きみを希う vol.10



「今日はもうここに留まったほうがいい。南の空が霞んでいるが見えるだろう? ああいう空は要注意なんだ、天候が変化しやすい。これから崩れるぞ。イール書記官もご理解ください.」

 ウッドロー来訪の目的を済ませた一行が即座に王都に引き返そうとするのを引き留めたのは、暫定とはいえウッドローの新領主として承認されたセシルだった。

「そういうことなら今日のところは世話になるか」

 地元民の言葉は素直に聞いておくものだ。王国内を頻繁に移動しているエルウィンはその助言を真摯に受けとめることにした。

「そうと決まればせっかく最北の地までわざわざ足を延ばしたんだし、この近辺だけでも視察させてもらうとするかな」
「つまりは視察という名の気分転換と洒落こむつもりなんだな。いいだろう。見られて困るものは特にないからな」
「じゃあ遠慮なく。正直言うと行っておきたいところがいくつかあるんだ。毛長兎の養殖場に、山蜜柑の酒蔵だろ。酒造りの様子が見れるんだったらも見ときたいし、前に世話になった連中のとこにも顔を出しておきたいしなあ」

 あれこれ予定を指折り数えはじめたエルウィンだったが、
「ああ、だけどまずは爺さんのとこに顔を出すのが先か」
結局最優先に挙げたのは、セシルの祖父の墓参りだった。

「爺さんには随分世話になったからなあ。ここまで来て顔を見せないってなると恨まれそうだ」
「きっと祖父も喜ぶだろう。きみは祖父のお気に入りだったから」
「へえ。そりゃあ初耳だ」
「実は祖父からきみ宛の手紙を預かってる。あれからきみは管轄が変わってこちらには顔を出さなくなってしまったし、シーズン中さすがにきみも一度くらいは社交界に顔を出さないわけにはいかないだろうから、その時にでも渡そうと思っていたのだが、昨年は祖父がいなくなっていろんなことが一気に来て私のほうがいそがしくて王都に行くどころではなくなってしまった。でもこれでやっと渡せる。それにエルウィン、きみに少し相談したいこともあるんだ」
「いいぜ。夜にでもゆっくり聞いてやるよ。だがその前に回れるとこは今のうちに回ってしまいたい。とにかく天気が崩れるまでが勝負だからな、今は時間が惜しい」

 この春でセシルの祖父が亡くなって丸二年になる。

 七年前の夏、エルウィンはウッドロー伯爵領に季節ひとつ分、身を寄せていた。最初は不本意ながらの滞在だったが、ここの風土が余程少年の性に合ったのだろう。セシルに尻を叩かれつつ宮廷伺候試験対策の講義をそれなりに真面目に受けていた。それでも自分で望んだこととはいえ、束縛された生活では自然と鬱憤もたまっていく。だからそれを晴らすべく、エルウィンは時間を見つけては秋の実り多い野山を駈けずり回っては、途中で行き会った山鹿などの獲物を仕留めてよく持ち帰った。

 山鹿は増えすぎると害獣となる。ウッドローの山鹿は足の速さと俊敏な動きで知られ、仕留めるには狩りの技術と山鹿に負けない体力と根性を要した。朱金の少年が山鹿を担いで帰ってくると、領民たちから「よく仕留めたなあ」と温かい歓迎を受けたものである。特に伯爵邸の厨房には大げさなほど喜ばれた。ウッドローでは山鹿の肉はご馳走だった。

「春の祭りにゃこいつは欠かせないんですよ。焼きいたときの香ばしい匂いはたまらんのです。いい匂いに連れられて焼いたそばからなくなってくんですわ」

 山の斜面を走り回る山鹿の肉はとても軟らかく、独特な旨みがまた格別なのだと調理長は褒めちぎった。

 エルウィンがウッドローにやってきてひと月を過ぎた頃、セシルは尋ねた。

「ウッドローの暮らしはどうだ? 少しは慣れたか?」

 その問いに、
「まあまあだな。ここは王都と比べて煩くないのがいい。山も森も風もそれにここの連中も、俺をただのエルウィンとして受け入れてくれるからな」
 そう答えるくらいには少年なりにウッドローの生活に馴染んでいた。

 夏が終わり、秋が来て、エルウィンはウッドローを去っていった。そしてその年の宮廷伺候試験の文武両官部門に十五歳にして同時合格し、世間を騒がせた。晴れて巡監使の道を歩みはじめ、翌年、南部地区を管轄する壮年の巡監使に付き添って監察官の仕事を学び、見習い期間を経て、その後正式に巡監使となった。そうして新米巡監使のエルウィンに割り振られたのは、馴染み深いウッドロー領を含む北部地区だった。その北部地区をおよそ五年ほど担当し、現在は西部地区を受け持っている。

 南から北へ、そして西へと任地の移動を重ねるのは巡監使の宿命である。地方という王都から離れた場所で巡監使は監察区の領主と懇意になりやすい環境にあるため、定期的に管轄区域が変わることが決められている。

 本来、巡監使とは、地方を巡り周る監察官の役職名を差す。官吏の中でも特に監察官は清廉潔白を強く求められる職務であり、常に正義を貫くために信頼と信用を不可欠とする。監察官は公正かつ公平であることが前提なのである。パンのひとかけらほどの癒着疑惑すらも許されない。小さな疑惑ですら人の子の心に油断と不審を招ねいてしまうものなのである。

 近年、清廉潔白の身の証を立てるためにも同じ区域の長期管轄は避けるべきだというのが、王国の要である国王と官吏を総括する宰相の共通見解となっている。

 職業柄、移動の多いエルウィンのもとにウッドローの領主の訃報が届いたのは、受け持ちのの管轄区が現在の西部に移動してしばらく経ったころだった。

「前伯爵とは親しくなさっておいでだったのですか?」

 ゲザルトは、七年前、贋金作りの討伐任務を遂行したその足で、エルウィンがウッドローに向かったことを覚えていた。当時のエルウィンは貴族と名のつくものすべてを全身で拒んでいるような、今よりもずっと野性味おびた少年だった。彼の貴族社会を毛嫌いする様子を自分の眼で見ていたからこそ、列記とした貴族の一員であるセシルの祖父と懇意にしていたというのがいまひとつぴんと来ない。

「『おのれにとって必要なものは、はじめから持って生まれてくる。 自然の分身が自分であり、 誰もの胸に心がある。想いを繋げて志とし、理想を追って夢とする──』。自分を見つめ直すのがいかに大変で大切かってこと、教えてくれたのが爺さんなんだよ」
「爺さん?」

 思わずゲザルトが聞き返すと、エルウィンは笑って頷いた。

「シィランド・シーズ・シンラ・ル・オトゥール。前ウッドロー伯爵のことさ。俺は爺さんって呼んでた。本人もそれでいいって言ってたしさ」

 屈託のない笑みに、親しみが滲み出る。

「厳しいひとだったけど、話のわかる爺さんだったよ。一本気なとこがあって昔から頑固一徹なとこがあったらしい。若いころは先王の側近をしていたようだけど、その頑なな性格なせいでよくぶつかっていたって聞いたことがある」
「かのケリムス・ケラン陛下相手に、ですか。それはすごい」

 ゲザルトは心から感心した。セシルの祖父の勇敢さにイールも眼を見張った。

「ああいうのを老獪(ろうかい)っていうんだろうぜ。とにかく抜け目がない爺さんだった」

 しみじみとエルウィンが言う。それにすかさずセシルが反応した。

「ひとの祖父を悪賢いかのように言うんじゃない」
「褒め言葉だぞ」
「どこがだ」

 おまえは故人をを冒涜するのが趣味なのかと呆れるセシルと、本音なのにと肩をすくませるエルウィンではどこまでも平行線である。

「亡きウッドロー伯爵は知恵者だったのですね」

 ゲザルトがほどよくまとめれば、イールも続いた。

「先王陛下に進言なさるとは気概のある御仁でいらしたのですね。私もぜひご挨拶をしておきたい。使者としてこの地に参ったのも何かの縁でしょうし、ご一緒しましょう」
「ありがとうございます、イールどの。祖父も喜びます。では参りましょうか」

 墓所までの案内をセシル自身が買って出た。

「おまえ、忙しいんじゃねえの?」
「暇だとは言わない。毎年この時期には西のジョゼッセ一族と東のギョナリック一族がそれぞれ村に帰るからな、その準備で慌ただしいさ。だが、これからどんどん天候が崩れてゆくのはウッドローの民なら誰でも気づくことだからな。さすがに今日明日の移動は避けるだろう。それにほかにも仕事がないわけではないが急を要するものでもない。第一、祖父の墓は伯爵家のものしか立ち入りできない禁域にあるんだ、私が行くしかないだろう」

 エルウィンはオトゥール家の系図を思い浮かべた。

「そういや、オトゥール家の直系はおまえひとりになっちまったんだったな」
「そういうことだ」
「一番近い親戚は、確か──」
「メリーンアナ大叔母だ。シジューラ伯爵に嫁いでる」
「思い出したぞ。シジューラ伯爵っていえば少し前に息子が継いでたよな。確か子どももいたはずだ」
「ああ。あの家は順調だ。問題がない」
「確か、先々代ウッドロー伯爵には兄弟がなくて、子どもは先代のシィランドとその妹のメリーンアナだけ。彼女が嫁いだシジューラ伯爵家以外の血縁者となるとすごく遠縁になるっておまえ言ってたよな」
「ああ」
「だがその昔、ウッドロー領に点在する村長の一族に伯爵家から嫁いだ娘がいたはずだが……」
「そこまで知っているのか。さすがだな。昔のきみとは偉い違いだ」

 貴族の系譜を覚えることは宮廷伺候試験に挑むのに絶対必須だった。貴族嫌いのエルウィンはセシルに扱かれて嫌々覚えたものだったが、監察官となってからその重要性をつくづく感じ入って以来、セシルに叩きこまれた以上の知識を貪欲に頭に叩きこむようになったエルウィンだった。

「おちょくってんのか、おい」
「褒めてるのさ」
「さっきのお返しかよ」
「ははは、そうではない。本気で感心しているのさ」
「そりゃあどうも」
「ちなみにきみが言っていた一族だが、彼らはオトゥール家の傍系にすらなぞらえてはいない。実は我がオトゥール家の血統は昔途絶えそうになったことがあるんだ」
「でもおまえ生まれてるじゃないか」
「その通りだ。直系の血筋をひく子どもを探し出して跡目をやっと繋いだのだよ。我が一族はもともと親戚が少ないんだ。もう十年以上前になるが、例の公用船の沈没で両親と兄が亡くなってり、オトゥールを名乗るのは祖父と私だけになってしまった。そして二年前に祖父が亡くなってからは、とうとう私ひとりきりだ。ウッドロー伯爵位を代々賜るこのオトゥール家の行く末は私にかかっていると言っていい」

 ウッドロー領の責務がセシルの双肩にずしりと重くのしかかる。覚悟していたこととはいえ、暫定伯爵位を賜ったことにより、セシルは改めてその重みを感じていた。

「いずれ花嫁を迎えて子どもをたくさん産んでもらわなければ」
「いいんじゃねえの。結婚すれば暫定伯爵ではなく、正式な伯爵になれるしなあ。でも、おまえ花嫁候補はもういるのか? そうだ、あのうるさい女はどうした。おまえの義妹になりそこねたチェルジャッス子爵の……」
「サランディーヌのことか?」
「そうだ、サラなんとかだ」
「彼女なら昨年婚約が調って、もうすぐ結婚式を挙げることが決まってるが」
「だったら、おまえ至上主義のもうひとりの女! サラなんとかの金魚の糞みたいなのがいただろう。えっとエミ、いやエマ……ああ、忘れちまった」
「エマニア」
「そうだ、エマニアだ。あの女は? あれもサラなんとかと同類でおまえのこと大好きだろ?」
「彼女は半年前に嫁いだよ。今は王都近くの領地にいるはずだ。夫のダンとは十以上年が離れていて、結婚と同時に爵位を継いだから、今は領地のことを覚えるのに必死だってこの間の手紙に書いてあった」「おまえの周りの女、みんな相手が決まっちまったのか。残念だったな」
「それは仕方がない。十五歳になれば貴族の子女は社交界に参加することが許されるが、実際令嬢たちが結婚相手を探せるのはデビューの年と翌年の二シーズンだけ。毎年十五歳の初々しい令嬢がたくさんデビューするんだ。十七までに相手を見つけないとどんどん目ぼしい男性は若い令嬢に取られてしまう。十八になっても婚約者もいないで社交界でうろうろしていたら周りもいろいろと煩い。子孫を残すのは貴族の義務のひとつだから、どうしても男はみんな若くて生きのいい女性を妻に迎えたがる。十八で婚約、遅くても二十歳には結婚していないと行き遅れと苛まれる。サラはもう十八だし、エマニアはもうすぐ十九だ。ふたりとも私よりも年上だからな、私よりも早く結婚するのは仕方がない。私の大事な昔馴染みたちに相手が決まってなくて肩身が狭いと泣かれるよりは遥かに嬉しいさ」

 貴族の令嬢は十五もしくは十六歳で結婚を決めるのが一般的である。

「私も女性化していたら、こんな悠長にしていられなかった。この年齢で誰も相手がいないとなると問題だからな」

 女性に対して、貴族の男たちの結婚年齢は三十歳までに結婚すればいいという風潮がある。じっくり妻になる女性を吟味しているものもいれば、地震の足場を固める期間だとも言える。本来爵位や財産はすべて長男が継ぐため、二男以降の男子は何がしかの職に就かねばならない。もしくは補佐として兄である当主を助けてゆくしかない。基本的に自分の食い扶持は自分で稼がねばらなないのである。

 貴族の令嬢たちは相手の男が嫡男かどうかを最初に気に留める。二男や三男の妻になれ将来苦労するのは眼に見えているからだ。

 ただし、特別相続人に認められた令嬢はあえて嫡男を選ばない。

 男の兄弟のいない娘は、父親の爵位と財産を継ぐために婿を迎えることになる。彼女たちの夫が爵位を継ぐことになるため、二男以降の男性を夫に迎えるほうが両家の後継問題が円滑に解決に進むのだ。ただし、嫡男でなければ男ならば誰でもいいのかと言うと違う。特別相続人に指名された令嬢が貴族出身の夫を迎えれば、その夫が妻の父親の爵位を継げるが、夫が貴族出身でなければ、爵位は妻の子どもが継ぐことになる。その場合、妻は女伯爵、女子爵などと呼ばれ、子どもが受爵するまで中継ぎを担うという規定がある。

 女性化で思いついて、セシルは何気なく尋ねた。

「ひとつ訊くが、仮に私が女性化したら、特別相続人に指名されるのか?」
「ああ。その点については上から確認済みだ。おまえが夫を迎えた場合、特別相続人規定に則り、夫が貴族出身なれば夫がウッドロー伯爵を継ぐことになる。精々、夫を内助の功で支えるんだな」
「誰が夫など迎えるか。私が迎えるのは花嫁だ」
「だろうなあ。おまえって内助の功ってタマじゃねえもんな。ウッドローを自分の手で治めないと気が済まない、それがおまえだ」

 ウッドローの経済状態は最近になってやっと目途がついてきたという状態で、特に良くも悪くもない。というよりも、以前が悪すぎたと言ったほうが早い。

「父親がこしらえた借金、どうにかなりそうなのか」
「どうにか目途だけはな。父の残した薬草の研究は引き続きしていくつもりだが、まずは先々のものがなければな……」

 突然黙ってしまったセシルに、いくつかエルウィンは心当たりがあった。巡監使として知り得るウッドローの状態とこの二年間における発展の予想、以前確認した治政計画を瞬時に頭に描いて口を開く。

「もしかして相談事ってのは毛長兎の件か」

 何年も前から、この中原において希少価値も高い毛長兎の毛皮をウッドローの特産にしようと、セシルとセシルの祖父は毛長兎の養殖に試行錯誤していたのをエルウィンは知っていた。

 毛長兎の毛はとても細くて柔らかく、とても触り心地が良い。その上、保温にも優れているので、高品質の取引が期待できたのである。だが、希少といわれるだけあって養殖するには適していない家畜でもあった。毛長兎は人の子に慣れず、すぐに弱まって死んでしまう。セシルたちは餌の配合や飼育環境などいろいろ試していたようだが、その成果によっては今後のウッドローの経済状況が大いに変わってくる。

 セシルは一瞬何を言われたのかわからないといったような顔をした。だがすぐに思い直したように、「それもある」と答えた。

 どうやら話は長くなりそうだ。

「わかった。そっちはあとでな。とにかく先に墓参りを済ますぞ」





 オトゥール家の墓地は伯爵邸からほど近い丘の崖縁にあった。丘から見える景色は絶景で、エルウィンたちがウッドロー入りするときに通った森を上から見渡せるほどの高さがあった。背後にはオルデ山脈の見上げるほどに高い白壁がそびえている。

「た、隊長〜っ、滅茶苦茶さみぃっす!」
「馬鹿野郎! さみぃのは誰でも同じだ! 文句言うなら先に戻ってろ!」
「それじゃあ護衛が務まりません」
「だったら精々黙ってろ」

 突然、強い山風が吹き下りて、詣で客の剥きだしの頬に厳粛な冷気を突き刺した。

「うーっ! ボリスじゃねえがここは風が冷てえな。それにすげぇ」
「今日はまだましなほうだぞ。秋の吹きおろしは立ってられない。秋に来るのは自殺行為だ。慣れてないと崖に転がり落ちる」
「げー、まじかよ。怖ぇとこだな」
「お蔭で墓荒しとは無縁でいられる。自然の守護だ、有難い」

 墓地一帯を禁域にしているのは、どうやら領民の安全を確保のためでもあるらしい。

 この冬にかけて積もった雪がほとんど凍っていたお蔭で、墓地まで道のりは足が雪に埋もれずに済んだ。それでも氷のような硬い積雪の上に粉雪が薄く積もっていて滑りやすくなっている。強い風が吹くたびに粉雪が風に吹かれて勢いよく高く舞い上がる。風に吹かれた粉雪の一部は崖の下に広がる森へと飛ばされてた。

 オトゥール家代々の墓地も当然ながら白い雪に覆われていた。そこが墓地だと知れたのは、背高のエルウィンの腰ほどの高さの長細い棒状が十数本立っていたのが見えたからだ。頂点が丸みを帯びた円錐の棒は下のほうにいくにしたがい四角形の角錐になっている。

 セシルが一本の石棒の前で立ち止まった。

「これが先代の墓ですか?」
「変わった形をしているのですね」

 ゲザルトとイールがしみじみと言う。

「ええ。ウッドローは雪が深いですから、雪に埋もれないよう工夫した結果、このような形状に至ったようです」

 セシルは丁寧に答えた。

 石棒の円錐側面部分にはそれぞれ墓銘が渦を巻くように上から下に向かって彫られていた。セシルの祖父シィランド・シーズ・シンラ・ル・オトゥールの文字は半分以上雪に埋もれていたが、ふたつの名までどうにか読むことができた。

「今は雪が積もっていてこの高さですが、本来この墓石は私の身長ほどの高さがあるのですよ。雪が解けて墓碑銘が全部読めるようになった頃、ウッドローにもようやく夏が来たんだと感じるのです」
「夏ですか? 春じゃなくて?」
「ええ、ウッドローの春は短いですから。夏も王都に比べれば短いですけど」

 セシルが朗らかに笑うと、一瞬春がやってきたかのようにふたりには感じられた。

 その時、どさりと音を立てて、近くの墓石の円錐側面にわずかに積もっていた雪が滑り落ちる。

「なるほどね。上部が円錐になっているのは積雪対策か」
「ああ。雪の重さは蔑ろにできないからな。ウッドローだけではなく、北部の積雪地方ではだいたい墓碑はこういう形状をしていると思うぞ。しかし何だな、この手の雑学できみでも知らないことがあったとは。何だかすごく気持ちがいいな」
「うるせっ! 俺が何でもかんでも知っているとは思うなよ!」

 エルウィンがセシルの頭を小突こうと拳を振ってきた。セシルはそれを簡単に避けてエルウィンから距離を置く。突然の仕打ちに怒りが沸いた。

「誰もそんなことは言ってないだろう! 確かにきみは覚えがいい。智恵も働く。だが、きみが初めてウッドローにきた理由は何だった? 試験対策に協力したのは誰だか忘れたのか? そうではなく、何と言うかな。きみはその…、結構旅慣れているだろう? オルゼグンに限らずだ。そのせいか、いろいろな地方の風習や慣習、それも地に足をちゃんとくっつけたような生活感のある知識を持っている。だからきみが知らないってことが、少しその……意外だっただけだ」

 最初のほうは怒鳴り声だった口調もだんだんと冷静さを取り戻し、最後のほうはエルウィンを前にした時のいつもの勢いは鳴りをひそめて、少々言いづらそうだった。

 昔、まだエルウィンがミッターヒルの従者をしていた頃、旅芸人一座にいたことがあると語ったことがある。幼少期に国境を越えて各地を回る──まるで花の蜜を求めて漂う蝶のような余儀ない移動生活を送っていた経歴を持つ朱金の男の知己の雑学の豊富さは、セシルが深い感銘を受けるほどだ。エルウィン自身が諸国各地で直に見聞きしたこともさることながら、一座の中に知識売りという商売をしていた老婆の存在が大きいのではないかとセシルは考えている。

「知識売りの婆さんは頼まれれば占いもしていた」とエルウィンが言っていたとおり、占術師は祭りや見世物小屋で人気が高い。芸人一座に同行する占術師がいても何らおかしくないのである。

 そんなエルウィンの過去だが、彼自身は昔のことを特に隠しているわけではないようだが、セシルはやはり大勢の前で話題にするには気兼ねがあった。少年時代、エルウィンがどれほどの苦労を重ねたのか詳しいことは知らないが、最近少しはましになったとはいえ、いまだ健在の貴族嫌いを考えれば、貴族にいい思い出があるとは到底思えない。巡監使になる前のエルウィンを知っているゲザルトはともかく、イールの前でエルウィンの過去をあからさまに話題にするのはセシルにはどうしても憚(はばか)れた。

「私は宮廷伺候試験を受けるまでウッドローを出たことがなかったんだ。だからいろんな場所を訪れたことがあるきみが、少し羨ましかった……」
「ったく何を言ってんだ。貴族の子どもってのは普通そういうもんだろう? ある程度の年になるまで領地で育てるもんだと聞くぞ」
「巡監使という職業もさまざまな土地に行けていいと思う」
「何ほざいてるんだ。俺は遊びに行ってるんじゃねえぞ。仕事だろが」
「わかってるさ。だが、そういうのにたまに憧れたくなるのだよ」
「セシル、おまえ……」

 エルウィンは言葉を詰らせた。エルウィンは長く一か所に定住したことがあまりない。一定の場所に固執したこともないし、次の街に移動する生活が長らく日常になっていてそれが当然だと思っていた。

 だから、セシルに憧れると突拍子もないことを言われて、すごく不思議な気分を味わっていた。

 そういえば、と思い当たることがあった。初めてセシルに会った時、野営に文句を言わない、根性のある子どもだと感心したものだが、今思い返してみると、あの時セシルはセシルなりにウッドローの外の世界を満喫していたのかもしれない。

──俺に憧れるって? 阿呆か。

 そんなふうに内心で一蹴にしても、ほんわかと胸が温かくなるのは止められない。少しばかり全身がくすぐったくなって、思わず頭や腕をかきむしりたくなった。

 それでもその温かさやくすぐったり感覚は一瞬で散り散りに消し飛んだ。一際強い山風が丘陵の斜面を舐めるように走ったのだ。

「さぶっ!」

 このまま立っていたら一刻も経たないうちに氷結しそうなほど寒い風だった

 エルウィンは目的の墓碑の前で右の拳を胸に当てながら黙祷を捧げると、「爺さん、また来るぜ」と墓碑に薄く積もった雪を簡単に払いのける。

「イール! ゲザルト! ボリス! 帰ったら温泉入ろうぜ! ウッドローは質のいい温泉が出んだよ。セシル、夕飯にウッドロー産の酒を付けてくれよな。相談料を前払いで頼むわ!」

 風花が舞い散る帰り道、エルウィンは足取り軽く丘を下りて行った。





 一行が伯爵邸に戻ると、「さあ、ウッドロー自慢の温泉を堪能するぞー! おまえも一緒に入るかセシル。久しぶりに身体を洗ってやるぜ」とにやけながらエルウィンが近寄ってきた。

「結構だ。私の部屋にも浴室はある」
「おまえ、温泉って言ったら大浴場だろうが。あの解放感が溜まんねえよ。狭っくるしい部屋付きの浴室なんて面白くねえって。たまにはおまえも大浴場に行けよ。せっかくあるんだから使わないのは宝の持ち腐れだぞ」
「ではきみがウッドローの宝を存分に使ってくれ。それで持ち腐れではなくなる」
「おお。そういうことなら遠慮なく。領主さまがこうおっしゃってるんだ、せっかくだから広ーい風呂に入りに行こうぜ」

 源泉垂れ流しの湯は少し白く濁っている。家令の息子だという使用人が、「温泉の湯が熱い時はこちらの水で調整してください」と説明するのを神妙に聞きいるイールたちの横で、すでにエルウィンは身に着けているものを脱ぎはじめている。

「ここの湯も久しぶりだ。ったくセシルも狭い風呂なんかよりもこっちの広いのを使えばいいのに」

 狭い部屋付きの浴室を好む感覚がエルウィンには理解できない。これほど立派な広い風呂を堪能しないとはなんてもったいない。

「セシルさまは八歳くらいまで淑女教育を受けていた方ですからね。人前で肌を晒すのがいまだに苦手なようですよ。うちにも娘がいますからわかります。あれくらいの年頃になると娘なんてのは父親と一緒に風呂に入るのを毛嫌いするもんです。幼いころに身についた習慣はなかなか抜けないものですよ。セシルさまは本当に慎み深い方なのです」
「慎み深い、ねえ」

 慎み深いものが怒気をはらんで貴様呼ばわりするだろうか。その疑問よりも、生まれた時から女性化を望まれて、それを自然と受けとめていた八歳の子どもが突然男性化になることを決意するその葛藤はどれほどのものか。まさかいまだにセシルに迷いがあるのか。そんな考えに至った自身にわずかにだがエルウィンは動揺していた。

──あのセシルだぞ、迷っているわけがない。あいつはちゃんと男になるさ。

 今の時点で新しいウッドロー領主と認められたとはいえ、その地盤は盤石だ。あくまで暫定は暫定、確定的なものでない。あくまで正式に爵位継承するには男性化が前提なのである。本来、爵位は男子しか継げないのだから。

 昔はともかく、今のオルゼグン王国は魔道王国と呼ばれる隣国イクミルに比べると極端にカンギール人の数が少ない。もともと少ないカンギール人が領主となるのは稀である。この百年ではこのウッドロー領しか前例がない。セシルの前のカンギール人の領主となると、く、先々代ウッドロー伯爵、つまりセシルの曽祖父になる。だが、彼が伯爵を継いだときはすでに男性化していたと記録にあった。今回のウッドローの世襲について、国王や宰相たちが話し合う中、論点は現段階で男性化の確証のないセシルに受爵資格があるのかに絞られていた。

 だが、現実ではウッドロー領主一族はこの十年でセシルを残して息絶えてしまっているうえ、身体の不自由な領主である祖父に成り代わり、長年領主代行として尽くしてきたのが実績がセシルにはあった。セシルが領主としてやっていくことに何ら問題はないは明白であり、今回はそれを考慮して暫定伯爵という捻り技に及んだのである。

 今回の任務にを引き受けるにあたり、エルウィンはこれまで経緯をイールとともに宰相から直接聞かされている。

「セシルさまは素晴らしい領主になるでしょう。あの方の努力は領民みんなが認めています。そりゃあまだセシルさまはお若いですし、頑固な村長たちとまったくいざこざがないとはないとは言いませんが、それだってちょっとした馴れ合いみたいなもので、セシルさまを蔑ろにするものではありません。私たちはセシルさまにウッドローを治めていただけるとわかって皆様には本当に感謝しているのです」

 男は朗らかに微笑んで客たちに深く頭を垂れ、それから澄んだ眼をエルウィンに向けて言った。

「エルウィンさまでしたら、新しい領主がどれほどこの地に心力注いでいるかご存じのはずです」

 確かにエルウィンは知っていた。北部を担当していたときには領地経営にも相談に乗ったこともある。長年各地を監察してきたが、このウッドローほど目まぐるしく発展した領地はない。

「そうだな、あいつはちょっと生真面目すぎろところがあるけど、領主に向いてると俺も思う。それにあいつは初めて会ったときにはもう、将来自分がウッドローを治めるって当然のように思っていた。あいつ以外にこの地を託すのに相応しいものがいないって上が認めたからこそ俺たちがここにいるんだろうさ」

 断言するように言葉にすれば、答えは決まっているとエルウィンの気持ちもすとんを落ち着いた。先ほどの動揺はいつの間にか霧散し、すでにセシルが新領主だという事実だけが頭を占める。

「そうさ。これであいつが嫁さんでももらえば、暫定なんかじゃない正式な伯爵だ」





 エルウィンたちがを気持ちよく温泉気分を味わっている頃、セシルは家令に現状確認をしながら、領地に関する書類をいくつか処理をしていた。

「今日はこの件で終わりにいたしましょう。お茶をお持ちいたします」

 夕食にはまだ少し時間があった。家令が気を利かせてウッドロー伯爵の執務室を出て行く。

 そしてセシルだけになると、あたかもそれを待っていたかのように部屋の中に一陣の風が吹き、何もない空間にいきなり透けた姿が現れた。

「風の精? どうしたのです突然。驚きました」

 風の精霊は透けた身体をはっきりとした人型を取って、セシルの前に立った。

「久しいな、セシル。元気そうで何よりだ。今日は客人がいるのか。いつもよりもウッドローの気が揺れている」
「ええ、王都から王の使者が来ています。この度、ウッドロー暫定伯爵と名乗ることを許され、正式に私がこの地の領主として認められまして」
「そうか、それは祝の言葉を贈らねばならないな」
「ありがとうございます。しばらく振りですね。何か私にご用ですか」

 風霊は時間を無駄にはしなかった。

「単刀直入に言う。シィランドが私に頼んでいた報告をセシル、そなたに伝える」
「おじいさまがあなたに? いったい何を……」
「シィランドはかねてよりティモエに動きがあったら知らせてほしいと言っていた」
「え? あのティモエ家のですか?」

 エルウィンの実家であるこの王国一の大貴族の家名を風の精霊が口にしたのが信じられなかった。

「どうしておじいさまがかの公爵家の動向を調べていたのです?」
「それはそなたがカ我れが主の瞳を持つ所以だ。よいか、よく聞け。ティモエ家の次代は妻を迎えることを拒否した。正確には、今後再婚はしないとはっきりと言い切った。昨日のことだ」
「ティモエ家の次代……? ハリーさまが?! 本当ですか?」
「確かだ。ウッドロー領主は代々、この地に王兵が入るのを嫌っていた。特にアッシュは容赦なかった」
「アッシュ?」
「アッシュナラフィー・アラン・アジシン・ル・オトゥール。シィランドの父親だ。そなたの曽祖父にあたる」

 セシルの曽祖父といえば、魔道大国であるイクミル王国の大貴族であるロザイ公爵家より妻を迎えた先々代ウッドロー領主である。

「あの男が妻に望んだのはそなたと同じ瞳を持つ者。この国の王に奪われるのを一番に恐れていた」
「王が奪う? どうしてです? そんなことをする理由がありません」
「ある。その瞳は二柱の瞳。王の力の象徴になる。いや、象徴で終わらない、王たる主張になる」
「王たる主張って、王座を狙えるということですか?」
「そうだ。しばらく前はそうやってその瞳を掲げた者たちがいたからな。このオルゼグンという国はそうでもないが、もっと西ではその風潮がいまも強く残っている」
「西っていうとイクミル王国?」
「イクミルの王の子どもがセシルと同じ瞳を持っている。今は男性化が落ち着き、王子と呼ばれている子供が。かの方がか弱い王子を守って成人させた」
「かの方? どなたのことです?」
「陽神の一の臣、銀の使徒と呼ばれるお方だ。とにかく、ウッドローの男たちは妻や子孫がオルゼグンの王家に振り回されるのを良しとしなかった。当然シィランドもだ。ティモエ家が絶えると王家が倒れる。皺寄せがすべてウッドローに来るとシィランドは憂いていた。だから我らは依頼を受けた。セシルよ、その二柱の瞳を守るために──」

 執務室の扉を叩く音がする。家令がお茶を持ってきたのだろう。そちらに気を取られていると、すでに風精は姿を消していた。

「ハリーさまが再婚を拒んだ……」

 ティモエ家の次期当主が下した決断が今後周囲にどのようは影響を与えるか、ティモエ家や王家の家系図、政治的な勢力派閥図などさまざまな図式が頭に浮かんでは消えてゆく。

「ハリーさはまは何を考えていらっしゃるのだ」

 だが、いくら考えても切れ者の宰相補佐で知られるハリーの心中を探るなど今の情報だけでは無理があった。今のセシルに出来ることは、風霊の届けてくれた知らせを真摯に受け止める──ただそれだけだった。





 その日の夕食ではウッドローの郷土料理の中でも特に美味しい野鳥料理が振る舞われた。

「この香辛料は身体を温める作用があるみたいですね」

 香辛料の効いた鳥の丸焼き、腹に野菜を詰めた鳥の蒸し煮、山の幸の具がたくさん入った鳥肉のつみれのスープなど、身体が温まる料理ばかりで、エルウィンたちは食事の途中から汗をかきながら腹を満たしてゆく。

「この料理には疲労回復の薬草が使われています。ウッドローの高山植物の種類は多彩で、それぞれいろいろな効能を持っているのですよ。料理にもよく使われてます」
「なるほど薬用があるのですねえ。健康を考えた料理法とはすばらしい」

 イールが料理法の工夫に感服しながら、食事を進めてさらに料理の美味しさに舌鼓を打つ。

「隊長、これ行けますよ。ゲザルトさんも食べてみてくださいよ」

 騎士以上の身分のものは新領主と同じテーブルに着いていた。

「ボリスは肉料理が好きですねえ。こちらの根野菜と鳥ささみの和え物も美味しいですよ。ボリスはもう少し野菜を食べたほうがいいdせうよ。食わず嫌いをしないで試してみたらどうです」
「あー、俺、根野菜はどうも苦手で。ガキの頃、食べるものがなくて木の根っこを齧ってたから」

 瞬間、食卓に沈黙が走った。

「確か、ボリスといいましたね?」

 静かになった食卓にセシルの声が凛と響く。

「ウッドローの根野菜料理はとてもやわらかくてほんのりと甘いのですよ。ここは寒い地ですから、木の根にもぎゅっと栄養が溜まるのです」

 セシルが家令にに視線を投げる。家令は主人の意向を的確に察して、配膳の手を止めた。

「セシルさまの補足をさせていただくことをお許しください」

 家令が客人に一礼して、新たに運んだ料理の説明をはじめた。

「こちらの根野菜は当家の料理人の得意料理です。ウッッドロー料理法の特徴のひとつに温泉の湯で煮るというものがございます。下湯でを必ず行い灰汁も除いておりますので、根野菜独特の苦みや臭みが取り除けられ本来の野菜の美味しさをお楽しみいただけます」
「野菜の甘みがおいしい料理ですが、それでもどうしても苦手なようなら、最初はこちらの山芋の蜂蜜煮から食べてみてください。とても甘くて柔らかいので食べやすいと思いますよ」

 にこにこと郷土料理を勧める新領主に、ボリスは戸惑いを隠せなかった。

「俺が貴族出じゃないの、気にならないんっすか? 俺は捨て子だったから平民でもないかもしれないんっすよ?」
「でもあなたは今は騎士としてちゃんと仕事をしている。立派に試験に合格して。それに正式に騎士になるまでには相当の鍛錬が必要だと聞いています。それともあなたは仕事を疎かにしているのですか?」
「ボリスの腕はいいですよ。王宮騎士団の中隊長だったのを引き抜いたくらいです。あのままあちらにいたらいずれ大隊長に昇進していたことでしょう」

 ゲザルトは本気の言葉を添える。

「巡監使の護衛を引き受けようっていうような騎士は貴重なんだぜ」

 エルウィンも続く。

「特にきみの護衛は成り手が少ないんだろう?」
「俺は上司には向いてないってか?」
「上司としてはともかく、正直な話、きみに何かあったら一大事だろうだからな。始終緊張しっぱなしになる」
「おい、どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。きみは腕のいい巡監使だが、その前にゲディス公爵のご子息だ。王の外戚の中でも最も王家に近い生まれのきみに何かあって、守れませんでしたすみませんでしたで済まされるわけがない」

 存外にエルウィンが突いてほしくないところを真正面から新領主は突いてきた。

「きみは貴族の中でも最も高い身分の家に生まれだ。そしてきみは二重の意味で、国王陛下ご夫妻の外戚となっている。父方でいえば異母姉君は王妃となっておられるからきみは陛下の義弟となり、きみの母君は王妹でいらっしゃるので、陛下の血を分けた甥でもある。それはきみの兄上であるハリーさまにも当てはまることが……。きみとハリーさまは臣籍にあっても特別な存在だ」

 ティモエ家の兄弟には王族と遜色ない高貴な血脈が流れている。それは周知の事実だった。

「俺は俺だ。ティモエ家は関係ない」
「関係なくはないだろう。そろそろ避けて通るのはやめろ、エルウィン。これは私からの苦言だ」

 セシルとエルウィンの視線が激しく絡んだ。どちらもにこりともしない。

「ご馳走さま。もう腹は膨れた。先に部屋に戻ってる」

 先に視線を外したのはエルウィンだった。さっさと席を立ち、部屋から出て行こうとする。

「もう食べないのか。料理長がきみの好物のミラの実のタルトをあとで出すって言っていたぞ」

 エルウィンはいまだたくさんの料理が残っている長いテーブルをちらりと一瞥したが、まったく未練などないようで、口をつぐんだまま踵を返し、去って行った。

「さあ、彼のことは気にせず、どんどん召し上がってください」

 残された面々が黙々と食事を続けるセシルの顔色を窺う。ゲザルトはエルウィンはが消えた扉をちらりと見て言った。

「セシルさま、よろしいのですか? 彼は実家のことを言われるのが一番煙たがっているのをご存じでしょうに」
「いいのです。あれくらいでは足りなくらいですよ。ずっと逃げ続けるわけにはいかないのです、いずれは向き合わなければならないのですから。いい機会です、ゲザルト。この際ですから言わせていただきますが、あなたのその態度はエルウィンを甘やかしているのと同じことですよ。あの男のことを思うならばティモエ家直系の末子としての利点を活かしてでも監察官の公正公平な眼を貫くくらいの覚悟をさせるべきです。かの家名は鋭い剣にも硬質の鎧にもなる。中途半端はエルウィンのためになりません。あの男を守るべき大事な上司と思うなら、あなたも心を強く持ってください。お願いします」

 エルウィン相手ならいざ知らず、ほかのものに対してセシルがここまできつくなるのは珍しい。

「セシルさま、何かあったのですが?」
「いえ、何も。しかし、ずっとこのままでいられるはずがないのです」

 セシルは視線を落とした。手元のスープがセシルの心を映すかのようにゆらゆらと揺らいでる。風の精霊が届けた知らせが不安の渦を巻いて、ずっとセシルの心を揺らし続けていた。

 エルウィンの兄である次期ティモエ家当主が再婚を拒んだ。それは今回の話だけではなく、生涯二度と結婚をするつもりはないと宣言したということだ。あの貴族の中でも特に貴族らしい人の子が貴族の義務である結婚を拒否した。それは今後、ハリーの子どもは望めないということにほかならない。

 それが事実となれば必然的にハリーの後継になるものは決まってくる。

 セシルは引かれるように廊下へと続く扉を見た。ハリーの決心を知ったら、あの男はどうするのだろうか。

 渦中のティモエ家が下位貴族であるならまだしも、王家と密に繋がっている第二の王家と呼ばれるほどの大貴族なのである。このままではいずれ嵐がやってくる。

 セシルは思わず武者震いした。

                                                         つづく


 


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