大地の王 vol.0


 かつてモース王国という国があった。

 中原の北東の端に位置するモースの国土は肥沃な土地柄とは無縁だったため、王族や貴族たちの食卓も贅沢なものではなく、国全体が貧しかったと歴史書は記す。

 ある夏、貧しいモース王国は近年稀にみる猛暑に見舞われた。幾日も幾日も雨が降らず、一滴も水の恵みがない日が続き、畑はひび割れ、収穫前の半分の農作物が干からびた。

 飢餓や脱水症状で倒れる民が続出し、モース国王は緊急に対策を念じて、国を挙げて備蓄の食糧を民に配給するよう勅命を出したが、不幸なことにその王命は国の隅々まで徹底されることはなかった。それどころか、ほとんど無視される形となった。

 いつ降ると知れない雨を待ち続ける心細さが、雨が降ったところですぐさま作物の収穫が見込めるわけではないといった不安に変わり、貴族や領主たちの頭上に今後の見通しが暗くのしかかったまさにその時、発令された国挙げての備蓄配給だった。

 その配給を、ひとりの貴族が自分の身の安全を優先して着服した。すると多くの貴族や領主たちが、これは皆がしていることと体のいい理由をつけて、国からの配給された食糧をすべて私有の貯蔵庫に隠すという愚を犯しはじめた。

 この愚行により、私欲にまみれた領主たちが治める領地で暮らす領民がばたばたと倒れ、異変に気付いたた忠臣たちが謹んで国王に進言した。

「このままでは民が暴動を起こすでありましょう」

 モース国王はこれに固く頷いた。

 国王が貴族や領主たちを諌めると、貴族や領主たちは自らの行いを反省し、備蓄の返却を申し出た。彼らの愚行は許しがたいことであった。

 だがもとはといえば、モースの国土が貧しいがゆえの不作続きに今回の猛暑が運悪く重なったことが原因である。悪事を犯した貴族や領主たちが配給品を返却してきたところで、食糧が不足している事実は変わらない。配給をはじめても飢餓に倒れる民たちの数は日を追うごとに増えていき、とうとう疫病まで流行りだしたとの知らせが王宮に届くようになった。

 よって国王は苦悩しつつも、ひとつの決断を下すことにした。

 このままではいつになってもモース王国は貧しいままだ。だが、西のオルゼグン王国との国境を越えたさらに西南には、中原一の食糧庫と名高いケルル地方が広がっている。オルゼグン王国はこのケルル地方のたわわに実る麦をはじめ、ケルル周辺でもたくさんの農作物が毎年大量に収穫されているので、中原でも一、二を争う豊かな国と評判である。その豊かな国土の一部を永遠にモース王国のものにすれば、積年の食糧問題を一気に片付くのは明白だった。

 つまり、国王が策した一計とは、オルゼグン王国への侵略だった。

 まずはオルゼグン王国の公用船を襲い、貴族たちや高官たちを人質にして食糧との交換交渉をオルゼグン王に向けて提示し推し進めるよう官僚に指示した。

 だが、人質交換の交渉中、不運にも悪天候に合い、公用船は沈没してしまったことがモース王国を滅亡へと導く導火線となる。人質たちの死亡により交渉は決裂。国王はほどなくしてオルゼグン王国との西の国境に大軍を差し向けた。

 一方、オルゼグンの王宮でも公用船の沈没と生存者全滅の報告を受けて、王侯貴族たちは激昂した。オルゼグン王国第七十八代国王ケリムス・ケランも怒りあらわに肩を震わし、唇からは幾筋も血が 流れたという。公用船には王甥とその家族も乗船していたのだった。

 老王ケリムス・ケランは急遽、中原一の大国であるイクミル王国に支援を求め、両国協力してモースの進撃を打破することを提案した。

 魔道大国として名高いイクミル王国は、モースとオルゼグンの両王国に国境を面している。他国の問題で片付けてはおけなかった。モース王国の暴行は、いつイクミル王国にも及んでもおかしくない危険性を伴っていたのである。

 イクミル王国は迅速、慎重に期してオルゼグン王国と連携し、モース王国軍の侵略を阻止する協定締結を内約してきた。自国の騎士団を出軍させることに同意し、ここにオルゼグン・イクミル・学びの塔の同盟軍が形成され、両国の国王の名においてモース王国軍へ開戦の声を挙げた。

 ちなみに対モースへの戦いに参戦したのは騎士だけではなかった。両国ともに多くの傭兵を雇い入れ、戦場に投入した。

 騎士と同様、もしくはそれ以上の功績を残していく戦いの専門家たちの手腕に、モース軍の騎士や兵士たちは驚愕し慄き、士気を低迷させていく。同盟軍の騎士たちは傭兵たちを見下しながらも、粗野で野蛮な集団であるにも関わらず一糸乱れのない統制の取れたその迅速な行動に感嘆たる眼差しを送り、負けてなるものかと功績を競った。

 主に農民から集ったモース兵と比べるとその実力はまさに蜂と芋虫ほどの差があった。

 だが、自国領土が戦場となったことが幸いして、地の利を知り尽くしたモース軍にも反撃の機会が訪れた。起伏の激しい山地には隠れ場所も多く、奇襲が欠けやすい。高台から崖下に向かって放たれる矢はそのほとんどが的外れであったのにかかわらず同盟軍の足をとめるには役立った。

 同盟軍の勢いは徐々に削がれ、両軍の戦力の差は僅差となっていた。そうして戦いは長期化し、死者や飢餓が増えていった。

 戦況はなかなか動きを見せなかった。それに焦れたイクミル王国は打開策を講じることにした。自国内に存在する魔道師たちの聖地、学びの塔に協力を要請したのである。

 魔道大国とも呼ばれるイクミル王国には多くの魔道師を擁している。さらに国内には、魔導学総本山と呼ばれる学びの塔がある。

 イクミル王国は中立の立場を確固とする学びの塔へ幾度とない交渉を経て、とうとう学びの塔を動かすことに成功した。こうして中原の平和を安寧の願いのもと、学びの塔の魔道師たちも早期解決のために参戦する運びとなった。

 同盟軍に魔道師が配置されると戦況は一変した。戦局が同盟軍に傾いたさなか、モース軍の動きにも変化が現れた。

 死を持って敵を打て。自決覚悟の戦法に切り変えるよう王命が下されたのだ。

 同盟軍は帰り道を閉ざした決死のモース兵たちの追撃にじりじりと戦線を後退せざるを得なかった。

 だが、戦いは突然、終局を迎えた。戦局がモース軍になびいてから間もなくして、突如大地が大きく揺れたのだ。

 思いがけない大地震に両軍ともに統制が乱れ、加えて幾か所の崖が崩れたせいで、戦場は怒涛の勢いで混乱の渦となった。特にモース軍の崩壊は著しく、極限の緊張の中に起きた地震は、緊張の糸を張りつめていた兵士たちの精神に大きな負荷を与え、正しい判断力を根こそぎ奪った。

 狂ったように剣を振り回す者や敵と味方の区別ができなくなる者、そして戦場から逃げる者が出没した。

 また、まるで憑かれたものを落としたかのように、状況を正確に把握した兵士たちの中にはこれ幸いにと脱走しだした。彼らの多くは元農夫だった。

 すべて地震が引き起こしたかのような戦場の混乱。

 だが実は地震はきっかけでしかなかった。地震が起こる前にそこかしこから囁くような、風にのって聞こえてきた噂が、すでに彼らの胸の奥底に不安の種を蒔き、命を捨てて戦うことに疑念の闇を抱かせていたのだ。地震は不安の芽吹きに陽の光を与えたにすぎず、その噂とは、戦いのために男たちを召集され、わずかな収穫が見込めたはずの畑の世話さえも苦しくなった老人たち女子どもたちが逃げるように農地を捨てて逃げ去ったという故郷の惨状だった。

 戦いに参加していた元農夫たちは自分の家族たちがモースから出て行ったと聞くな否や、迷いを捨てた。王国のために戦う意味がなくなったのだ。ましてや命を賭して戦えという王命にも不満を抱いていた。自分たちを守ってくれない王国をどうして自分たちが命を賭して守る必要があるというのだ。ここで命を落とすのは馬鹿らしいではないか。

 離反する彼らの逃亡を誰もくい止められなかった。

 同じとき、市街地に残ったモースの民たちはいつまで経っても配給のない上に税の重さだけは維持された現状に鬱憤を溜めていた。とうとう我慢も限界を超えて、暴動がそこかしこで起きるようになる。

 領主たちの館を襲い貯蔵庫から備蓄の食糧を見つけた民は怒りを募らせ、王侯貴族ちを追い詰めていった。その市街地が落ちていく様を王宮の一室から眺めていた国王はついに自決の道を選ぶ。

 国王を失くしたモース王国ではその後も混乱の内戦が続き、内乱は首都市街地だけでなく国中に広がり、国土は荒れ果てた。

 二年間続いたモースの暗黒時代と呼ばれるモース王国内乱を鎮めたのは、学びの塔から派遣された魔道師たちだった。

 モース王国をイクミル王国の属国とし、モース公国へと名を変え、表向きイクミルが監守することになった。代わりにイクミル王国からの物資や技術援助を受けられるように配慮され、モースの地は落ち着きを取り戻していくかに見えた。

 そして、モース公国の一部の地域はオルゼグン王国と共同領域となし、穀倉地域としてモース公国の食糧庫となるようイクミル・オルゼグン両国共同作業にて農地改革を行うこととなった。

 こうして中原に一定の平穏が舞い戻り、もっとも過酷な戦地となった断崖一体の地域の名をとって「シンラスの戦い」と呼ばれるモース王国終焉の戦いは終結した。

 約三年間のシンラスの戦いで、ふたつの王国がそれぞれ国王を失くしたことは皆の知るところである。自決したモースの国王。そして、戦乱の最中、老衰で倒れたオルゼグン王国の老王ケリムス・ケラン。

 ふたりの王の死により、それぞれの国はそれぞれ新しい時代を迎えることになった。

 老王ケリムス・ケランの後継となったのは壮年の王子だった。

 亡き老王は賢王として貴族や国民から慕われていたが、深慮な王らしからぬ一点とされたのが後継者問題だった。老王ケリムス・ケランは正妃との間に王子と王女のふたりの子供に恵まれたのにもかかわらず、最期まで王子の立太子を退いていたのである。

 オルゼグンの老王の真意はどこにあったのか。

 オルゼグン国史は新しい記述を待っている──。



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