ハーシェル関連史料
カロライン・ハーシェルが発見した彗星(5)


[7] 1795年の彗星 (P/Encke)

第7図 1795彗星の経路
 焦点距離5フィートの望遠鏡で彗星を探していたカロラインは1795年11月7日の夜、白鳥座に明るい彗星を発見した。ウイリアムはすぐにこれを肉眼で確認し位置を測った。コマ直径は5′、中央集光はなかった。この彗星の発見は11月11日までにヨーロッパ各地に知れわたり、多くの天文家が観測を行ったが、11月29日のオルバース (H. W. Olbers, 1758-1840) の観測が最終のものとなった。その後は曇ったという。ブーバル (A. Bouvard, 1767-1843) やフォン・ツァッハ及びオルバースが放物線軌道を計算したが、その後1822年にエンケ (J. F. Encke, 1791-1865) が、この彗星と1805年及び1818年に観測された彗星が同じもので、3.3年を周期としていることに気がついた。そしてメシェンが1786年1月17日と19日の2回だけ位置を測定していた彗星も、これと同じ彗星であることを確かめた。

 この彗星は今ではエンケ彗星と呼ばれているが、この彗星はおうし座の流星群の母天体であると考えられている。また、彗星の運動に現われるロケット効果で非重力効果と呼ばれている現象が最初に発見された彗星でもあり、さらに黄道光物質を放出している彗星でもあると考えられている。このようにエンケ彗星は彗星や流星の分野では大変貴重な彗星となっているが、カロラインはそうとは知らずにこの彗星の第2回目の発見者になったのである。彼女は充分に長生きしたので、このエンケの研究については知っていただろうと私は思いたい。

[8] カロライン発見の最後の彗星

 1797年8月14日にブーバルが発見し、同じ日にカロラインとリー (S. Lee) が、そしてドイツでも翌日独立発見された彗星がある。8月21日にはオルバースも独立発見したのだが、今ではブーバル・ハーシェル彗星と呼ばれている。これがカロライン発見の最後の彗星となった。この彗星は各地で観測され、8月16日には3等級になり、8月15日に地球に0.088天文単位の距離にまで接近し、図のように北極星のすぐ近くを通っていった。しかし急速に遠ざかり、8月19日ごろには肉眼では見えなくなった。

 この彗星は東洋では日本でのみ記録されていて、「続皇年代略記」に寛政九年(1797年)七月孛星出」とあるのがこの彗星であろう(大崎正次「近世日本天文史料」原書房 1994 p. 485)。孛(はい)星とは尾のない彗星のことである。カロラインの彗星が東洋で記録されたのがこの彗星だけであることは、不思議なご縁であると思う。

 この年カロラインは47歳であった。この後も彗星を探していたのかどうかはわからないが、彼女の彗星発見はこれで終わりである。1822年にウィリアムが亡くなった後、彼女は生まれ故郷のハノーバーに帰った。そして1848年に亡くなった。97年と10ケ月の生涯であった。

第8図 1797彗星の経路

日本ハーシェル協会ニューズレター第104号より転載


「カロライン・ハーシェルが発見した彗星」への追記

デジタルアーカイブのトップにもどる

日本ハーシェル協会ホームページ