歴史ツーリズム − 歴史的遺産を活用する

歩くことが楽しいまちづくり

ヨーロッパの都市では、かつて都市と都市の外側を隔てていた城壁をみることができます。前近代においては、敵を防ぐための軍事的な建造物として重要な役割を果たしてきましたが、近代に入ってからは、都市の発展を妨げるものとして扱われました。今日、人や環境にやさしい、歩くことが楽しいまちづくりの視点から城壁の保存が見直されています。町の中に自動車のための広い道路を通せなかった通ことが、今になって高く評価されています。

 ヴィスバーデン 城壁の入口

車いすでの移動について、赤十字語学奉仕団の伊藤雅彦さんは、「ヨーロッパの町は、石畳や階段も多く、歴史的な建築物はもちろん自動ドアもありません。しかし、むやみに建築の形を変えるのではなく、人が手助けしてくれるのです」と指摘しています。これからのまちづくりでは、歴史的な遺産を大切にして、人と人の絆によって障害を克服することが、当たり前にできるまちづくりが望まれます。

愛知県犬山市でも「歩いて巡るまちづくり」をテーマに、歴史的な雰囲気を大切にした取り組みが始まりました。国宝の犬山城を中心に江戸時代から残る町割りを活かし、町の周辺道路を拡幅整備することによって、中心部は、住民や旅行客が安心して歩けるようにする計画です。国内には、歴史的景観保存地区に指定されているにもかかわらず、自動車のために安心して歩けない町もあります。犬山は、町の中を歩くと、お琴教室の音色や飴をつくる匂い、和風の花飾りなどを楽しむことができる町なので、できるだけ自動車が入って来ないまちづくりを推進して欲しいと思います。

近畿日本ツーリストのクラブツーリズムでは、歴史関係のツアーが充実しています。歴史散策シリーズでは、山手線や大江戸線の駅を拠点に、東京に住んでいる人が身近な場所を講師の先生の説明を聞きながら歩きます。2003年は、徳川家康による江戸開府から400年という記念すべき都市で、生活者の江戸時代に対する関心も高まってきました。江戸の古地図を現在の東京の地図と比較すると、普段なにげなく通りすぎている場所にも由来があることがわかり、江戸の街を身近に感じさせてくれます。作家の逢坂剛も、神田の街が江戸時代から基本的骨格となる大きな道筋が、ほとんど変わっていないと指摘しています。古地図の名称を確認しながら町を歩くと、江戸時代にどんな人々が暮していたのかが想像することもできて、東京に歴史ツーリズムの資源がたくさん残されていることに気づかせてくれます。

まちづくりのシンボルにもなる城郭の復元ブーム

1990年代、「ふるさと創生金」などを使って、日本各地で近世の城郭を復元するブームが起きました。これは、1960年代前後の戦災焼失物の復元による「天守閣復元ラッシュ」とは一線を画し、櫓(やぐら)や門といった建造物を忠実に復元する本格志向です。静岡県の掛川城天守閣復元では、1999(平成11)年に一人の市民が五億円を市に寄付したことがきっかけとなり、計九億円を超える寄付が集まったそうです。2000円札のデザインに採用された沖縄の首里城も、連合軍の砲撃などによって破壊されましたが、1992(平成4)年に復元されました。

これらの「平成の大復元」とも呼ばれる城の復元ブームは、歴史学や考古学に対する新しい研究分野としても脚光を浴びています。城郭の復元は、単に観光の目玉としてだけでなく、まちづくりのシンボルや住民の心のよりどころとして、町のアイデンティティを問われる存在となるだけに真剣な取組みが求められます。

考古学の世界を体験できる旅

エジプトのカイロにあるギザのピラミッドでは、演出照明とナレーションによるスペクタクル・ショーが行われています。ピラミッドの前に用意された椅子に座り、真っ暗な砂漠の中に演出照明によって浮き上がるピラミッドとスフィンクスを見ていると、5000年も前の世界へ引き込まれる思いがしました。

  ギザのピラミッド

吉村作治は『ピラミッドの謎』(講談社現代新書1979年)の中で、「大ピラミッドの石材の一部を調達したと思われるアスワンの石切り場から、この時代の石工や労働者のものと思われるいたずら書きが発見されています。それらは、神と同一視されている王をたたえるものや、ユーモアにあふれるもので、ピラミッド建設にたずさわった国民がけっして悲惨な気持ちで仕事をしていたのではないことを示している」と述べています。古代人と同じ方法で石を切り出し、運び、積み上げてピラミッドや遺跡を復元するなど、考古学の世界を体験ができれば、旅の楽しみも広がると思います。

地下から探るパリの歴史

パリの街は、地下から石を切り出して地上にある城壁や建物が造られてきました。石を掘り出した後にできた空間は、第二次世界大戦におけるレジスタンスの活躍など、歴史的に重要な役割も果たしました。都市の発展は、汚水処理を抜きに考えることができませんが、パリの地下には下水道ミュージアムがあり、教育や観光の資源として利用されています。パリの下水道整備は、17世紀始め、アンリ4世の時代に始まりましたが、飲料水に汚水が混入することを防ぐことが城壁で囲まれた都市の課題でした。

しかし、汚水をそのままセーヌ川に流したため、18世紀のセーヌ川は、江戸の隅田川と比べものにならないくらい不潔な川だったと言われています。パトリック・ジェースイント著、池内紀訳『香水 ある人殺しの物語』(文藝春秋1988年)に、18世紀のパリがいかに臭かったが面白く表現されています。

19世紀、オースマン知事による大々的な都市計画によって、パリが近代都市として生まれ変わる一環として改造されました。現在のパリの下水道は、この改造が基礎となっていて、現在、長さ2100メートルで世界一の設備を誇っています。また、下水道内には、給水、電気、ガス、電話線、速達郵便パイプなどにも利用されていて、パリの景観にも貢献しています。

パリの町には、芸術化のお墓がたくさんあり、このお墓も観光資源としてパリの魅力となっています。ドガが眠るモンマルトル墓地、モディリアニやドラクロアが眠るペール・ラシェーズ墓地、そして、スーティンが眠るモンパルナス墓地が有名です。共同墓地から掘り出された人骨も観光資源として利用されています。レ・アール地区は、パリでもっとも活気があって、にぎやかな場所の一つになっていますが、2世紀から5世紀にかけて、都市を形成するために採石した跡を利用して、何百年もの間、共同墓地となっていました。1785年から1世紀の年月をかけて、120万体の人骨がモンマルトルのカタコンブ(地下墓地)に移されました。カタコンブは、一部見学施設として開放されていて、頭蓋骨や手足の骨を使って、ハート型などの模様になっている場所もありました。

日本人にも長期休暇の習慣が定着すれば、パリに長期滞在する人も増えると思いますが、たまには芸術観賞やブランド品のショッピングだけでなく、地下からパリの歴史を見ることも一興です。

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