第一話 -少年-
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二月。
キンと冷えた空気の張り詰める廊下を俺、朝場一は歩いていた。
時刻は午後六時。
もう日は落ちかけ、校内は薄暗い。
学生鞄を小脇に抱え、下駄箱へと歩を進める。
部活動をしているわけでもない俺がこんな遅くまで学校に居るのにはそれなりに理由があった。
学年の学級委員集会に、代理として出席したのである。
本来ならばもちろん、学級委員長と副委員長が出席するのが当然であるが、あいにく俺のクラスは風邪をこじらせた委員長の代理が必要となってしまったのだ。
ホームルームの時間が終わっても決まらない代理人。ずれ込む帰宅時間。
先生の声にも無反応を装うクラス一同。
そんな気まずい雰囲気に嫌気が差して挙手をし、俺が委員長代理として集会に参加する事になったーーと見せかけて、その実はこうだ。
副委員長の望月小夜に気があった。
ただ、それだけの理由だった。
集会で隣の席に座れるのなら、何時間だろうと構わない。
そもそも目的を同じとし、人気の少ない学校に一緒に居られる事自体が非日常であり気分が高揚した。
もちろん、そんな事はおくびにも出さない。
平静を装いながら集会に出席し、実務をこなした。
少しずれた帰宅時間に望月と一緒に帰宅ーーなんて淡い期待も抱いていたがそれは叶わなかった。
男子だからという理由で資料整理という名の重労働に借り出されたのだ。
お陰で帰宅時間は大幅にずれ込み、校門が閉まる時間になっていた。
集会で帰宅時間が遅れたのに先生にどやされたらたまったもんじゃない。
俺は足早に、職員室の前を通り過ぎようとして、それに気がついた。
薄暗い廊下に溶け込むように、床に落ちているそれはしかし、少しだけ厚みがあった。
近づくとそれが、黒表紙のノートだと判る。
落し物か?
近づいて拾い上げる。
表裏も黒一色、中は罫線が引かれたごく普通のノート。
使用形跡はなく、新品同様だった。
「どうしたの?」
職員室の戸がガラガラと開き、先生が出てきた。
数学担当の、仁村雪江だった。
年のころは二九歳。背中まで届く黒髪と縁のない眼鏡、スタイルも良く男子生徒からはそこそこ人気のある先生だった。
肩から下げたショルダーバッグと両手に抱えたフォルダー。いかにも帰宅直前といった出で立ちだ。
「あの、落し物みたいです」
俺はノートを差し出す。
「ふぅん」
仁村先生はちらっと一瞥くれただけで、
「もらっちゃいなさいな」
意外と大胆な事を言う。
「嫌なら落し物ボックスにでも入れればいいけど…あのざまでしょう?」
落し物ボックスとは、生徒指導室の硝子窓の向こう側にある大きなダンボール箱である。
校内での落し物は基本的にそこに集められ、落とし主は硝子越しに物を探し、見つかれば申請して受け取る仕組みとなっている。
が、それはほとんど機能していない。
申請が面倒くさい。担当の体育教官がくどい。一、二年生はそもそも三年生のエリアにある生徒指導室に行き辛い。
など様々な理由から敬遠されてた。
「偶然とはいえ貴方に拾われた。これも何かの縁じゃない?」
たかだか普通のノートだし別に欲しくもない。
が、わざわざ落し物ボックスのある三階生徒指導室まで行くのも手間だ。
「はあ」
俺は承諾の、気の抜けた返事をした。
「それじゃあ、帰ろう帰ろう」
俺の言葉ににこりと笑った先生は、肘で俺の背中をぐいぐい押してくる。
されるがままに、片手にノートを持ったまま下駄箱へと向かった。

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