Rail Story 13 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 13 

 山貨と呼ばれた頃 (前編)

日本全国津々浦々、数ある鉄道路線の中でも新幹線と山手線の名前を知らない人はいないだろう。

東京の都心を回る山手線は首都の大動脈。通勤・ビジネスの足として、ショッピングの足として、様々な人が今日も山手線を利用している。今回は、そんな山手線の意外な歴史に触れてみよう。

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JR東日本E231系500番台今や一口に「山手線はどこの路線?」と言えば、「JR線」と答えてしまうだろう。いや、ちょっと前の世代なら「国電」と答えるのも無理はない。ともかく電車が走る路線なのには間違いはないが、時々貨物列車が走っているのを見かけることもある。なぜ貨物列車が走るのかといえば、もともと山手線は貨物列車用に作られた路線だからだ。

日本の鉄道の黎明期、現在の東北本線や常磐線、高崎線は日本鉄道という私鉄路線だった。JRとなった現在もこれらの路線の列車は多くが上野から出ているが、これは日本鉄道の東京でのターミナル駅が上野とされて開業した明治16年に遡るものと知れば、その歴史の長さに驚くだろう。
ただし当初、日本鉄道としては上野よりも東海道本線のターミナルである新橋へ乗り入れたかったようで、東北本線は赤羽から東京の山手を通り品川を経由してUターン状に新橋へと向かう案と、上野からそのまま南下して新橋へ向かう案の二つが検討されていた。ところが当時の東京においては中心部の用地取得がかなり困難であり、まずは当時の東京の中心部からは北東部の外れに近い上野から…となったという。

しかしその後東北本線が北上を続けると、横浜港などに陸揚げされる路線建設資材の輸送が必要になること、逆に東北本線沿線からは当時の代表的輸出品だった生糸を横浜港へと運ぶためにも、官営鉄道の東海道本線と自社の東北本線を繋ぐ必要が生じた。このため日本鉄道は、当初の山手ルートで東海道本線の品川へと接続する路線の建設を決める。

この時作られたのが現在の山手線品川-池袋間と埼京線池袋-赤羽間だ。明治18年3月1日開業。当時は品川線と呼ばれており、のち赤羽線と称された埼京線開業前の池袋-赤羽間はもともとメインルートだったことが判る。
現在23区ある東京都だが、当時はまだ東京市で、しかも全部で15区だった。その区部と周辺部の境界付近を選定したのが品川線で、途中駅は渋谷、新宿、板橋のたった3駅、池袋など駅そのものが無かったのは驚きだ。しかも出来上がったのは単線で、もちろん電化前の話。蒸気機関車がのんびりと列車を牽いていたようだが、この後も山手線は蒸気機関車との関係を保つことになる。

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のち日本鉄道は現在の常磐線である土浦線などが開業すると、これらの路線との接続のために品川線の途中で分岐して田端へ向かう路線も必要となり、豊島線として建設を始める。明治36年4月1日この路線は開業し、同時に品川線には大崎、目黒、目白、池袋の各駅が追加され、豊島線と併せて現在に至る品川-田端間の「山手線」と改称した。

こうして私鉄路線としてスタートした山手線だったが、明治政府は「鉄道国有化」を推し進めることになり、日本鉄道の路線は全て明治39年11月1日、国有化されることになる。
もはや黎明期ではなくなっていた鉄道は、旅客、貨物共に順調な伸びを見せていた。当初おまけ程度だった山手線の旅客列車は、東京市の人口増加を受け利便性の高い電車化が叫ばれ、明治42年12月16日には全線が電化され新橋(当時は烏森)-品川-新宿-池袋-田端間に電車が走りだした。電車と貨物列車で賑わうようになった山手線はそれまでの単線ではすぐに限界となり、明治43年4月1日に複線化された。
この頃になると山手線は市内交通の一環を担いながら、東北と京浜地区、さらに東海道本線を繋ぐ重要な貨物ルートとなっていく。山手線では大崎、恵比寿、渋谷、原宿、新宿、目白、池袋、大塚、巣鴨、板橋の各駅で貨物を取り扱った。

大正8年3月1日、中央線東京-万世橋間延長と同時に山手線は電車の直通運転を開始、中野-新宿-東京-品川-池袋-上野という通称「の」の字運転となる。ただしこれは一時的なもので、大正14年11月1日、難航していた東京-上野間の高架線が開通、山手線はようやく環状に繋がって現在の運転形態となった。
しかし当時山手線の貨物需要は旺盛で、電車運転との分離が求められていた。大正7年12月20日の品川-大崎間を始めに複々線化が進み、大正14年3月28日の巣鴨-田端間をもって工事は完了した。途中第一次世界大戦やその後の経済不況もあったが、大阪で現在の大阪環状線のルーツである城東線の高架化がなかなか進まなかったのとは対照的だ。ただし城東線に対しては、貨物専用線である城東貨物線が郊外の離れた位置に建設されることになる。

こうして複々線化で山手線の客貨分離が実現、山手貨物線、略称「山貨」が出来上がった。のち東海道本線の貨物別線として開業した品鶴線にも繋がり、日本を支える幹線として成長していく…。

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戦後を迎えた山手貨物線には、相変わらず蒸気機関車が活躍していた。ようやく電化されたのは昭和29年10月1日のことで、都心の無煙化が図られたのは、東京オリンピックを遡ることたった10年前の出来事だったのは驚きだ。ともかく貨物列車は電気機関車が牽くようになったが、当時は茶色の旧型車ばっかりで、戦時設計の凸形車体が残っていたEF13形も走る光景は、東京の「戦後」を感じさせるには十分だった。

昭和32年、それまで茶色一色だった国電にオレンジ色の新車、モハ90系(後の101系)が中央線でデビューした。当時国電は「酷電」と言われたほどの混雑を呈しており、一刻も早い輸送改善が求められていた。本格採用となった両開きドアや全電動車方式の高加減速性能は画期的で、続いて昭和36年から山手線にもこの電車が投入され、車体色は中央線のオレンジ色に対してカナリアイエローを採用、カラフルな電車が都心を彩るきっかけとなった。
この101系電車は国鉄にとってエポックメイキングだったのは確かだが、やや理想を追いすぎたか電力消費量が大きく、今後は経済性をも兼ね備えた電車が求められた。それが昭和38年にデビューした103系電車だった。こちらは山手線など駅と駅の間隔が短く高速性能があまり求められない路線には適した設計で、JR化後まで走り続けたウグイス色の電車は、以後山手線の代名詞ともいえる存在になったのはご存知のとおりだ。カナリアイエローの101系は総武・中央緩行線に移籍していったが、もとは山手線のオリジナルカラーだったのだ。
ただし後年まで池袋-赤羽間にはカナリアイエローの101系が走っていたのを知る人も多いだろう。これは101系がそのまま残ったためで、同じ山手線でありながらこの区間の「赤羽線」という呼び方がいっそう一般化する結果となった。

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山手貨物線を行くEF65PF牽引特急貨物列車ウグイス色の103系と茶色の電気機関車の貨物列車。正に高度経済成長期の東京の姿であった。やがて山貨の長距離列車に青い新型機関車が主力となる頃、国鉄は「通勤5方面作戦」を展開を進めていた。その一つが東京の外環に山貨のスルー機能を持たせる貨物線を建設、山貨には電車を走らせるものだった。
同じ頃国鉄は開業100年を迎えたが、これを記念した映画を製作することになり、撮影のため最後の活躍をしていた蒸気機関車が京都の梅小路機関区に集められた。中でも当時人気絶頂の「スワローエンゼル」ことC62形蒸気機関車の2号機が山貨経由の貨物列車に連結されて京都へと回送される。これは白昼堂々の出来事だったらしく、新宿駅など山手線の電車を待つ人々を唖然とさせたとか。

昭和48年4月1日に武蔵野線新松戸-府中本町間が開業、昭和51年3月1日には府中本町-新鶴見間が延長され、これで東北と東海道を結ぶ新たなルートが完成、山貨の存在は徐々に変化していく。東海道本線の貨物別線だった品鶴線は、昭和55年10月1日の横須賀線東京地下駅乗り入れと同時に横須賀線の一部区間になり、電車が走り出している。

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昭和60年9月30日、東北新幹線上野開業の代償として埼京線大宮-池袋間が開業した。このルートには赤羽線池袋-赤羽間が含まれており、事実上赤羽線は山手線から分離したようなものだった。半年後の昭和61年3月3日、埼京線の電車は新宿に延長され、これが山貨の旅客線転用の始まりだった。平成8年3月16日にはさらに恵比寿まで延長される。この際電車は恵比寿で折り返せないため、大崎まで回送で足を伸ばしていた。
これと並行するように昭和63年3月13日には、東北線・高崎線の電車が田端から山貨に入り池袋まで乗り入れる。この時点では朝のラッシュ時だけの運転だったが、池袋に湘南色(通称かぼちゃ色)の電車は新鮮だった。また同じ年の7月6日に小田原から横須賀線(品鶴線)・山貨を経由して新宿まで乗り入れる「湘南新宿ライナー」が運転開始、山貨からは貨物列車が徐々に少なくなり、もっぱら電車が走る路線と化していく。平成3年3月19日からはN’EXこと成田エキスプレスが池袋・新宿から走り出す。

埼京線205系電車 成田エキスプレス253系電車 りんかい線70-000系電車
埼京線205系電車 N'EX 253系電車 りんかい線70-000系電車

平成9年11月29日、池袋止まりだった東北線・高崎線からの電車が新宿へ延長される。そして平成13年12月1日、湘南新宿ライナーと東北線・高崎線の新宿乗り入れは有機的な結合を果たし「湘南新宿ライン」として花開いた。これで国鉄が昭和50年に策定した「新・通勤5方面作戦」の一つ、東北-東海道方面開発線が完結した。
翌平成14年12月1日には大崎駅の改良工事が完成、同時に東京臨海高速鉄道りんかい線が大崎まで延長され、埼京線との直通運転が始まった。

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こうして殆ど役割を変えてしまった「山貨」だが、電車の走る姿の裏には貨物輸送の低迷があったのは確かだ。路線が華やかになっていく陰で、山手線の駅からは貨物列車の入換作業など、地味な光景がいつしか見られなくなっていた…。


今では湘南新宿ラインの電車が頻繁に行き来するようになりましたが、あくまでもこれらの電車が走るのは山手貨物線です。かつて主役だった貨物輸送は、いったいどうなったのでしょう。

次は、山貨の現在の姿を追ってみましょう。

【予告】 山貨と呼ばれた頃 (後編)

―参考文献―

鉄道ファン2004年6月号 特集:山手線と大阪環状線 交友社
鉄道ピクトリアル2000年11月号 【特集】JR山手線 鉄道図書刊行会

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