きみを希う vol.9



 伯爵邸に赴いたエルウィンを最初に出迎えたのは、家令の驚いた顔だった。だがすぐに好々爺の笑顔に変わる。

「これはエルウィンさま、ようこそおいでくださいました」

 玄関ホールに朗らかな歓迎の声が響いた。

「久しいな。トマドの顔を見るとウッドローに来たんだと感じ入るよ」
「それは嬉しいことをおっしゃってくださる。お連れの方もようこそウッドローへ。これまでの道のりは大変でしたでしょう」

 家令の声を聞きつけた家政婦もすぐに姿を見せた。

「エルウィンさまですって? まあまあ本当にエルウィンさまだこと!」
「エマも元気そうだな」
「恐れ入りますわ」
「それでだが、セシルはいるかい?」
「いらっしゃいます。ただいまお呼びいたしますので、東の間で少々お待ちくださいませ」
「ご案内いたします」
「ああ頼む。イール行こう。そうだな、ゲザルトは一緒に来い。おまえがここに来てるなんてあいつもまさか思ってないだろう。きっと驚くぞ」

 滅多に見れない驚いた顔を想像するだけでわくわくする。

「では俺は荷物を運んでおきます」
「頼む、ボリス」

 ゲザルト以外の供とはその場で別れ、エルウィンは家政婦に外套を預けると上機嫌で家令のあとに続いた。

 屋敷の中は温かかった。厚手の外套で凌いでやっと動き回れる外の寒さとは雲泥の差だ。まさに春の最中(さなか)を歩いているようである。夜明けと同時に麓の村を出立してからずっと冷たい風を切るように馬を走らせてきた身には、この春の陽気は生暖かいくらいだ。廊下を歩いているだけでじわりと汗が噴いてくる。ほかの顔ぶれも同様らしく、外套の下に着ていた上着を脱いで腕に掛けていた。

「中は暖かいんですね」
「これならば寒い冬でも充分心地よく過ごせますよ」

 イールとゲザルトはこの暖かさに感心しきりな顔をしているが、エルウィンは違った。感心を通り越してすでに呆れ顔である。

 暖炉のある部屋が暖かいのはまだわかる。厳寒の土地の建物は防寒対策を必須としているのは常識で、北の領地ならどんな家でも一度温めた部屋の温度を下げない工夫をそれぞれしているものだ。

──だとしても廊下まで一定の温かさが保たれているってのはどうよ。どうみても不自然すぎるだろうが。

 気づけよ、と零した瞬間、突如閃いた。

「そういや、イールの一族が治めるのは西の領地だったか。それにゲザルトは南の出身だったな」
「はい」
「よくご存知ですね」
「それでか。腑に落ちたわ」
「何を納得してるんですか」

 ひとり勝手にすっきり顔をするエルウィンを訝しげに窺うふたりに、「ああ、こっちの話」とひらひら手を振って見せた。

 エルウィンには幼いころから各地を回った経験があった。時には金持ちの館に呼ばれては芸を披露したこともあり、さまざまな地方の領主や貴族の館を訪れたものだ。だからこそ、この伯爵邸の環境の良さの出来すぎだと気づいた。

 冬の終わりとも春の初めとも言えるこの時期、ウッドローを訪れたのはエルウィンも初めてである。一番長く居ついたのは最初の年だが、季節は夏から秋の半ばのことで、それ以降はいつも初夏に訪れていた。

 訪問する季節がいつも初夏だったのには理由がある。宰相はその年の収穫分を冬の間に決算し、翌年の春以降に報告するよう領主に通達している。それにより監察査官は主に春から夏にかけて前年度分の監査を行う。少なくとも秋の収穫期を避ける気遣いはしていた。秋はどこも忙しく、猫の手もほしいほどだ。当然、監察官を相手している暇は領主にはない。

 例外は農地を持たない鉱山を有する領地くらいである。採掘は一年を通して作業可能なため、そのような鉱業中心の領地に関しては監察官側に時間の余裕がある秋もしくは冬に視察が行われる。

 エルウィンは真冬の領主邸をいくつか訪ねたことがある。だからこそこの異常さが癇に障る。

──この館内一定温度調節がどれほど常軌を逸しているか、どうして気づかねえのかね。少し頭を使えばわかるだろ。

 エルウィンに言わせれば、「いくらなんでも屋敷全体が温度調節されてるってのはおかしいだろうが」になる。だが、イールとゲザルトがこの館の防寒や暖房が北領の一般的な家屋設備だと誤解しているとしても無視することにした。今説明するのは面倒だったのだ。風土や気候によって建築構造も特徴があるものだが、その程度の説明で済まされないのは眼に見えていた。その先まで突っ込まれて、精霊が絡んでいると教えるのは簡単だが、魔道王国とも言われるイクミル国内ならばともかく、このオルゼグン王国ではその手の話にあまり馴染みがない。だから精霊の仕業を理解させるのに更に時間が取られることになる。

──いいや、放っとこう。

 面倒は嫌いだ。出来るだけ避けたいと思うのは人情というものだろう。

 あり得ないことを現実にする──。少数だがそれを可能とする能力もちがいることは、この中原では周知の事実だ。魔道師の存在がそれである。

 だが、その魔道師はこのオルゼグン王国ではふたりしかおらず、ふたりともが王宮に常駐していて滅多に王都からは出てこない。この国の民のほとんどが魔道や魔法に馴染みが薄い。それは多くの国に足を運んだ経験のあるエルウィンだからこそ抱く考察なのかもしれなかった。

 それでも、ここはウッドローである。この地には魔道師ではないくせに不可能を可能にする規格外が存在するのだ。

「なるほど、これも『お願い』効果かよ」

 そう呟けば、「セシルさまは精霊に愛されておいでですから」と先導する家令が声を潜めて、訳知りの巡監使だけに難なく内情を暴露した。

「あいつもよくやるぜ」
「私どもは眼にすることは叶いませんが、セシルさまには見えないほうが普通ではないようですよ。ですがそのご様子ですと、エルウィンさまもお見えにならないようですな」
「精霊ねえ。赤ん坊のころは見えてたらしいが今はさっぱりだな」
「それはそれは。見えていたのに見えなくなったということですか?」
「ガーリーとアマンディアが嘘を言ってなければそうなるな」
「ガーリーとアマンディア……? ああ、ゲディス公爵ご夫妻ですね。ご両親がそのようなことを……」
「見えなくなってたことに逆に偉く驚いてたくらいだ」

 二十年前、エルウィンは三歳の時に誘拐され、十年間以上行方不明となっていた。それは周知の事実であり、社交界では有名な話である。大貴族の子弟の失踪はそれだけでも大醜聞になるものだが、エルウィンの場合、母親であるアマンディアが前王妹であったため、行方不明の二男の突然の出現は輪をかけて社交界で騒がれた。

 そして今では、貴族の中でも最も高貴とされる公爵家の二男が、身分的にもそれほど高くない巡監使に就いたことが社交界の噂の種になっている。市井育ちの大貴族の子息がふらふらと地方を回っているのが余程珍しいらしい。

 話題を逸らすように家令が、「山を登ってきた方には少々お暑いようでございますね」と汗をにじませる客人たちの様子を窺いながら言葉を選ぶ。

「エルウィンさまは過ごしやすいとは思されませんか? 使用人たちにもとても喜んでますし、私のような老体にはとても助かっておりますが」
「便利すぎるだろ。これが普通になったらあとから困るのはこの生活に慣れちまった奴ら全員だぞ。まったく、あいつの扱き使い方、年々ひどくなってるんじゃねえ?」

 精霊たちを使役しているとは、はっきりとは言わない。

「それは何とも。ですが、本日は常よりも隅々まで行きわたってるような気がします。どうやら彼らの機嫌もとてもよろしいのでしょう」

 家令もエルウィンに倣ってぼやかした。

 エルウィンが異国育ちであることを匂わせると、貴族の多くは顔を潜め、残りの少数は興味津々に市井での生活の様子を不躾に訊いてくる。エルウィンは自分の失踪が公爵家の汚点であることを知っているが、だからといって劣等感を抱いているわけでもないし、傷ついているわけでもなかった。だが周囲の反応は違うようで、同情的であり、興味深いようだ。単調な社交界において異質な存在──それがエルウィンだった。

 この家令のように相手の過去に触れないよう気遣いを見せるのはまだマシなほうだ。同情とか憐憫とかで近づいて勝手に大げさに慰めてきては自己満足して、揚句には恩を売るように擦り寄ってくる輩のほうがずっと面倒だし胸糞悪かった。

「こちらでお待ちくださいませ」

 東の間と呼ばれる応接室に通されると、すぐに侍女が茶器を運んできた。不躾にならない程度に部屋を見渡していると、慣れ親しんだウッドロー産独特の茶葉の爽やかな香りが鼻をくすぐってくる。このこの種は温い湯を使うのが上手く淹れるこつである。喉が渇いてたのですぐ飲めるのは有難かった。

 この部屋は二年前とまったく変わっていなかった。正確には初めてここを訪れた七年前から変わっていない。

 東の間に置かれた調度品は華麗すぎでもなく地味でもない。一見特徴のないように見える部屋だが、壁際に置かれたチェストひとつとっても、その惹きこまれるような塗りの深い色合いから年代物であるのが一目で見て取れる。脚はゆるかやな曲線を優雅に描き足先が丸い猫脚である。猫脚家具はイクミル王国で好まれる様式で、この手のものには草花の図案が好まれて描かれているものだが、この家具は縁回りに細かな幾何学模様の寄木細工になっているだけで、特に模様が描かれているわけではない。全体的に木目の美しさを活かして設計されている。だからこそ、小さな幾何学模様の斬新さが鮮やかに眼を惹く。

 長椅子と肘掛け椅子も同じ作家が作ったものだろう。椅子の足は家具とそろいの猫脚である。椅子のクッションには手製の刺繍が刺されてる。このクッションは以前にはなかった。この刺繍柄ははじめて見るものだが、図案と同じ小さな薄紫の花をエルウィンは以前この近くの丘で眼にした覚えがある。

 記憶力には自信がある。眼が効くほうだという自覚もある。

「さすがに全然変わらねえってのは無理な話か」

 前に来たときと変わっていたのがクッションだけというに思わずぷっと吹いた。だが、悪くはない。温かい気持ちが胸の奥から沸いて自然と頬が緩んだ。そんな微笑ましい笑いである。

「こちらの絵はまさか、セシルさま……ですか?」

 壁に飾られた薄い水色のドレスを着た幼子を描いた肖像画の前で、ゲザルトが立ちすくんでいた。

「ああ。七歳の誕生日記念に描いてもらったって言ってたな」

 絵の少女の髪の色は特徴的な乳白色だった。椅子に腰かけているとはいえ、今にも床に付きそうなほど長く、髪が白い滝となって真っ直ぐに垂れている。

 もっとも特徴的なのは眼である。大きく開いた瞳は左右異色をしている。金に緑の斑の瞳と吸いこまれるような漆黒の瞳は滅多にない組み合わせだ。この家でこの瞳に該当するものはひとりしかいない。

「驚くのも無理ねえか。おまえ、十歳の時のあいつを知ってるもんなあ。ったく、こうしてみると女にしか見れないから怖いぜ」

 余計なことは言わないようにした。ゲザルトが何に驚いているのか、おおよその想像はつく。だからと言って他人のことをぺらぺら洗濯女のように語る趣味はエルウィンにはなかった。

──必要なら、あいつが自分で言うだろう。

 長く伸ばした乳白色の髪は誰が見ても女性化を望む象徴にしか見えない。見れば見るほど違和感だらけの絵を怪訝な面持ちでじっと見つめるゲザルトの気持ちもわからないではない。

 初めて出会った十歳のセシルは五十日伺候を遂行するに相応しい資格を携えた貴族の子弟そのものだった。あの時セシルは次代のウッドロー伯爵になるため、しっかりと男性化を見すえていた。乳白色の髪は耳下ほどの長さしかなかったし、言動も行動も、まさに少年そのものだった。

 絵の中の少女の髪はとても長い。この長さまで髪を伸ばすのに一年や二年では到底無理だろう。

 つまり、この小さな貴婦人が真実実在したとするならば、少なく見積もっても七歳までは、セシルは娘として育ったということになる。

──家族は女性化を望んでいたんだろうな。

 この絵のセシルには、当時まだ兄がいた。

「この肖像画がどうしました? 可愛らしいカンギール人の少女ですね。こちらがセシルさまですか。これほどの美少女、十年後にはすごい美女になってるのでしょうねえ」

 イールの見解はある意味正しい。

「確かに滅多に見られないくらいの美人にはなったかもな」

 言葉というものは難しくて面白い。エルウィンはにやつくのをやめられなかった。

 エルウィンの含み笑いに気づかないまま、イールは感心しきりでいた。

「男性化するにはもったいないです」

 イールも実は面食いだったのかと笑いが込み上げた。

 部屋の外が急に騒がしくなった。と同時に、大きな音を立てて扉が開く。

 飛び込んできたのは、白い殺気だった。

「貴様っ、よくものこのこと私の前に顔を出せたものだな!」

 ほら来た、とエルウィンは楽しくなった。

 襲来したのは美人は美人でも、それは可憐さとは程遠い凛々しい美しさであった。その美しさは確かにイールの想像を軽く凌駕するが、まったく別種のものだった。





「よお。元気そうだな。相変わらず、くそ真面目な面(つら)してるじゃねえか。男装もますます堂に入っているじゃねえの」
「誰がくそ真面目だ! それに男装とは何だ! 第一、頭も行動も代わり映えなくあちこち跳びはねてる貴様に言われたくないわ!」
「口が達者なのも変わらねえなあ。しかしいいのかよ、客の前だぜ」

 エルウィンがのほほんとイールに眼をやる。

 書記官を見れば、ポカンと呆けていた。慌てて開いていた口を閉じている。

「こ、こちらはこの絵の──」

 イールが慌てて言葉を繋ごうとするが続かない。まさに二十歳近く年下の相手に圧倒されていたのである。

 部屋に入ってきたのは、乳白色の髪を腰まで三つ編みにした年若いカンギール人だった。触れれば切れそうな鋭利な気を今も全身から発している。その怒気が向けられているのがイール自身でないことに安堵と感謝をイールは抱いた。

 金に緑の斑と漆黒の左右異色の眼をくっきりと引かれた二重で半分伏せ、その半眼が、今にも抜かんばかりの剣を前にしたような緊張をはらんでいる。女性とも見まがうほどの秀麗な顔が睨むと、これほどの威力を発するのかとイールは初めての経験に唖然とするばかりだった。これは単に美しいという水準では計れ切れない。美女とうたわれる貴婦人たちにも張る美しい容貌と言えるが、決して女性らしい柔らかさや和やかさは感じられない。女々しさとは無縁の美である。

 背は成人男子の平均身長には劣るようだがそれなりにあり、着やせする性質なのかはわからないが、手足は長く、痩身といえる。背筋がすっと伸びているせいか、十代後半にも関わらず、随分大人びた気品を身に着けているものだとイールは咄嗟に観察した。

 相手の素性はわかりきっていた。このウッドローで、いやこのオルゼグン王国で左右異色の瞳を持つカンギール人といえばひとりしかいない。

 イールは恐る恐る問うた。

「オトゥールさま……でいらっしゃいますね」

 セシルは悔しげにぐっと口を閉じると、にやつく朱金の男をキッと一睨みしたあと、がらりと表情を改めてイールに丁寧に挨拶をした。

「失礼しました。ウッドロー伯爵家伯爵代行のセシル・ル・オトゥールです。ようこそおいでくださいました」

 イールも同様に礼を返した。

「突然の訪問をお許しください。宰相府宰相補佐官ハリー・ル・オトゥールのもとで書記官をしておりますミトス・ミミス・ミナトナス・ル・イールと申します。この度、国王より受爵についての伝令を受けたまって参りました」

 早速ですが、と前置きしつつ、イールは手持ちの荷物から大切に巻かれた羊皮紙を取りだした。蜜蝋を一度セシルに向けて見せたのち、破いてゆっくりと開いた。次にセシルに向かって今度は正式な立礼をとる。

「王命である」

 書記官の若い張りのある声が朗々と響いた。

 一瞬にしてセシルの全身に緊張が走る。

 彼らの訪問が何を意味するか察して、即座に顎を引き締め、蹲式の型を取った。イールがエルウィンの頷きを待って口を開く。

「汝、セシル・セイラ・セイリッシュ・ル・オトゥールにウッドロー領伯爵位の受爵を許す。ただし正式な受爵は、次の条件をひとつでもを満たした時とする。一、二十歳を迎えること。二、男性化を成すこと。以上、どちらかの条件を満たすまでは、暫定伯爵とし、伯爵と同等な権利、義務を有することを認める。明時九年花見月、オルゼグン王国第七十九代国王テレンツ・テイン」

 セシルは恭しく承る。

 一息おいて、若い巡監使の声が毅然と続いた。

「我は監察するもの。我が眼は王の眼。エルウィン・エドルッド・エアリック・ル・ティモエがセシル・セイラ・セイリッシュ・ル・オトゥールの受諾をここに見届ける」

 掠れがちなくせにやけに耳に残りやすい声だった。静かな、だが柔軟に伸びる声は一度聴いたら忘れられない不思議な声音を奏でる。

 公人としてのエルウィンの声は、何者にも何事にも侵されない強さを含み、いつものふざけたような気軽さは微塵もない。表情はなく、まるで凪いだ水面のようである。纏う気すらも厳粛なものとなり、さっきまであった親しみ感など完全に霧散していた。

 公人エルウィンのこの声を聞くのは久しぶりだ。この声を聞くたびにセシルはどうしてか胸が騒ぎ、憎々しい感情が沸いてくるのだが、自分がどうしてそうなるのかわからなかった。理解しているのは巡監使──すなわち監察官という職が、孤高を求められるものであるということくらいか。

 公私を分けるのはいいことだ。だが、これは変わりすぎだろう? これではまるで詐欺だ。さっきまで軽口を叩いていたくせに、あの慣れ合いや親しみはまやかしか。余りにもエルウィンは徹底するので、そんなふうに疑いたくなる。

 このような感情は自分の我がままだとセシルはわかっていた。だが、同年代の友人は少なく、当然のことながら周囲は自分に対し常に伯爵家に連なるものとして高価な陶磁器のように慎重に取り扱う。主従関係では仕方がないこととはいえ、同等に言い合える相手などこのウッドローにはいなかった。

 たまにしか会わない仲とはいえ、エルウィンの存在はセシルにとって親しい間柄に括られる。会えば憎らしいのに、嬉しくなるのがまた悔しかった。

 だから、ふたりの間に境界線をくっきりと線引きされると、理性では理解していても感情は追いつかない。癪だが寂しさすら感じてしまう。

 領主としてこれから誠意をもってやっていかないといけないのに、子ども染みているなと反省するセシルだった。

「おめでとうございます、セシルどの──いや、これからは正当な領主さまですからセシルさまと呼ばなくてはなりませんね」

 喜びの笑みでもって自分への尊称を訂正した騎士の顔には覚えがあった。セシルは眼をよくよく凝らす。三十代前半だろうか。柔和そうな、それでいて真面目そうな雰囲気に懐かさを感じた。やはりどこかで見たことがある。記憶を振り返り、あっ、と引っかかった。

「もしかして、ゲザルトどのですか?」
「はい。暫定とはいえご領主となられたのですから、今後はゲザルトと呼び捨てでお願いします」
「ゲザルト?」
「はい、敬語もいりません。お久しぶりです、セシルさま」
「わかりました。それにしても本当に懐かしい。どうしてここに? あなたは確か王宮騎士団の中隊長の任に就いていたはずでは?」
「マーシャルたちからお聞きになっていたのですか? 気にかけてくださっていたのですね。嬉しいです。実は昨年より巡監使付きの護衛を担っております。代わりにヒューとマーシャルが王宮騎士団に戻りました」
「巡監使付き……? もしかしてエルウィンのですか?」
「ええ」
「それは気苦労が絶えないでしょう。ご心労痛み入ります」
「お気遣いありがとうございます。お蔭さまで忍耐が鍛えられる日々です。これもまた修業と言えるでしょう」
「それは上々」

 ふたりともエルウィンという人となりを知った上での言いたい放題である。

「失礼なやつらだな。言っとくが、俺は巡監使としてはそれなりに優秀なんだからな」

 すでにエルウィンは私人に戻っていた。切り替わりのうまい奴だとセシルは笑いを零す。

「はいはい。勝手にほざいててくれ」
「とりあえず、俺からもおめでとうと言っておくか」
「では、ありがとうと返しておこう」
「素直じゃないな」

 どっちがだ、と睨んでやった。

「私からもお祝いの言葉を贈らせてください。ウッドロー暫定伯爵」
「ありがとうございます、イールどの」
「先代ウッドロー伯爵が亡くなって二年あまり、長らくお待たせして申し訳ありませんでした。いくらか領地運営に支障があったのではありませんか?」
「正直申しますと少々……。ですが正式に認めていただいたので安堵しております。暫定という処置には驚いておりますが」

 イールは軽く頷いて、続けた。

「少し言い訳をさせていただいてもよろしいでしょうか。これほど受爵の手続きに時間がかかったのには理由があります。今回のウッドロー伯爵位の受爵において一番の障害となったのはあなたさまがカンギール人であることでした。まだ性選択がはっきりとなされていない状態ということが問題となり、『後継となるものは男子に限る』という規定の枠から外れると判断されたためです。当初は男性化するまで受爵を承認するわけにいかないという意見も出たようですが……。同時に、あなたさまが先代ウッドロー伯爵の唯一の直系であること。男性化さえすれば次期伯爵として認めるのに異論はないこと。また、正当な領主が長く不在であることはよろしくないという意見も出まして。とはいえ領地の統治において、領主でしか出来ない採決や承認などが多々あるものです。このたびはその点を最大考慮しての臨時的な処置をさせていただきました。長らくお待たせいたしましたこと、心よりお詫びいたします。なお、通例では本来ならば王宮にて受爵式を執り行うところですが、このたびは暫定の受爵ということですので、この通達をもって公式手続きといたします。よってこの度の通達は証人として監察官の見届けが義務付けされました。セシルさまにおかれましては今後、正式な伯爵位の受爵のおりに王宮にての受爵式に臨んでいただきます。どうぞこの度はこのような簡素な受爵式となりましたことをお許しください。より早き日に吉報が届くことを陛下も待っておられます。その折はぜひこの暫定伯爵位授与の見届け人である監察官どのまで一報をお願いいたします。この度は暫定伯爵位の受爵、お喜びいたします」

 セシルは深く礼をした。書記官という公人オールの言葉を噛み締めるように受けとめ、イール個人からの祝言には感謝をこめての礼だった。

 イールの話が一段落すると、それを待っていたかのように横からにゅっと革袋が突きだされた。お堅い監察官という職についているとは思えないほど呑気そうにぶらぶらと軽く皮袋を振って見せ、わざとじゃらじゃらと音を立てている。

「ほらよ、約束の金だ」
「ああ」

 エルウィンがたっぷりと中身が入った革袋を差し出すと、セシルは当然のように受け取り、中身を確認しだした。そんなふたりのやり取りにぎょっと眼を見開いた書記官が思わず口走った。

「世話になるのにウッドローでは金を要求されるのですか?」

 王宮からの使者は、領主が持て成すのが慣例となっている。礼金の要求など聞いたことがない。

「違います! これはこの男がこれまでしてきた付けの代金です! イールどのはこの男がどれほど酒を好むのかご存知ないようですね。二年前訪れた時、この男はうちの酒蔵庫を空にしただけでは飲み足らず、村里まで足を運んで領民たちにせびりまくって、皆が大事に何年もの間寝かせておいた秘蔵の古酒を浴びるように平らげたのですよ。いくら巡監使だからといってやっていいことと悪いことがあります。普段飲む酒くらいならばいざ知らず、あの古酒については酒代に見合う代金を頂かないわけにはいきません。これは領民への支払いにあてさせていただく正当な代金であり、決して私欲から徴収するものではありません。本当です」

 ウッドローの地酒に惚れこんだ男は、「確かにあれは格別だった」と頷けば、セシルもまた「当然だ」と深く頷き返した。

「ウッドローは寒い地です。身体を温めるために昔からの知恵でここでは強い酒が作られるのです」
「ここにはなあ、二十年物の赤みかん酒なんてのがザラにあるんだぞ。それも王都でも滅多にお眼にかかれない上等もんだ。特級品と言ってもいい。舌触りがすげえまろやかなんだ。ここの熟成された酒を一度でも飲んでみろ、病み付きになるぞ! それも家ごとに少しずつうまさが違うんだから参るぜ。いろいろ味見したくなるってのが人情だろ」
「貴様、まだ懲りてなのか! あれは祝い酒だと言っているだろうが! あれは親御さんたちが娘や息子の祝い事のためにと子どもが生まれた年に必ず仕込む特別な酒なのだぞ。それを貴様はよくよく味わいもせずにがぶ飲みしたと言うではないか! この愚かものめが! 親心を無下にしおって! 恥を知れ!」

 はあはあと息を切らして朱金の巡監使を怒鳴りつけるカンギール人の迫力に、書記官イールは完全にのまれていた。騎士ゲザルトのほうは最初は眼を剥いたものの、途中からは微笑みを浮かべて執り成す冷静さを取り戻している。

「まあまあ、とりあえずエルウィンも反省しているようですし。──エルウィンからは話を聞いております。酒代をいくら支払っても祝い酒の代わりにはならないとおっしゃりたいセシルさまの気持ちも重々理解できますが、腹の中に収まってしまったものを元に戻すわけにもいきません。どうかここはひとつ、これはこれで酒代として納めていただき、追加の付加価値については今後領民が結婚するときにエルウィンからその都度、結婚祝いを贈るということでこの件は一旦手を打ちませんか?」

 さすがに年長者だけある。名捌きである。

「いいだろう。ゲザルトの案、受託しよう。エルウィン、絶対約束を違(たが)えるなよ。でないと貴様には金輪際、一滴もウッドローの酒は飲ませんからな!」

 こうして問題がひとつ解決し、まったりとした空気が漂った。イールとゲザルトがほっと息をつく。

 だが、これは幕間(まくあい)でしかなかった。実はゲザルトは天然だった。

「ところで、ひとつ疑問に思ったのですが。先ほどの正式な伯爵受爵の条件ですが、二十歳というのはともかく、どうやって男性化を見極めるのです?」

 解決策を提案した功労者のゲザルト本人が別の問題を投げかけるなどと誰が想像しただろう。

 セシルとエルウィンは思わず互いに眼を合わせた。

「何なら俺が昔みたいにまた一緒に風呂に入っ──」

 即座にセシルの右拳が炸裂する。

「どうやら貴様の破廉恥さは磨きがかかったようだな」

 床に蹲る朱金の男に複数の哀憫の視線が集まった。

 無体な仕打ちに苦笑いしているのは過去の例を知るゲザルトくらいである。イールなどはほのかに顔を赤らめながら、「それにつきましては」と焦ったように補足する。

「いくつか判定方法が元老院でも出されましたが……。結果、婚姻をもって証とするのが妥当だということになりました。セシルどのが花嫁を迎えられた日の翌日をもちまして条件が満たされたものとなります。花嫁との間にお子さまが誕生した時点でという意見もありましたが、貴族の中にもなかなか子どもに恵まれない方もいるのにそれでは不公平ではないかという反対意見も出されたようでして」

 なかなか平等な議論が王宮ではなされたようだ。

「わかりました。お気遣い感謝します」

 得心してセシルは礼を述べた。

「ごちゃごちゃ言ってるが要はしっかり初夜をこなして男だって証明しろってことだろ。簡単じゃねえか。なんなら俺がその証人に立っ──」

 一言多い男は大概嫌われるものだ。ましてや手加減のいらない知己の仲である。セシルが男の背中を靴底でぐいと踏みつけると、男は朱金の髪を乱しつつ「ぐえっ」と蛙のように這いつくばった。

「礼儀作法を一通り叩き込んだはずなのだが、どうやら教え足りなかったようだな」

 雪の結晶のような繊細な美貌がゆっくりと微笑むと、部屋一面に冷気が一気に吹きすさんだ。朱金の男は喉奥から呻き声を絞り出して反省の色を必死に見せたが、男に対する「容赦」という言葉はウッドロー暫定伯爵の辞書には一切載っていなかった。

 セシルは男の背を踏みつけていた足を一端退けると、うつ伏せに伸びている男の腰を膝で抑えつけた。後ろから男の首に腕を回し、背を反るように身体を曲げる。

「げえ! 痛ぇって! やめろセシルっ! まじに死ぬ……!」
「そうか痛いか。それは上々。痛めつけているのだからな痛がってもらわなければこちらが困るわ。ここまでして痛くなければ痛覚までおかしくなっているということだからな。正常だと知れてよかったではないか。エルウィン、よく覚えておくことだ。これを身体的な暴力というのなら、おまえのは言葉の暴力というのだよ。わかったかい?」

 微笑みながら朱金の男に教育的指導をいう名の物理的な強制力を淡々と与えるセシルの眼はまったく笑っていない。

「躾というものはその場でしなければ効果が薄いのだそうだ。教育の基本だと本で読んだことがある」
「わ、わかったから、もういい加減に放せって!」
「おや、それが許しを請う態度かい? 反省の色は言葉の端々で知れるというものだよ。この場合は『わかりました』だろう? それに『もう二度といたしません、次からは気をつけます』が足りないぞ」

 まだまだだな、と余裕で冷笑を浮かべるセシルに対し、床を手で叩いて降参を表明する男の限界は近い。セシルの求める謝罪の言葉を口にするのは間もなくだろう。

 そして互いに手が離せない状態のふたりから少し離れたところでは、イールとゲザルトの間でこんな会話がなされていた。

「本当にこのふたり、これまでたまにしか会ってなかったのですか?」

 まるで兄弟か気の知れた親友のようではないかとどうやらイールは言いたいらしい。

「私に聞かないでください。少なくても私が彼付きになってからこの二年弱はウッドローには訪れてませんよ」

 一貫した信念を持つ監察官で知られたエルウィンがこれほど気を緩めるのは珍しい。ましてや、こうも容易く貴族に向かって素直に頭を下げるなど滅多にないことである。

「セシルどのはまさに狼の群れでいうところの首領のようですね。完璧に下に就かせるコツというのをわかってらっしゃる」

 こうしてこの日、セシルの名はイールの心に深く刻まれることになった。

 ウッドローの新領主に立った、稀有な左右異色の瞳をもつカンギール人は、軟弱とも取られる美麗な外見的印象を綺麗に裏切る気骨のある若者だった。突出しているのはモースの砂漠の酷暑る陽のような苛烈な気質は、目立つカンギール・オッドアイ以上の強い異彩を放っている。

 だが、それはセシルという人の子のほんの一面でしかないのだろう。でなければあのエルウィンがああも親しみを滲ませるわけがない。

 そして、とうのエルウィンは久しぶりにセシルの喚き声を浴びながら、ウッドローでしか味わえない歓迎ぶりを楽しみつつも、どこかで安堵していたのだった。

 ああ、ここは変わらず、いい風が吹いている──。

                                                        つづく


 


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