Chapter 1

 路地裏の暗がりに転がり込むと、男は深く息を漏らした。
 もうすぐクリスマス市で街が賑わう冬の始まり。
 今夜は特別冷え込んでいるが、男のひきつった顔にはうっすらと汗が浮かんでいた。そして、恐怖の色が。
 街角を彩るイルミネーションもこのうらぶれた一画には差し込んでこない。白い息を押し殺しつつ通りを窺う。──人影はない。
 ああ、逃れたのだ。
 安堵ととも痺れていた脳髄が動きはじめ、彼は自分の身に降りかかった事を振り返る。
 あれは、何だったのだろうか……。
 人通りもまばらな通りで、突然自分の身だけが切り刻まれていく。頬が、上着が、脚が。耳元で甲高い笑いが聞こえたような気がした。無我夢中で走り続けた。走りながらも見えない刃が自分の身体を切り裂く感覚はあったが、いつの間にか姿なき切り裂き魔を振り切ることに成功したようだ。
 しかし──心の奥でまだ不安がざわめく。視線だ。どこかからあの凍り付くような悪意の視線を感じる。いや、まだ気が昂ぶっているだけだ。
 次の瞬間、男の視界が深紅に染まった。
 凄まじい勢いで壁に叩きつけられ、痛みが前進を突き抜ける。
 骨のきしむ鈍い音が身体の奥から聞こえ、それでも壁に押し付ける力は止まらないのだ。
 その男の前に舞い降りた一つの影──表通りからのわずかな明かりを背後に受け、その貌は見えない。だが、薄明かりに映し出される輪郭は奇妙なほど白い──。
 白い影は狂喜の笑みを浮かべて自分を見つめていた。

*   *   *

 2009年末、ドイツ東部・ザクセン州。
 その街は、数週間前に端を発する連続殺人事件の話題で持ちきりだった。
 地元の新聞はもとより、全国紙でもトップで書かれているそれは、連日のように人々の口に上っている。
「着きましたよ、ミューラー捜査官」
 パトカーを運転していた警官が後部座席の若い男に呼びかけると、彼はああ、と生返事をして手元のタブロイド紙から顔を上げた。ミューラーと呼ばれた男を見る警官の表情には、これから自分達が向かう事件現場に派遣された捜査官にしては若すぎるのではないか──正直に言って当てになるのだろうか、といった不安がやや混じっていた。
 歳はまだ三十路までは行っていないだろう。ブラウンの髪はなでつけて前髪の半分は下ろし、生真面目そうな顔立ちのいかにもエリート然とした印象を受ける風貌だが、それでいて取っつきにくい雰囲気はない。意志の強そうな目が年若い割に信頼感を感じさせる。確か──BKAの中でもなにやらの特別捜査官と聞いているから、そう当てにならないということはあるまいと警官は密かに己を納得させた。
 車が止められたのは表通りからやや外れた路地の入り口だった。丁度、朝の通勤時間帯のことで、立入禁止のテープが張られた路地の暗がりを通行人が覗き込んでいく。
 テープをくぐって進んだ先で、ミューラーは顔をしかめた。
 クレーター状に穿たれた地表に溜まった血痕。
 しゃがみ込んで異様な殺人現場の痕跡を検証するミューラーに、傍らに立つ警官が言った。
「土木用作業用の機械でも使ったのでのでなければ、こうはならないでしょう」
「そうだな……しかし車も入れない路地裏、周辺の住人もそんな車両の通る物音も破壊音も聴いていないか」
「確かにこの辺は再開発で工事は多いんですが、町中でそんなものを使って殺しだなんて」
「──やはり例の一連の事件と見て間違いはないようだな」
 被害者の関連性や手口ではなく、現場自体の異常性によって連続した事件と目される──このような殺人現場を見るのは、ミューラーには初めてではなかった。
「今までの現場はもう見てこられましたか」
「一昨日、辞令を受けて先週の事件を調査中だったんだ。そこへ昨夜これで飛んできたが」
 ミューラーは昨日見てきた現場を思い返した。

 それは、壁にめり込んだ死体というセンセーショナルな状況で話題を呼んだものだった。
 しかも、そのような状況で被害者はダイイング・メッセージを残したという。先ほど彼が読んでいたゴシップ紙でも盛んに取り上げられていた。
 それについては、地元警察も触れていたことから無責任な風評とは言えないようだ。
「第一発見者の会社員の話では、ここに──こうめり込んだ状態で、それでもまだ息があったというのですかね。しかし、救急車が到着したときにはもう死亡していたのは確かですが。もっとも、死亡推定時刻からして発見時刻とかみ合っていないんですよ」
 発見されたのは死亡後1〜2時間は経ってからのはずながら、遺体の状態が悪すぎることと、冬の夜間という気温の低さから正確な死亡時刻は割り出せないらしい。
「証言といったところで当てになるかどうか分からないんですがね。その発見者の方もだいぶ動転していたようですし、息も絶え絶えで──なんとか聞き取れたのは『悪霊』だか『悪魔』…それに『白い』という言葉なんだそうです」
 狭い路地の突き当たりの壁にはほぼ人型のへこみが残され、それは登場人物が壁に自分のシルエットの穴を残して突き抜けるカートゥーンを思わせる奇妙な可笑しさがあった。
 馬鹿な。ありえない──ミューラーはそう思わずにいられなかった。彼は現場に到着する前に解剖に回された遺体を見ている。異常な圧力が加えられたことを示すように内臓はことごとく潰れているのだ。あの状態で息があり、ましてや喋ることなど…。
 また、そのダイイング・メッセージと云われる言葉も腑に落ちない。
「何の意味なんだ。……白い…悪魔…?」
 意図も判らぬまま、その言葉は流言飛語を呼んでいく。

 最初の事件から詳しい話を署で聞くことにして、案内役の警官を伴って路地から出たミューラーの目が、ふと野次馬の中の一人に留まった。
 帽子を目深に被りサングラスを掛け、そしてロングコートの襟を立てたその姿は、怪しい人物の見本のようなものだ。そんな格好で殺人現場に現れるというのが出来過ぎているような。しかし単に通りすがりだったのか、すぐに人目を避けるようにその場を離れた。
「あれは…? あからさまに怪しい男だな」
「え?」
 ミューラーの視線の先を追って、警官は頷いた。
「ああ、彼ですか。彼なら──体質のせいですよ。気にすることはありません。それより、あんまり見ているとなんですよ」
 訝しむように振り返ったミューラーに、警官は声をひそめて続けた。
「白ウサギとかネズミなんかと同じような──生まれつき髪や肌が真っ白な人間だそうで」
 そこまで言われてミューラーはようやく得心した。
「ああ、そうか。……いや、失礼な見方をしてしまった」
 白子(アルビノ)と呼ばれる障害。ミューラーも漠然とした知識はあった。先天的にメラニン色素を持たないため、紫外線に耐性がないのだとか…。一見した限りでは気が付かなかったがそれも道理だ。帽子やコートの襟で顔の半分は隠れ、手袋もはめており素肌が露出している部分はほとんどない。血液の色がそのまま表れる特徴的な赤い目もサングラスで隠れていた。日差しを避けてのことだろう。──それと人々の好奇の視線を避けてのことかもしれない、と、小さく悔悟の念を感じるミューラーは思った。
 しかしながら、ミューラーは同時に、先ほど目にした新聞記事の一節を連想せずにいられなかった。
(犠牲者は残したという。『白い悪魔』という不吉な言葉を…)
 ──それこそ失礼なこじつけだ。考え過ぎか…。
 ミューラーは即座にその考えを振り払った。


Chapter 2

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既に同人誌の方をご覧になっている方に云っておきますと、
構成が同じなので気が付きにくいと思いますが、
冒頭の「事件」描写は同人誌版の冒頭と同じ事件ではありません。
ここでは、先にミューラーが見てきた事件の方。
しかし…1章でブラドの名前が出てきやしない(汗)。