存場所)
後年移築された鉄道寮新橋工場
(明治村4丁目 現在は機械館)

この時選ばれたのは5号御料車と6号御料車の2両だ。5号御料車は明治35年新橋工場製で正憲皇太后の御乗用としてつくられた。また6号御料車は明治43年、同じく新橋工場製でこちらは明治天皇用につくられた(大正天皇も使用)。特に6号御料車は、御料車として初の3軸ボギー台車(通常、鉄道車両の台車の軸は2軸だが、当時は乗り心地を良くするため高級車には3軸としたものが多く見られた)を採用している。
2両は後に新しい御料車がつくられた後も大井工場(現在のJR東日本東京総合車両センター)の御料車庫に大切に保管されていた。途中関東大震災では無事だったが6号御料車は太平洋戦争で焼夷弾を受け、一部が損傷したという。ただし見事に復旧され、戦後になりお役御免となった昭和34年10月14日の鉄道記念日(現在の鉄道の日)には、両車共に鉄道記念物に指定されている。

3軸ボギー台車 2軸ボギー台車
3軸ボギー台車(6号御料車) 2軸ボギー台車(5号御料車)

昭和41年、5号・6号御料車の明治村入りが決まり、両車は大井工場でお色直しが行われた。この時漆塗りだった外板はカシュー塗料塗りとされ、台車の分解整備も行われて旅立ちの日に備えた。

菊の御紋 塗りなおされた車体
車体中央には菊の御紋 塗りなおされた車体

その年の7月10日の夜、大井工場から明治村に向けて5・6号御料車を挟んだ特別編成の列車が発車した。御料車の台車は完璧に整備されていたが、驚くことに5号御料車にはブレーキがなく、6号御料車にはブレーキがついていたものの既に使用出来るものではなかったという。それで御料車2両の前後にブレーキ力を負担する貨車(長物車)を2両ずつ、さらに前後に車掌車を連結した計8両編成で機関車に牽かれ、明治村への「御輿入れ」となった。しかも東海道本線は当時夜行の貨物列車などがひっきりなしに走っていたため、それらに途中で道を譲りながらの、のんびり道中だったようだ。

大井工場の職員は万一に備え工具や油脂類を手に御料車に分乗、国鉄や明治村の関係者は車掌車に乗り、特別列車は一路西へと走り出した。ただし御料車の電灯は点かないものだったらしく、また座席はデリケートな最高級生地で出来ており、うっかり座って損傷させては大変…と、職員らは真っ暗闇の中で懐中電灯片手に床に直接腰を下ろし、眠れぬ一晩を過ごしたという。
列車は早くも静岡で朝を迎え、通勤のサラリーマンからは「いったい何事か?」と驚喜の目で見られる始末。徹夜明けの職員らは疲れも見せず急ぎ説明にあたったとか。
その後ものんびりと西下した列車は、もうすっかり陽も暮れた岐阜に到着。まだ梅雨の明けぬこの時期のこと、雨になってしまったらしい。機関車はC58型蒸気機関車に交代、汽笛一声高山本線に入り鵜沼に到着、ここから先は名鉄犬山線を犬山まで乗り入れていく。機関車は名鉄の電気機関車に代わり、激しくなった雨の中、名鉄の『たかやま』(後の『北アルプス』)と同じルートを辿って行った。つまり5・6号御料車が最期に走ったのは国鉄ではなく名鉄の線路だったのだ。当時はまだ国鉄線と名鉄線をスルーで結ぶ短絡線は出来ておらず、貨車の収受を行っていた駅構内の連絡線を使った(現在レールは撤去され、連絡はされていない)。路面区間として知られた犬山橋も渡ったことになる。心配された軸受けの焼きつきもなく、御料車は無事に名鉄の犬山駅に到着した。

名鉄犬山駅構内で一晩を過ごした御料車は、前夜の雨がウソのようにカラリと晴れ上がった翌11日の朝にはトレーラー台車、即ちゴムタイヤを履いて明治村へ歩を進めて行くことに。最後の移動に備え御祓いも行われ、夜を待って犬山駅前広場を静々と出発した。しかし入鹿池が近づくと道は険しくなり、右へ左へと舵を取り直して(最近新幹線の道路輸送のCMでもお馴染み)、ようやく明治村正門前に到着したのは7月12日の朝の事だった。

鵜沼駅の貨物連絡線跡 明治村正門
国鉄(当時)鵜沼駅と名鉄新鵜沼駅の連絡線跡 明治村正門前の広場

既に明治村正門前の広場から「新橋工場」へは仮設の線路が敷かれ、御料車はレールの上を静かに収容されていった。全関係者の苦労が報われた瞬間だった。

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その後も明治村は拡張を続け、今では67もの歴史的建築物・構造物を保存展示する施設に成長した。うち10棟は重要文化財に指定されている。村内を行く京都市電や陸蒸気は短い距離ではあるものの、今も交通機関としての役割を果たしているのも興味深い。また近くには世界の民俗・建築を紹介する「リトルワールド」もあり、名鉄沿線の重要観光スポットにもなっている。タイムスリップもよし、小さな世界旅行もよし、といったところだ。

長い旅を終えて静かな入鹿池の畔、明治村に安住の地を得た5号・6号御料車。今も歴史を語り続けている。ただしこの2両は前述したように貸し出されたもの。所有者は国鉄からJR東日本に引き継がれているという。


現在ならこのような「御輿入れ」は、全区間トレーラーで行われるのが一般的。あえて鉄道で移動したというところに、一つの価値があったのでしょう。でも明治村が東京に出来ていたら…運命は変わっていたかもしれません。

次は、御料車が産湯をつかった新橋周辺に目を向けてみましょう。

【予告】 踏切は残った

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1971年10月号 大井工場から明治村へ -御料車回送の思い出 鉄道ジャーナル社

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