ハーシェル関連史料
カロライン・ハーシェルが発見した彗星(1)


長谷川一郎

 2000年の今年はカロライン・ハーシェル生誕250年の年にあたる。今から200年ほど前にカロラインは彗星の発見という分野ですばらしい成果をあげていた。彼女の努力を偲びながら、その業績をたどってみたい。

第1表 カロラインが発見した彗星
No. 彗星番号 発見日 発見光度 近日点通過(世界時)

1

1786II, 1786 P1 8月1日夜 7 7月8.4日 -

2

1788II, 1788 Y1 12月21日夜 7 11月20.6日 1

3

1790I, 1790 A1 1月7日夜 6 1月15.7日 -

4

1790III, 1790 H1 4月18日朝 7 5月21.7日 2

5

1792I, 1791 X1 12月15日夜 7 1月14.0日 -

6

1793I, 1793 S2 10月7日夜 6 11月5.3日 3

7

1795, 1795 V1 11月7日夜 6 12月22.0日 4

8

1797, 1797 P1 8月14日夜 4 7月9.6日 5

注1 ハーシェル・リゴレー彗星。
 2 4等級になり、尾も見えた。
 3 9月27日にすでにメシエが発見していた。
 4 エンケが周期彗星であることを指摘した(1822年)。
 5 ブーバルも独立発見し、日本でも記録されている。

[1] カロラインの最初の彗星発見 (1786 P1)

 カロライン(Caroline Lucretia Herschel、1750年3月16日-1848年1月9日)の兄ウィリアム (1738-1822) は、1757年カロラインが7歳の時にイギリスに渡り音楽家として活躍していた。カロラインは1772年8月、22歳の時に兄に伴われてハノーバーからイギリスに行きウィリアムと一緒に生活しながら、彼女は歌手として活躍し始めた。

 ところが1781年3月にウィリアムは天王星を発見して、天文学者としての道を大きく踏み出すことになった。そして星を観測するかたわら反射望遠鏡の製作もしていたので、カロラインは兄の観測の助手をしたり望遠鏡製作も手伝っていた。そして1782年にはウィリアムとともにスラウに移り、彼の勧めもあって彗星の捜索を始めるようになった。この頃はフランスのパリでメシエ (C. Messier, 1730-1817) やメシェン(P. F. A. Mechain, 1744-1804, 1798年にパリ天文台長になる)が彗星の発見を盛んに行っていた時代であった。

 ところで、1786年7月から8月にかけてウィリアムはドイツに出かけて留守になった。従ってカロラインには十分な時間ができて、彗星探しに専念することができた。そして8月1日の夜半前に、しし座の東部に丸い星雲状の天体を発見したのである。ちょうど焦点がぼけた望遠鏡で見た星のようで、M27という8等級の星雲にその明るさや色が似ていた。彼女は彗星だと思ったが、空がすぐに曇ってきたのでその運動を確かめることはできなかった。私は当時の彗星発見の通報システムについてはその実際を知らない。しかしウィリアムが天王星を発見したときには、彗星だと思ってロンドンにある王立協会に連絡をした。それはこの会のワトソンという人を知っていたためかもしれない。だからカロラインもこの協会に知らせたのかもしれないが、8月2日にオーベルト (A. Aubert) という人に通知したことは確かである。(Mrs. J. Herschel, Memoir and Correspondence of Caroline Herschel, 1878, pp. 69-70、木村精二氏のご教示による):「彗星は今夜、かみのけ座19番星に大変接近します」。(この19番星は6等級の星で、ボーデの星図にある表によると赤経は184°37′、赤緯は+28°20′(1780年分点か)である。これを2000年分点に換算すると赤経は12h29.5m、赤緯は+27°27′となる。彗星の位置予報によれば8月7日21時(世界時)の位置は12h26.9m、赤緯は+27°14′となり、オーベルトの予想とよく合っている)。

第1図 1786IIの経路
 また8月5日にはウォラストン牧師 (F. Wallaston, Chislehurst) が口径2インチの屈折望遠鏡で観測し、M3(光度6等の球状星団。直径16′)と同じように見えたと記録している(メシエは彼の有名なカタログを1771年と1781年に出版していた)。そしてこの彗星は肉眼では見えないし尾も見えなかったか、中央集光ははっきり見えていたという。8月13日にはメシェンがこの彗星の位置を初めて測定している。17日には肉眼でも見え、尾が見え始めた。

 旅行から帰ってきたウィリアムは8月19日にこの彗星を観測した。そして10月26日夜のメシエとマスケリン(N. Maskelyne, 1732-1811、1765年にグリニッジ台長になる)の観測が最終のものとなった。この時光度は9.5等であった。

 それぞれの彗星の発見されたときから最終の観測が行われたときまでの経路図を掲げておくが、経路には日/月が記入してある。また場合によって太陽の位置を示しておいた。カロラインが発見した彗星は第1表にリストしてあるが、この表の「彗星番号」の欄に2種類の番号がある。その左側のものは、彗星がその軌道上の近日点を通った西暦年とその年内の順番がローマ数字で示されている。その1年間に近日点を通った彗星が一つしか観測されなかったときはこのローマ字はない。カロラインの彗星では最後の2つがこの例である。表の右の方に「近日点通過」という欄があってそれには年が示されていないが、それはこの彗星番号の西暦年と同じである。次に右側の番号は、発見された年と月と順番が示されている。毎年1月前半をA、後半をBとし、この順に半月ごとにアルファベットをつけ、Iは使わないので12月前半がX、後半がYとなる。2月は1日から15日まで、他の月は16日までを前半とし、その半月の間で発見の公表順に番号をつけるというシステムである。例えば1786 P1は1786年8月1日から16日までの間に最初に発見されたものであり、1793 S2は1793年10月前半の2番目に発見されたことを意味している。

 カロラインが彗星を発見した1786年から1797年までの12年間に、彼女以外の人が発見した彗星は次の9個である:

1786I メシェン(エンケ彗星)
1787 メシェン
1788I メシエ
1790II メシェン(タットル彗星)
1792II グレゴリ、メシェン、ピアジ
1793I メシエとカロライン
1793II ペルニ
1796 オルバース
1797 ブーバルとカロライン

 カロラインはメシエやメシェンという有力な彗星発見者の中にあって、この期間中に発見された彗星の約半数を一人で発見したことになる。すばらしい活躍であった。

日本ハーシェル協会ニューズレター第100号より転載


カロライン・ハーシェルが発見した彗星(2)

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