ハーシェル関連史料
しばしば転居したW. ハーシェル(1)


A. E. ファニング

 後にオブザヴァトリー・ハウス(観測館)として知られるようになった場所に最終的に落ちついた1786年までの間、W. ハーシェルは非常に転居の多い生活を送り、同じ家に2〜3年以上住み続けることはほとんどなかった。彼と彼の兄ヤコブは1757年にほとんど所持金もなくロンドンにやってきて、1759年の秋にヤコブがハノーバーへ帰るまでの間、友人たちと下宿生活をしていた。ウィリアムはロンドンが「音楽家の供給過剰である」のを知って、ヨークシャーのダーリントン伯爵の私兵団軍楽隊長の職に応じたのである。

ヨークシャー

 ダーリントンで働いていた間には、他のことを楽しむ時間がたくさんあったので、以来2年間に彼は主に馬に乗ってあちこちへ旅行し、音楽の指導をしたり音楽会を開いたりしていた。しかし、ひっぱりだこであったにもかかわらず彼はうれしくなかった。「家もなく落ちつくところもない生活には飽き飽きしました。…結局どうなるのか、私にも判りません」と彼はヤコブに手紙を書き送っている。

 数年後にドンカスターのオルガニストであったミラー博士なる人物がウィリアムを「見いだし」、ドンカスターに来て彼のところに住むように誘ったというのであるが、ウィリアムが息子ジョンに語ったように、これは実現しなかった。(「ミラー博士はどうやら自分を本来以上に過信していたらしい」)。

 1762年の春にウィリアムはリーズの市民音楽会の指揮者に任命され、その後も長年に渡って良き友人づきあいを続けたバルマン夫妻の家に下宿して、楽しい4年間をそこで過ごした。1766年8月にはオルガニストとしてハリファクスに移ったが、たった3か月で今度はバースのミルソン街にある新しく高名なオクタゴン・チャペルのオルガニストとしての指名に応じるために転居したのである。

バース

オクタゴン・チャペルのオルガン(現存していない)

 彼に新しい職を与えてくれたデ・シェール博士夫妻のもとに一時滞在したあと、ウィリアムはバースでの下宿先を見つけたが、弟子が増えてきたため、すぐにビューフォート広場に家を借りなければならなかった。ここには友人のバルマン夫妻も一緒に滞在した。バルマン氏がオクタゴン・チャペルの執事の職を得ていたからである。

 次の転居は1770年4月に、ウィリアムがニュー・キング街7番地の家を年30ギニーで借りたときである。彼の3人の兄弟が別々にここを訪れたが、弟アレキサンダーは結局ずっと残ることになったし、1772年に妹カロラインが兄たちのもとで暮らすことを許されてやってきたのもこの家であった。また、その翌年にウィリアムの天文学への関心が本当に高まったのもこの家でのことだった。

 1774年の夏に一家は「ウォルコット・ターンパイクにほど近い」とされるバース郊外の家へ再び転居した。この家には工房にできるような納屋と厩舎があって、観測のできる敷地もあったが、コンサートホールからは遠くて不便だったので、3年後にはニュー・キング街に戻ってきた。バルマン夫妻は1775年に彼らと別れ、リーズに帰っていった。

 ニュー・キング街19番地の新しい家には南向きの庭があった。だから2年後(1779年)に彼らが街の中心部へ、今度はリバーズ街5番地へ転居したことは理由がよく判らない。この家には庭もなかったが、そのことが後に重要な影響を及ぼしたのである。ある夜ウィリアムが通りで月を観測していると、ウィリアム・ワトソン博士という人物が立ち止まってちょっと見せてほしいと頼んだ。彼がハーシェルを当時設立されたばかりのバースの「文学哲学協会」に紹介したのであり、ウィリアムが王立協会に提出した、天王星に関するものを始めとする初期の論文を読んだのも彼なのであった。

 ハーシェル一家は2年後にニュー・キング街19番地の快適な家へ戻った。ここでウィリアムは1781年3月13日に、彼らの人生を変えただけでなくその後の天文学の発想方法を根本的に覆す大発見を行ったのである。この家は今ハーシェル・ハウスと呼ばれ、ハーシェルが暮らしたことが判っている家の中で唯一現存している。ここにはハーシェル博物館が置かれ、ウィリアム・ハーシェル協会の本部となっている。


日本ハーシェル協会ニューズレター第86号より転載
和訳:木村達郎


しばしば転居したW. ハーシェル(2)
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