レイル・ストーリー10 Episodes of Japanese Railway

 蘇る橋

全国には廃止になってしまった中小私鉄路線が多く存在するが、石川県にも以前紹介した北陸鉄道加南線能登線など、多くの消えた路線があったのは事実だ。線路の跡はサイクリングロードや道路になることが多かったが、金沢の南郊、鶴来町(現在の白山市)の加賀一の宮と、鳥越村(同じく白山市)の白山下までを結んでいた北陸鉄道金名線もほぼ同様だった。

しかし金名線の跡は、最近になって大きな動きがあった。

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金名線には二つの大きな橋があった。一つは手取中島-広瀬間に架けられていた手取川橋梁だったが、この橋を支えていた岩盤が風化したため、路線はあっけなく橋と運命を共にする結果を招いた。
もう一つは大日川橋梁だった。この橋も金名線にとって重大な危機をもたらしている。昭和58年10月31日、大雨により洪水が発生し、大日川橋梁はあえなく橋脚付近の岩盤が崩壊して列車の運転が出来なくなってしまった。しかし白山麓から鶴来や金沢を結ぶ足だという最後の望みが託されたことで復旧工事が行われ、翌年3月11日には金名線全線の運転が再開している。

せっかく運転を再開した金名線だったが、この年の暮れも押し迫ろうとした12月12日、手取川橋梁が上記のような危険な状態だということが発覚、即刻電車の運転は中止された。結局路線はバス転換されることになり、その後全く電車は走らないまま昭和62年4月29日、廃止されてしまった。
手取川橋梁は崩壊の危険があるため廃止後すぐに撤去されてしまったが、大日川橋梁はレールと架線がなくなっただけで、ずっとその姿を残していた。

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北陸鉄道金名線路線図金名線の廃線跡は途中の広瀬駅跡から大日川駅跡までがサイクリングロードとして整備されたが、残る部分は線路などを撤去したままで、そのまま線路跡を物語っていた。
ところが平成7年度から手取川河口から尾口村(現在の白山市)瀬戸までの総延長43.3kmのサイクリングロード「手取キャニオンロード」の整備が行われることになった。当然のように金名線跡地に白羽の矢が立ったものの、撤去されてしまった手取川橋梁の部分でルートが絶たれている。そこで手取川橋梁を「復活」させる必要が生じたが…。

橋はとっくにスクラップされている。しかも橋を支えていた岩盤は風化している。

その頃、金沢市内では一つの道路橋の架け替えが行われていた。金沢の中心を流れる犀川に架けられていた御影大橋は幅員が3車線分しか取れず、道路は橋の前後では4車線となっていたため橋で車線減少を余儀なくされ、渋滞が絶えず交通のネックになっていた。
御影大橋は工事の進展で撤去されたが、その橋はトラス構造で、部材もラチスを併用したもので現代の橋とはまた違った美しさがあり、このまま姿を消すのは惜しいものがあったのは確かだった。ならば架け替えで発生した橋を手取川橋梁に生かせないか…というプランが浮上、全国的にも珍しい橋の再生が決まったのである。

問題の岩盤だが手取中島側には余り問題がないことが判り、風化の著しかった広瀬側は橋のスパンを広げ新たに橋台をつくることで解決した。撤去された橋だが道路橋時代に3車線分あった幅は狭められ、各部の調整が行われて平成16年10月、かつての金名線手取川橋梁のあった場所に架けられた。
橋は「金名橋」と名づけられた。これはもちろん廃止された金名線にちなんだものである。

手取川橋梁跡に架けられた「金名橋」 橋は御影大橋の面影を残す 新たに施された自転車の装飾
手取川橋梁の場所に架かった「金名橋」 スタイルは御影大橋時代の面影が 自転車をモチーフにした装飾がある

金名橋はサイクリングロードということもあり、自転車をモチーフにした装飾が新たに施されている。金沢で長年親しまれた橋が見事に再生され、この地で別の橋の歴史をも受け継ぐことになったのである。

いっぽうの大日川橋梁は、どうなったのだろう。

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金名線の廃止後もずっとその姿を残していた大日川橋梁だったが、平成14年度になってとうとう撤去工事が行われた。これは今も陶石の積み込み施設の残る大日川駅跡から金名線のほぼ中間点にあった釜清水駅跡までを道路として整備、同時にその周辺を区画整理することが決まったためだった。手取キャニオンロードは道路に併設されることになった。
平成15年10月には金名線大日川橋梁は道路橋の「大日橋」に生まれ変わり、続く11月15日に道路は完成し「てどり桜街道」と名づけられ供用開始された。この日からはかつての電車に変わってクルマや自転車が行き交うことになった。ゆくゆくは、元金名線のほぼ全区間が手取キャニオンロードになるのだろう。

大日川橋梁改め大日橋
大日川橋梁の跡に出来た「大日橋」

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その昔、北陸鉄道金名線の前身、金名鉄道がその名に「金沢と名古屋を結ぶ」という夢を託した。結局その夢は叶わず路線名にのみ残された。今は手取川橋梁なきあと架けられた金名橋に蘇っている。
これは金名線が走っていたという事実を偲ぶものであるが、当時を知る人が今もかつての沿線に住んでいることでもあり、同時に過疎化と高齢化も進んでいるという現実でもある。

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2001年5月臨時増刊号 【特集】北陸地方のローカル私鉄
JTBキャンブックス 私鉄廃線25年 36社51線600kmの現役時代と廃線跡を訪ねて JTB

−あとがき−
早いもので、このシリーズも10作目を数えました。これもひとえに読者の皆様に支えられているものと感謝しております。
 
今回は大阪の地下鉄の話題を中心にまとめました。
実はボクが幼稚園児の頃に家族で関西へ旅行して、その時乗った地下鉄御堂筋線…いえ、まだ1号線の頃だと思うのですが、オレンジ色の旧型電車だったのをうっすら覚えていたのです。その電車が今回取り上げた御堂筋線の「旧型車」だったのは後で知りましたが、物心つくかどうかという頃の記憶では、どこか銀座線とは違う、妙に不思議な、不明瞭な記憶として頭の中に残っていました。
 
その時は奈良へも行ったのですが、今の生駒トンネルは出来ていたようでした。「ふ〜ん、私鉄でもこんな長くて大きなトンネルがあるんだ…」と思ったのは覚えています。しかも当時の近鉄奈良駅は地上時代、道路の上を大きな電車が走っていました。その電車はアイボリーに青の帯でしたね。生まれて初めて多くの鹿に遭遇しましたよ。
泊ったのは新阪急ホテルでした。大阪駅の北口にはまだトロリーバスが走っていたんですね。
万博前の大阪駅北口の風景
後にマイカー時代が到来して家族旅行は父のクルマであちこち行くようになりましたが、関西方面が多かったです。大阪では地下鉄によく乗るようになりましたが、当時駅では地下鉄独特のヒゲ文字ばっかりでした。あの書体を見ると「大阪だなー」と思ったものです。今では殆ど見られませんが、まだ案内表示など一部には残っているようです。たまに見かけると懐かしさを覚えます。
東梅田駅付近に残る「ヒゲ文字」
そんな記憶の中の原風景がきっかけで、今回のシリーズを書き始めました。個人的な主観から…というのはホント申し訳ないのですが、ようやく記憶をきちんと整理出来ました。
また資料を揃えていくうち、北陸鉄道金名線跡地に橋が架かったとか、尾小屋鉄道に再び動きがあったりで、こちらも見逃せない話題だなと地元からも取り上げた次第です。
 
また、今回大阪地区を取材した際、大阪歴史博物館でこんなものをみつけました。
大阪万博の時のタイムカプセル
大阪万博のときのタイムカプセルです。とても懐かしいです。万博って未来をすごく近くに感じさせてくれました。夢のような時間でした。でもこのカプセルが再び開かれるのは遠い未来に感じたものです。子供だったんですねえ(笑)。
 
長くなりました。この辺でペンを置くことにします。ご乗車ありがとうございました。

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