関西私鉄ストーリー 本日も御乗車、ありがとうございます。 このページでは地下鉄銀座線ストーリーに引き続き、私鉄王国関西のことを紹介致します。 |
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●阪急京都線の謎 国有鉄道との深〜い関係 大阪−京都間は、今でも阪急・京阪・JRの三つ巴が続いている。これは戦前からの伝統であり、新京阪(現:阪急京都線)はパワーにものを言わせたデイ100型超特急で鉄道省(現:JR)の超特急「燕」を大山崎付近の並行区間で追い抜くという離れ業をやってのければ、京阪はスピードでは太刀打ち出来ないと見るや、転換式クロスシート車の「ロマンスカー」による急行を導入、サービス向上に努める。 都市間ノンストップ運転よりも主要駅停車が求められるようになった。京阪は二階建て特急車の導入で旅情を誘い、最近はプレミアムカー導入で差別化を図る。JRはアーバンネットワークの高速サービス、阪急は「京とれいん」で観光需要に応えた。 関西私鉄は都市間の速達サービスから始まっている。そしてエライ点は近鉄や南海を除く関西私鉄各社の最優等列車は、基本的に特急料金を徴収せず、普通キップだけでこれらのサービスを受けられるという、非常にリーズナブルであると言う事に他ならない。 さて、阪急京都線の前身は北大阪電鉄でもある。この路線が比較的スムーズに開業に至ったには訳がある。 それは現在の阪急京都線南方(みなみかた)から淡路、そして千里線吹田までの区間はもともと東海道本線(現JR)の路線変更によって発生した土地の払い下げを受けたものである。 大正2年10月、鉄道省は大阪から京都までの東海道本線のうち、新淀川を渡った所から吹田までの区間を、それまでの淡路経由から宮原(今の新大阪駅付近)経由に変更した。この跡地をそのまま譲り受けたのが北大阪電鉄だった。大正10年4月1日、十三−淡路−豊津間の第1期線はすんなり開業の運びとなる。 現在大阪から京都へJRに乗って、新淀川の長い鉄橋を渡ると、すぐに阪急京都線をオーバークロスするが、昔はここで線路は右へカーブして淡路方向へ進んでいたことになる。そして実は今でも千里線上神崎川鉄橋の橋台は、鉄道省時代からのものが当時のまま利用されている。 もっと信じられないような事実がここにある。それは… 東海道新幹線を最初に営業運転したのは新幹線ではなく、阪急京都線であるという事実!! 東海道新幹線を東京から乗って、京都を過ぎそろそろ新大阪だな…と思っていると、新幹線と同じ高架線を阪急電車が行き来しているのを見た人は多いだろう。これは阪急京都線だと大山崎から上牧を過ぎたあたりであり、ホントに新幹線と併走する形になっている。
この区間の阪急京都線は、東海道新幹線着工以前は地平を走っていた。しかし新幹線が隣接してつくられるということで問題が発生した。まず新幹線は立体交差であるから、当然高架となる。この真横の阪急京都線を地平のままにしておくと、線路が新幹線の高架の重みで地盤沈下する恐れがあった。その他新幹線の保安上の問題もあったという。 そこで当時の新幹線工事局は阪急と協議、この区間は新幹線と同一の高架とすることに決定した。 問題はどのように工事を進め、速やかに移行するかだ。まずは新幹線の線路を先につくり、後で阪急京都線をつくることになったのだが、 ラッキーなことに阪急のレール幅は新幹線と同じ1,435mm。そこで工事中は先に出来る新幹線に一時的に阪急京都線を走らせ、その後阪急の工事を行うという事が決まった。この区間に出来あがった新幹線には本来の交流25,000Vに代わって直流1,500Vが送電されることになり、途中の大山崎、水無瀬、上牧の3駅は一旦新幹線の高架上に仮設された。そして昭和38年4月24日、阪急京都線の下り線が新幹線で営業運転を開始、続いて上り線も新幹線に移行した。この後に阪急の高架化工事が行われ、暮れも押し迫った12月28日、阪急京都線は新装なった本来の阪急の線路に戻る。この1年弱の間、東海道新幹線は阪急京都線として営業していたのだ。 この奇妙なドラマの約1年後の昭和39年10月1日、東海道新幹線は何事も無かったかのように当時世界一の高速鉄道としてスタートする。 取材は水無瀬駅で行いましたが、ベンチに座っていると突然背後を『のぞみ』(取材当時300系)がハイスピードで通過し、その風圧に改めて驚いてしまいました。 トロリーバスというものを知っていますか?今では大変珍しい乗り物となってしまいました。 次はこの乗り物を日本で最初に手がけ、挫折したという悲話です。 【予告】トロリーバスの謎 日本無軌道電車って何? 【参考文献】 関西の鉄道 1989新春号 阪急電鉄特集PartU 関西鉄道研究会 このサイトからの文章、写真等内容の無断転載は固くお断り致します。 |
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