ハーシェル関連史料
クニッピング夫人からJ. ハーシェルへの書簡


 1848年1月、カロライン・ハーシェルがドイツのハノーバーで98歳の天寿を全うした直後に、彼女を看取った、弟ヨハン・ディートリヒ (1755-1827) の長女で未亡人のアンナ・クニッピング夫人は、イギリスのホークハーストに居を構えているジョン・ハーシェルに手紙を送った。

 筆者は初めてその原文に接したとき、いたく感動した。カロラインの小伝(「星の手帖」1991年春号所載)を書いたとき、同書簡の拙訳を載せたが、初めて日本の読者に読んでいただけるという喜びと、果たして適訳だったかという心配が半々であった。

 このほど北海道在住の会員からお便り(ニューズレター第94号)に続いて、「男装の科学者たち」(1999年5月25日第1刷発行、北海道大学図書刊行会)から10数ページ分のコピーが届いた。つぎに、同コピーの中に含まれていた、上記の筆者訳文と同じ箇所、つまりA. クニッピング夫人のJ. ハーシェルに宛てた手紙(ただし後のほうの3分の1は省略されている)を紹介し、併せて原文を掲載しておきたい。

「男装の科学者たち」(1999) p 173-4

 伯母の死に際して、私は、あの不安に満ちた心が、ようやく今、休息にいたったと考えると、ほとんど喜ばしいといっていいような安堵を覚えました。彼女のすべての愛は彼女の愛する兄に集中していました。彼の死で、彼女は孤独を感じました。この長い離別の年月を過ごした後、彼女にとって私たちがすべて他人としか感じられなかったのです。兄を失って、誰も彼女の兄に代わることはできませんでした。…時が真に彼女のあまりにも深い悲しみを減少させ和らげました。それから、彼女は永久にイングランドを離れたことを悔やみ、誰も天文学に関心をもたない国に住んだことで自分を咎めました。私は彼女と悲しみをともにしましたが、彼女がイングランドにいたとしても、彼女が同じ空しさを感じたに違いないということを私は十分に承知していました。彼女は科学の発展を兄の名声を大いに損なうものとみなしました。そして、あなたの研究さえも彼女があなたと仲たがいする原因となったことでしょう。

「星の手帖」Vol. 52 (1991) p 101

 伯母が亡くなって、永らく平静を失っていた御心が安らぎを得たことに救われた思いです。愛を捧げ尽くした彼女の兄が死んでから、ずっと孤独でした。誰も兄の替わりはできず、私たちは皆、よそものでした。たしかに、時間は、彼女の悲しみの抗し難いほどの重圧を少しずつ和らげ、イギリスを捨てたことを悔やみ、天文学にだれも関心を示そうとしないこの国に住むことを、自ら責めていました。彼女の後悔は私も同感ですが、イギリスにとどまったとしても、同じ虚ろな思いだったに違いありません。彼女は科学の進歩に対して、兄の名声を非常に損なうものと考えました。貴方の研究成果でさえも、お側に居られたら、仲違いの原因になったかもしれません。彼女は完全に過去に生き、現在には取っ付きが悪く、当惑していたのです。ありがたいことに彼女は、この世で最愛の人たちに再会できるところに去って行きました。私は彼女を高く賞賛し、かつ深く愛しましたので、彼女を失ったことを何時までも寂しく思います。もっともいとおしい想い出は、彼女もこの地では私をだれよりも愛し、より近しい親密さを私にゆるし、しかも彼女の内面的な心さえも幾分かは私に開いてくださったことです。

「カロライン・ハーシェルの回想と書簡」(ロンドン、1879)p 346

日本ハーシェル協会ニューズレター第95号より転載


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