道を流れる、ということ


###

「定常」という言葉をご存知だろうか。
一般には、加速も減速もせず、一定速度を保つ状態、といったイメージで捉えられる場合が多いようだ。しかし、厳密には、ちょっと違う。

例えば、山奥を流れる、小川のせせらぎを想像してみていただきたい。小川を流れる水の粒子は、流れるに従い、流し、流され、淀み、渦を巻きつつ、下って行く。常に加減速を繰り返しているそれは、「定常」とは言えないように思われるだろう。

しかし、視点をちょっと引いて、全体を風景として眺めてみよう。
ささやかだが、美しい、風景画として目に映る。

暫く眺めた後、5秒間、目をつぶって、また目を開けて見る。
何か変わったろうか?。

変わらない。

構成要素は変化を繰り返してはいるが、全体としては、一定の状況を保っている。
これが「定常」の概念である。

そして、道路の流れを考えるとき、この「定常」が、「最適」のキーワードになるのではないか。

日々、公道を「流れ」つつ、私はずっと、そんなことを感じている。


###

大多数の人が、安心して「流す」ことができるスピードというのは、道幅、カーブ、見通し、といった、道路の造りそのもので、あらかた決まってしまうものだ。

道は共有物だ。不特定多数が、同時に流れている。だから、例え私一人が素晴らしく速かったとしても、何にもならない。

もし早く着きたいなら、皆が等しく速く流れなければならない。
簡単に言うと、「底上げ」の方法論が必要なのである。

しかし、事実上「上限」が、施設やクルマといったハードで決まっているので、やりかたとしては、その「上限」をいかに保つか、が「巧く流れる」ことの秘訣と言える。

しかしだ。
現実、「巧く流れる」ことなど、ほとんど誰もできていない。
考えてすらいない。

仕方ないね。機械にやってもらうとしよう。

「流れ」を制御するための「交通システム」を夢想してみよう。


###

どこかへ行こうとする。
「自動車」を呼ぶ。
道端で、携帯から、行き先を「システム」に送る。
ほどなく、「自動車」が目前に到着する。
小さな電気自動車である。完全自動操縦の、本当の意味での「自動車」。
乗り込んで、「呼んだのは確かに私である旨の認証」を、携帯で行う。
シートベルトの装着を確認すると、「自動車」は走り始める。
スピードは大したことはない。30km/h内外である。
しかし、所要時間は意外と短い。何故かというと、「止まらない」からだ。
この乗り物は、互いに連絡を取り合いながら、各個が自己判断で操縦を行う。交差点では、互いに衝突を避けつつ、流れを保ったまま、交差する。
乗っていると、前の「自動車」との車間距離が微妙に変わるだけなのだが、交差点では、その間隔を絶妙に突いて、交差する「自動車」が横切って行く。「ヒュン」、見事!。
だから、「信号」はもう、この世にはない。
この「自動車」、軽く小さく、エネルギー効率は大変に優れている。何せ、ぶつかることは「ありえない」し、総体スピードは低く抑えられているので、衝突安全の装備は最低限で済む。
使われ方が限定されるので、設計最適化もしやすい。乗れば快適、かつ、最小限の加減速で止まらず済ますので、実質的な燃費は今のレベルの「数倍」良い。ロードノイズも小さいので、街は実に静かである。
たまに聞こえるのは、耳に心地よい電子音だけ。それは、道路を横断しようとする歩行者を検知した「自動車」が、「渡って下さい」(今と逆!)の意味で発する合図である。
「自動車」には、サイズや「運転手(サポート)付き」など数種類あって、必要に応じて選べる。基本的に個人所有ではなく、管理は「システム」が行う。全体の監視と記録、配車や停車(車庫)、メンテナンス、料金の徴収などは、システム側で一括して行う。
所有と運転は放棄することになるが、効率と快適と安全が、いっぺんに手に入る。家族で都心でお買い物、銀座と新宿をハシゴしつつ、途中、皇居を回って緑を楽しむ。パパはビール飲んじゃっても大丈夫よ(笑)。そんな休日も楽勝だ。要らなくなった車庫は緑化して、温暖化防止に貢献しましょうか・・。

一方、個人所有のマニュアル車(とバイク)も、健在である。装着が義務づけられた「ビーコン」を通して、走行中の車両は「システム」の監視下に置かれる。街中は「流れに乗る」が鉄則、近隣の「自動車」と一定距離を空けつつ進む。運転が許容されているかどうかは、ビーコンを通して表示される。違反は全て「システム」に筒抜けだ。もし、「システム」に危険と判断されれば、圧倒的な高性能を誇る「強制排除車」の餌食になる。それが面倒・厄介と思われる方は、ローダー型の「自動車」を呼べばいい。いいこともある。スピード制限がないのだ。郊外に出て、前後に「自動車」が居なければ、(自己責任で)いくら飛ばしてもかまわない。追い越しも可能である。可不可は「システム」から「ビーコン」を通じて(音声併用などで)表示される。
「インフォメーション:前の一台は5秒後に追い越し可」
空いた郊外に出さえすれば、従来通り、操縦の愉しみを味わえる。欠点は、燃料(と税金)が、ちと高い・・。


###

「移動の効率」を考えた時。
インフラは道路などの最小限だけにして、個々人の側が、装置(クルマ)の保有と、操縦の手間を負担する。これは、広大なエリアに人間が散在する場合(:インフラが薄く広くにならざるを得ない)に効率が良い。つまり、元々クルマというのは、人口密度が低い場合に適したやり方なのだ。対して、都市部のように、人の密度が大きい場合は、個々が装置を抱えて並んだのではムダが多い。道路から移動の装置までをインフラとして一括整備し、人間をまとめて運んだ方が効率が良いだろう。だから、ヨーロッパの小国などでは、郊外は自動車、都市部は(最新・高効率のIT)路面電車、といった使い分けをしたりしている。
実に賢い。

技術もカネもある日本が、こういう小回りができない理由の一つは、巨大な自動車産業を内包していることにあるのだろう。(クルマが売れないと困る人間がたくさん居る。)しかし、上記のような交通システムの大転換は、技術的には既に可能なレベルにあると思う。

もし、本当に、温暖化対策が「待ったなし」なら、環境税やハイブリなんかの、緩い対処に安穏とはできない。
課題は多分、次の3つだ。
こういった「自動車」の開発を、今の自動車メーカーに託せるような、利益誘導の仕組みの整備。 所有と運転を放棄するという、ユーザー側の意識の転換。 最も危険度の高い、移行期間の舵取り。
世界的に見ても、こういった複雑な基幹システマイズのタスクをこなせる資力・能力は、日本の大メーカーが最右翼のようにも思えるのだが。


###

クルマのメーカーは、「組み込み」という名の「デジタル制御システムの立ち上げ」に忙しい、とどこかに書いた。どうせ、ハイブリッドや電気自動車など、次世代の技術には、高度な「電子制御」が必須だ。既に、ABSや滑り防止なんてのは当たり前になりつつある。衝突回避のため、ブレーキやハンドルをクルマ側で操作しようとか、そんなタスクは現在進行形だ。要するに、「衝突安全」の次に来るのは、多分「操縦の自動化」だ。こいつは、「安全」と「効率(燃費=環境)」という、強力な御札を二枚も持っている。トレンドとして定着する可能性は高いだろう。

さて。
我がバイクはと言えば?。

制御技術の開発は、モトGP辺りで進行中だが、超高速・限界域での先鋭化に特化しているという意味で、多分、直接、我々一般ユーザーの役に立つことはないだろう。どうも、昔のレプリカブームの陽炎を遠くに見ているようでもある。一方、これが公道側での話になると、「スクーターの燃費向上」といったレベルに、いきなり落ち込んでしまう。

バイクは、モペットなどの「足」以外は、「乗って楽しむ」道具なのだ。それをどう熟成していくのか。「考えたなあ」という具体例は、実際、ほとんど見当たらない。

例えば、せっかくの大荷重ラジアルタイヤだ。ブレーキングで容量を使い切らずに、運動性に余力を残せる車体と制御はできないだろうか?。(パニックブレーキを握っていても、なお「避けられる」バイクがあったら、公道ライダーのためにならないだろうか?という意味合い。)

温暖化、原油高騰、といった世の中の「渦」を横目に見ながら。 イメージと刺激の追求だけでは、バイクは、道の流れだけではなく、トレンドという世の中の流れからも、はじかれてしまうのではなかろうか。


###

さて。
現実の、クルマの流れ(の合間)に戻ろう。

高速の合流だ。だまされたと思って、車間を空けて、すんなり入れてごらんなさい。その方が、速く流れる。
ぎりぎりまで寄って、入れる入れないで争い、ブレーキをかけて、流れを止める。だから渋滞する。

プロのドライバーは、そのことを知っている。だから平日は、台数の割に、休日ほどは混まない。(こともある。笑)
以前は、大型トラックが、以外とよく入れてくれたりしたものだ。それは多分、図体が大きくて細かい加減速が苦手、というのもあろうが、「入れた方が早い」ことを知っていたからだろうと思う。(これに限らず、昔のプロドライバーは、上手い人が多かった。)

最近は、そういう光景も少なくなった。大型トラックは、威圧感たっぷりにドケドケで運転するのが通常のようだ。(度数の高いボトルを常備、なんてゴミも居る。)

レベルを上げなければいかんのに、トレンドは確実に、下がっている。しかし、バイク乗りは、そうは行かない。甘えは惨事に直結する。
いかに美しく操縦をこなし、走り抜けたつもりでも、全体からすれば、ただの流れの一粒子に過ぎない。
誰か他人が作った道の上を、多数のうちの一台として、流れているに過ぎないのだ。
その中で、なお「楽しむ」には、どういう身のこなしが良いのか、どういったハードが適しているのか。

どうすれば、流れからはじけ飛んで、道ばたで乾くだけの「しぶき」の一滴にならずに済むのか。

無邪気にウイリーを繰り返す、最新のリッターバイク達を横目に、私は少し、複雑な気分になる。

ombra  2007.Oct.

→ サイトのTOPに戻る

© 2005 Public Road Motorcycle Laboratory