感じるままに vol.1



 地面が真っ赤に染まっていた。ポプラ並木の長い影法師。

 リストバンドが白い弧を描いて、橙色のバスケットボールを校庭にすうっと溶かす。
ネットを抜ける音が、今にも俺の耳に届くようだった。

 バネのきいた伸びきった肢体。眩しくて、でも目が離せなくて……。

 それが初めての時。冬に近い秋だった。



 二次関数のグラフに擦った揉んだの六時限目。
ふと聞こえた女の子のざわめきに窓の外を見た。

上背のあるふたりがボールを競り合ってて、ひとりがゴールにシュートを決めた。
ぽんぽん……ってみんなが肩を叩いていく。

 歓声が裂けんばかりに響いて、弾ける汗が綺麗だった。

 それが二度目。年の暮れ。



 引き金は立春。それは連続への約束。

 俺は図書室に運ぶ本を前も見えないほど積んでいた。
一段ずつ確認しながら階段を注意深く下りていき、踊り場でカーブする。
悟の奴、逃げやがって……、と、それはもう悪態つきながら。

 そして、あと半分だ、がぁんばっ、と意気込んだ瞬間、何と、上の三冊がぐらりと揺れた。
あのね、無理だったんだよ、と。

 落ちたのは俺を含めて本全部。転げ落ちるようにして一番下まで一目散。

 そして。
 俺は他人様の上に災難の如く降り懸かっていった。

「いっ……たぁ…………」
「…………ってぇ…………」

 一瞬のうちに俺の眼鏡は無残にもごなごな、ついでに俺は頭と膝を強く打ってしまった。

「大丈夫か? おい……」
「ごめ……ん、悪い。俺のせいで……。怪我、ない……?」

 ど近眼の俺は眼鏡なしの状態だと目がくらくらしてくる。
頭もずきずき、膝もがたがた。

──ホント情けない姿。

 そんな俺の顔を覗き込むようにして顔を寄せてきたのは──あいつ、だった。

「血、出てるぞ。目の下のとこ」

 そう言われて、初めて痛みに気付く。

 触ると、確かに指が赤く染まった。
フレームが壊れたとき、切ったようだ。

「どんどん出てる。おい……ちょっとこれ、沸き出てるぞ。おまえ、立てるか?」

 数人集まってきた野次馬が「スプラッタだっ」と騒ぎ立てるなか、こうして俺はあいつに付き添われて保健室へと駆け込む羽目に。

「あら、藤井くんじゃないの」

 養護の先生は常連客には少し冷たい。
「男でしょ、傷作ったところで嫁にいくわけでもあるまいし」と、消毒も適当に済ませてしまう。

「藤井くんがあたしを貰ってくれるっていうんなら話は別よ。特に顔には傷ひとつだって残してたまるものですか」

 そう。いまのところ、俺がこのセンセをお嫁に貰う予定はない。
よって、俺の治療はとても早く終わったのだった。

 ちなみに、クリスマスを通り過ぎて大晦日へまっしぐらの女盛り(?)のこのセンセはすごい面食いで知られていた。

「そこのハンサム坊や、君はどうしたのかな」

 俺とは雲泥の落差の優しい声音。。一オクターブ声が高い。
いかにも、「君には傷痕など似合わないわよ」って物語ってる。

 そんなセンセに対して、ハンサム坊やと呼ばれたあいつは、
「ただの付き添いですよ」
そう、余裕綽々の微笑みで、肩を竦ませながら応えていた。

 俺は記入欄に氏名、患部、症状を書き込みながら、初めてあいつの声をじっくりと聞いた。

──甘くて響く声なんだな……。

「確か、君は工藤くんだったよね」

 ふうん、工藤っていうのか。

「よく知ってますね」
「あたし、これでも情報通なのよ。顔のいいのは見逃さないの」

 そんなキワドイ言葉を軽く受け流すように、あいつは俺の手元に視線を落とす。

──……あ……れ? じっとこっちを見詰めてる?

「おまえが藤井克己? 何だ、おまえだったのか」

 ひとりで納得して、ほくそ笑む。

「俺のこと、知ってんの? 何で?」

 俺はといえば工藤って名字を今知ったばかりだし、こんなにまともに顔を拝んだのもこれが最初だった。

 それに比べてあいつは、「おまえが克己ねえ」と頷いたりしてる。

「工藤くんや、ひとりで納得されてもほかの者は困るんよ」

 そうだそうだ。その通りだ。

 ところがどっこい、あいつは突拍子もないことを口にした。

 何と──。

「ああ、大したことじゃないんです。ただね、弟を見つける手間が省けたな、と思いましてね」

 そう言ってくださったのだった。





 春。それは「始まり」の季節。

 母子家庭だった藤井家はなくなり、父子家庭の工藤家に併合された。
街では「腕のいい」と知られる歯科医院の医院長と、ピアノ教師の俺の母さんが華燭の典と相成った結果だ。

「そんで工藤になったのか。面倒だな」

 新しい二年のクラスには、十二月生まれの俺より七ヶ月ほど早く生まれたあいつ、工藤和義もいた。
俺の目下の心掛けは、苦労に苦労をかけた母親の幸せを壊さぬよう家では引きつるくらいの笑顔を振り撒くこと。
まあ、その甲斐あってか義父とはうまくいってて、今のところ工藤家は理想的な円満家庭に落ち着いていた……。

「義兄弟で同じクラスねえ」

 一年時から同じクラスの千葉悟が、俺の机の前で昼休みの暇を解消していた。
二年になって三日目のことだ。

「工藤っていえば…………ああ、和義のほうね。あいつ、親衛隊いるんだぜ。
この頃、おまえ、風当たり強いとか言ってたじゃん。あれって、何かと和義がおまえを構うからだと思うね。
親同志の再婚のことみんな知らないから、きっとやっかんでるんだ」
「……みたいだね。今日も何人かに睨まれたもの」

「おまえって苦労人だよな。学校でも家でもさ。
ま、そのわりには、眼鏡で地味に決めてたのをコンタクトにして恋文など貰っとるし。
以外とちまちまと青春してるんだよなあ。結構かわいい顔してるもんな、おまえ」
「悪かったね、女顔で」

「いやいや、おまえのお袋さんを褒めたのさ。すっごい別嬪だもん、あの女性(ひと)……」

 確かに、うちの母親は美人で若かった。
若いのは、俺を十九歳のときに生んだせいだ。

「手紙っていっても大部分は抗議文だよ。残りの半分もからかい混じりのだし。
それに、コンタクトにしたのは眼鏡が壊れたからさ。実物大に見える点はすごくいいな。
以外と疲れるのが難だけど……。だから俺、家に帰るとすぐ眼鏡にしちゃうんだ」
「なら、学校でも眼鏡すればいいじゃん」

「でも……」

 和義が眼鏡をかけるなって言うのだ。俺の顔は眼鏡ないほうがいいって。
俺、弱いんだよ、あいつのそんな言葉にさ。
眼鏡をしないくらいで気に入られるのなら、コンテクトの疲れくらい我慢するよ。

「どうせ、和義が眼鏡かけんなっ、とでも言ったんだろう? おまえ、あいつに弱いもんなあ。
惚れた弱みとでもいうのか、ねえ?」

 ぐっ。こいつ、俺の行動把握してるもんだからってそんな言い方っ。
そりゃ、悟とは一緒に帰るのも多いし、俺、顔に出しちゃうほうだし……。

 でも、俺たち男同志だよ。普通、考えるかっ、んなことっ。

「惚れるな、とは言わないけど、あまり派手な動きするなよ。
それでなくても、和義がおまえを構うの目立つんだから。
人気ある奴の中じゃ、あいつ一番手だろ?
うちの学校、女子の数少ないから、その分団結力は凄まじいぞ。
以前にも、わざとおまえに掃除の水かけたりしてたじゃん。
克己はおとなしいから結構な獲物になっちまうんだからな」

 早くもここで、「悟って俺のこと心配してくれてるんだなあ」とか、「いい奴だなあ」なんて感謝なんぞしてはいけない。
こいつの狙い目はほかにしっかりあるのだから。

 軽音部のお騒がせ人、千葉悟は、俺の境遇というより、俺が渡す曲を案じているのだ。

 文芸部所属の俺は、詩はもちろんのこと、母さん受け売りのピアノで作曲もしたりしていて、俺は自分が音痴なのを知ってるから軽音部には入ってないけど、軽音のメンバーじゃ内輪の人間扱いだ。

 つまり、俺が鬱になったり躁になったり、感情の波にまかせて、暗い、明るい、バラード、アッブテンポといった具合に曲の出来上がりに反映してしまうものだから、悟はほしい曲を手に入れるまで俺の御機嫌取りに徹するつもりなのだ。

 その、千葉悟が今一番ほしている曲とは、まさにラブソング……、だった。

「義兄弟でうまくいっちゃっても近親相姦って言うのかねえ」
「悟っ!!!」

 完全に顔が火照っていたから、きっと真っ赤になっていただろう。
身体まで熱くなっってしまって……。
悟はからかっているだけなんだってわかってはいるけど、その手の話はどうも苦手だ。

 俺だって、義兄となった和義をそんな目で見ているなんて思いたくない。

 けど、もう半年……。多くの人の中でどうしても見てしまう。

 俺より頭ひとつ分も背が高くて、次期バスケ部の部長も決まっているあいつ。
試験じゃ毎度十位以内に入っていて、親衛隊がつくほどの容貌だ。

 噂じゃ曾祖父が英国人だったとか、ちょっと彫りも深くて髪も茶色っぽい。
加えて、歯医者の一人息子。女の子が騒ぐのも道理だよな……。
ああ。別世界人なんだよ、本当は。

 その和義が朝起きると「おはよう」って言ってくれて、食事時には「醤油、取って」とか、間近で笑ってくれたりする。

 今日こそは眼鏡で行こうって思っていても、和義とばったり洗面所で会っちゃったりすると、いつの間にか、俺は石鹸で手を洗って洗浄液のキャップを捩じっているんだ。

 ほんと困るんだ、あんな笑顔。
裸眼でもはっきり見えてしまいそうなくらい寄られると、自分でも逃げ腰になるのがわかるもの。

「ま、感動的な抜群の曲、待ってるからねえ〜。よろしくぅっ」

 勝手気ままなことばっかり言っているんだから! 
悟にとって、結局は他人事ってことかなあ。

 悟がうしろ姿のまま、手をひらひら振りながら、ジュースを買いに教室を出て行こうとする。

 ああああぁぁぁぁあ。
このまま曲を書いていたら、どんなのができるかわかったものじゃない。

 悟の曲のために人を好きになるのなんかごめんだ。

 でも……、俺の瞳はひとりの人を追ってしまっている。
いつもいつも探してしまう。

 恋、なんだろうか。俺が男に?
和義は家族……なのに?

 好きになっても報われない恋なんて、最初っからしたくない。
もし、そんな気持ちで家族やっていかなきゃならないのなら、それってあまりにも辛すぎるよ。

 和義……。あいつ、俺の顔は好きだって言ってくれた──。

 ラブソング……。
今の俺にはちょっと難しい課題だよ、悟──。






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