Rail Story 11 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー11

 国有鉄道との深〜い関係 2

京都線・宝塚線・神戸線の3路線を中心に今日もマルーンの車体を輝かせて走る阪急電鉄。伝統のカラーはずっと守られているが、3つの路線は各々異なる生まれを持つ。特に京都線は、戦前に今のライバルである京阪の手によって生まれたのは既に紹介したとおりだ。
しかし京都線は全て京阪が手がけたのではなく、今の千里線がなければ存在しなかった路線である。しかもそれは実にタイムリーな国からの払い下げがなければ建設出来なかった。

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阪急千里線は千里山一帯を主に住宅地として土地開発を始めた北大阪土地株式会社が、自社エリアへのアクセスとして鉄道路線を企画したことに始まっている。路線は天神橋筋六丁目を基点に淡路を経由して千里山に至るもので、大正5年9月1日付で路線免許が下付されている。
これに伴い北大阪土地は大正7年11月24日に「北大阪電鉄」を設立、早速路線の建設が始まった。

東海道本線と阪急京都線・千里線ただし北大阪電鉄の最大の難関は、現在の千里線柴島-天神橋筋六丁目の新淀川を渡る鉄橋だった。同社にはこのような全長500m程にもなる大きな橋を架けるほどの資金はなかったのだ。そこで淡路から大阪市内への進出には、当時既に開業していた箕面有馬電気軌道、即ち現在の阪急宝塚線の十三まで路線をつくり、乗り換えは必要なものの梅田へのルートを確保することに変更した。この区間は支線として申請され、大正8年9月12日に免許が得られた。
大正10年10月1日、北大阪電鉄十三-豊津間が開業。残る区間も工事は進み、同月26日には千里山までが全通した。

しかしここで疑問が生じる。いくら長い鉄橋を架ける必要がなくなったとはいえ、この区間がたったの2年余りで開業に漕ぎ着けるのは可能だったのだろうか。

実は北大阪電鉄十三-豊津間のルートは、多くが東海道本線の路線変更に伴う払い下げを受けたものなのだ。
大正2年10月まで東海道本線は淡路経由の旧ルート、即ち現在の千里線淡路-吹田間と京都線南方-淡路間を走っていた。東海道本線が現在のルートになったのは、新大阪駅から分岐して塚本駅付近へ至る北方貨物線の建設のためといわれており、その他にもカーブが多くてスピードアップの妨げにもなっていたという。

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千里線下新庄-吹田間には東海道本線時代の遺構が残っている。

北千里行きの電車に乗り、下新庄駅を発車してしばらくすると神崎川を渡る。この橋は新神崎川橋梁と名乗っているが、東海道本線の払い下げを受けたものであり、橋脚は当時のものが嵩上げされてはいるものの現在も使用されている。円柱状のものがそれだ。なおこの橋にはさまざまな形状の橋脚が見受けられるが、これは橋桁が東海道本線当時のものではないということのようだ。
そもそもこの橋はトラス橋だったという。つまり構造が違っていたのだ。橋桁は何故か北大阪電鉄には払い下げられず、遠く山陽電鉄の舞子跨線橋に転用された(現在は架け替えられている)。この付近はもともと低湿地だったといわれており、おそらく水害を考慮して橋そのものを嵩上げし、同時にスパンを短くして構造を簡略化したものと思われる。
後に神戸高速鉄道により阪急と山陽電鉄の相互直通運転が始まったが、離れ離れになったはずの千里線新神崎川橋梁と、山陽電鉄舞子跨線橋がレールで繋がるとは、誰も思わなかっただろう。

新神崎川橋梁を渡る阪急の電車 新神崎川の橋脚
新神崎川橋梁を渡る千里線の電車 橋脚にはいろんな様式のものが並ぶ

また下新庄駅の北側に道路を跨ぐ小さな橋があるが、この橋も古いレンガ積みの橋台で、千里線が東海道本線の払い下げだという事実を物語っている。

吹田駅北側の架道橋
架道橋はレンガ積みの古い橋台

神崎川を渡ると千里線は右に急カーブしており、しばらくすると今度は左にカーブして現在の東海道本線の下を直交、吹田駅に到着する。この二度のカーブ区間は払い下げではなく北大阪電鉄オリジナルである。東海道本線時代は緩やかにカーブしてそのまま現在線に至っていたが、払い下げに伴い一度撤去された線路跡には再び線路が敷かれ、北大阪電鉄の車庫として使われていたという。
ただし北大阪電鉄は神崎川を渡ったところで分岐せず、東海道本線との立体交差直前で分岐して左へ不自然なヘアピンカーブをしていたらしい。おそらく吹田駅の構内という扱いにしたかったのだろう。当時北大阪電鉄の電車は小型車ばかりで、急カーブでも全く問題はなかったようだ。

北大阪電鉄の車庫跡付近 現在の立体交差
車庫は東海道本線直前でヘアピンカーブしていた
吹田駅から見た立体交差部

こうして千里丘陵を走り始めた北大阪電鉄だったが、その歴史は僅か1年半で終わってしまう。

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ちょうどその頃、淀川を挟んで今の阪急京都線のライバル、京阪はスピードアップが思うように出来ず悩んでいた。もともと京街道沿いに路線を形成したためカーブが多く、急行60分運転が当時の限界だったとか。そこで京阪は高速別線を淀川の向こう側に建設してスピードアップを図ることを計画したが、大阪、京都両方共に京阪線に合流する計画だったために認可が下りず、結局京都側ターミナルは四条大宮(現在の大宮)として一応認可は下りたものの、大阪側のターミナルは未定のままで「別途設けよ」という命令書がついてしまった。

その後別線部分については大正10年12月29日に新京阪電鉄(以下新京阪)を設立して京阪から独立したが、路線免許はまだ京阪が保有しており大阪側ターミナルはやはり未定だった。

新京阪・京阪の計画線京阪は翌大正11年4月24日に今の京都線上新庄から桜ノ宮を経由して葉村町(現在の中崎町付近)に至るルートで新京阪線の路線免許を得て話は一歩前進。これは当時鉄道省城東線(今のJR西日本大阪環状線の東半部)の高架化が予定されており、その噂を聞きつけた京阪が高架化によって遊休となる地平部の払い下げを受け、これを利用してキタの中心、梅田方面への進出を目論んだものだった。
城東線はまだ電化おらず単線区間もあったというが、ラッシュ時は8分間隔で蒸気機関車の牽く列車が行きかうほどの盛況さで、電車化と同時に高架化が望まれていた。

ところが肝心の城東線の高架化はなかなか進まなかった。というのも当時は関東大震災の影響や不況も重なって、工事そのものに着手出来なかったのだ。当然払い下げは受けられそうもない。
のち京阪が取得した路線免許は途中の赤川から四条大宮までが新京阪に譲渡されたが、京阪本線からも野江から分岐して桜ノ宮で合流、梅田へ乗り入れる計画があったせいか、残りの部分は京阪の名義のままとされていた。

結局京阪(新京阪)はいつ払い下げられるか判らない梅田ルートを諦めざるを得なかった。このままでは開業が遅れてしまう。

ここで既に天神橋筋六丁目-淡路間の免許を持っていながら橋を架けられずにいた北大阪電鉄に着目、同社の株式を買い取って天神橋筋六丁目改め天神橋をターミナルに淡路を経由し京都の四条大宮を目指すことになり、まず大正14年10月15日に天神橋-淡路間を開業した。以後路線の建設は進み昭和3年1月16日には高槻町(現在の高槻市)、同年11月1日には西院(仮駅)まで開業、昭和6年3月31日には四条大宮まで全通した。西院-四条大宮間は関西初の地下線となった。
ただ、この工事の間に起こった世界恐慌は新京阪も影響を受け、全通前の昭和5年9月15日に新京阪は親会社の京阪と合併せざるを得なくなり、路線は「京阪の新京阪線」と改まっていた。新京阪線天神橋駅は阪急梅田駅に先んじてターミナルビル形式を取り入れたものとなったが、本心から言えば…ターミナルは梅田に建設したかったのだろう。

千里線の母体となった北大阪電鉄は国の払い下げをすんなりと受けられたが、京阪(新京阪)の場合はそう簡単にはいかなかった。やはり柳の下にドジョウは二匹住んでいないものである。

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新京阪線の全通から10年余り経ち、太平洋戦争が世の中を変えてしまった。京阪は阪急と合併してしまったが、新京阪線改め京都線の梅田乗り入れは終戦直前に実現している。新京阪時代に果たせなかった夢が比較的早い時期に、しかもやや異なった形で実現したのは、時代の悪戯なのかもしれない。戦後、京阪は高速化の望みを託した新京阪線を阪急に残し、独立する。
逆にあっけなく阪急の歴史に埋もれてしまった北大阪電鉄だが、こうして今でも千里線に旧東海道本線の遺構を残しながらも生い立ちの名残を留めている。

ただしずっと後に阪急が新幹線を世界で最初に営業運転することになるとは…国有鉄道と阪急との深い関係は、ホントに意外である。


大阪市内への進出は、関西の各私鉄の共通の夢だったのかもしれません。実は京阪は開業当初から市内への乗り入れを画策したのですが、思わぬ波紋を投げかけていくことになります。

次は、京阪に始まった、さらに意外な話です。

【予告】見果てぬ夢(前編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1998年12月臨時増刊号 <特集>阪急電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 <特集>京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1989年新春号 阪急電鉄特集 PartU 関西鉄道研究会
鉄道未成線を歩く vol.1 京阪・南海編 とれいん工房

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