ハーシェル関連史料
コリングウッド、むかしといま


コリングウッド邸の来歴

 英国ハーシェル協会の会報第37号(1992年2月)に「ケント州ホークハーストのコリングウッド−ジョン・ハーシェル卿の邸宅」という記事が載りました。資料提供はベッジバリー・スクールの図書館司書A. S. ニッパー氏です。ジョン・ハーシェルが南アフリカの南天観測(1833-38年)から帰国して間もなく、大都会を離れて閑静なケント州に求めたのがコリングウッド邸。ニッパー氏によればケープタウンのフェルドハウゼン邸と同様、ここにも長い歴史が刻まれています。

 1792年に古いムーア・ハウスが取り壊されて、その後1810年に(今に残る)新しい建物ができあがったときの住人はジェズ・グレッグソン。1816年新婚のジョージ・ニューナム、サラ夫妻がこの邸宅を購入しました。夫人はコリングウッド卿の令嬢の一人で、夫は妻の姓も残すためにジョージ・ニューナム=コリングウッドと名乗りました。

 1838年に夫ジョージが死去すると、サラ夫人は22年間住み慣れた自宅をジョン・ハーシェル卿に売却、1840年2月ジョン卿は買い取った邸宅をコリングウッドと呼ぶ許しを求めたとのことです。よく知られているように、すでに7人の子持ちのハーシェル夫妻にここで5人の子が生まれ、ジョンは1871年に、マーガレット夫人は1884年に世を去りました。1890年にジョンの子供たちはコリングウッド邸を退役少将ウィリアム・スクレイス=ディキンズに譲りました。少将は若いときに第20歩兵連隊の旗手としてクリミア戦争などで活曜したと言われます。1914年に少将は死去、同邸は甥のスペンサー・ウィリアム・スクレイス=ディキンズの手に渡り、1920年頃フレデリック・ギディが買い取って1927年頃ホテルに改造しました。1952年ライルスデン・スクールが買収、1979年に同校はベッジバリー・パーク、ホリントン・パークの両校と合併してベッジバリー・スクールが誕生、コリングウッドはその寮生寄宿舎に模様替えし現在に至っています。

 上記記事の資料提供者A. S. ニッパー氏にコンタクトすればさらに詳しい情報が得られるはずと考えて、まずは同会報の編集者A. V. シムズ氏に問い合わせました。幸いなことにシムズ氏のお骨折りで最近A. S. ニッパー氏から多くの資料・写真・カラーコピーなどを入手することができました。紙面を通じて両氏にお礼申し上げます。

日本ハーシェル協会ニューズレター第53号より転載

コリングウッド邸の写真

 初めに同氏から(1992年)10月末に届いた手紙をご紹介しましょう。コリングウッド邸が失火による被害を受けたという知らせです。

 残念なことに私が前回手紙を書いた後、コリングウッド邸で火事があり、建物の端にある「丸い」部屋の壁と屋根にかなり大きな被害が生じました。かつてハーシェルの書斎でありその前は応接間だった部屋には幸い影響がありませんでした。

 このお手紙には1880-90年の間に撮影されたと言われるコリングウッド邸の外観の2枚の写真のコピーのコピーが同封されていました。ニッパー氏はハーシェル一家が同邸から転居直前の1890年に写したものと推論しています。このコピーを縮小して印刷すると画質がずっと落ちることは承知ですが、同氏がまったく同じ場所から撮ってくださった最近の写真と比較してみます([1] と [2])。

[1] 1890年頃のコリングウッド邸全景(M. エリングワース夫人所蔵)

[2] 1992年のコリングウッド邸全景

 続いて1850年代と1928年頃のコリングウッド邸の室内を拝見しましょう([3] と [4])。

[3] 1850年代、ジョン・ハーシェル一家が住んでいたコリングウッド邸の居室(M. エリングワース夫人所蔵の素描より)

[4] 1928年頃、ホテルに模様替えされたコリングウッド邸の一室。パンフレットによると「過ぎ去りし歳月の魂と姿があらゆるところで大切に保存されています」。

日本ハーシェル協会ニューズレター第54号より転載

カラーのコリングウッド邸

 コリングウッド邸については、ニューズレター第53号と第54号に詳述しました。当時の我が印刷物はモノクロ。最近、ハーシェル子孫メアリー・エリングワース夫人から頂戴した同邸の図面と書斎の絵をお目にかけます。



日本ハーシェル協会ニューズレター第124号より転載


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