路地裏の暗がりに転がり込むと、男は深く息を漏らした。 もうすぐクリスマス市で街が賑わう冬の始まり。 今夜は特別冷え込んでいるが、男のひきつった顔にはうっすらと汗が浮かんでいた。そして、恐怖の色が。 街角を彩るイルミネーションもこのうらぶれた一画には差し込んでこない。白い息を押し殺しつつ通りを窺う。──人影はない。 ああ、逃れたのだ。 安堵ととも痺れていた脳髄が動きはじめ、彼は自分の身に降りかかった事を振り返る。 あれは、何だったのだろうか……。 人通りもまばらな通りで、突然自分の身だけが切り刻まれていく。頬が、上着が、脚が。耳元で甲高い笑いが聞こえたような気がした。無我夢中で走り続けた。走りながらも見えない刃が自分の身体を切り裂く感覚はあったが、いつの間にか姿なき切り裂き魔を振り切ることに成功したようだ。 しかし──心の奥でまだ不安がざわめく。視線だ。どこかからあの凍り付くような悪意の視線を感じる。いや、まだ気が昂ぶっているだけだ。 次の瞬間、男の視界が深紅に染まった。 凄まじい勢いで壁に叩きつけられ、痛みが前進を突き抜ける。 骨のきしむ鈍い音が身体の奥から聞こえ、それでも壁に押し付ける力は止まらないのだ。 その男の前に舞い降りた一つの影──表通りからのわずかな明かりを背後に受け、その貌は見えない。だが、薄明かりに映し出される輪郭は奇妙なほど白い──。 白い影は狂喜の笑みを浮かべて自分を見つめていた。 |
2009年末、ドイツ東部・ザクセン州。 それは、壁にめり込んだ死体というセンセーショナルな状況で話題を呼んだものだった。 |
最初の事件から詳しい話を署で聞くことにして、案内役の警官を伴って路地から出たミューラーの目が、ふと野次馬の中の一人に留まった。 帽子を目深に被りサングラスを掛け、そしてロングコートの襟を立てたその姿は、怪しい人物の見本のようなものだ。そんな格好で殺人現場に現れるというのが出来過ぎているような。しかし単に通りすがりだったのか、すぐに人目を避けるようにその場を離れた。 「あれは…? あからさまに怪しい男だな」 「え?」 ミューラーの視線の先を追って、警官は頷いた。 「ああ、彼ですか。彼なら──体質のせいですよ。気にすることはありません。それより、あんまり見ているとなんですよ」 訝しむように振り返ったミューラーに、警官は声をひそめて続けた。 「白ウサギとかネズミなんかと同じような──生まれつき髪や肌が真っ白な人間だそうで」 そこまで言われてミューラーはようやく得心した。 「ああ、そうか。……いや、失礼な見方をしてしまった」 白子(アルビノ)と呼ばれる障害。ミューラーも漠然とした知識はあった。先天的にメラニン色素を持たないため、紫外線に耐性がないのだとか…。一見した限りでは気が付かなかったがそれも道理だ。帽子やコートの襟で顔の半分は隠れ、手袋もはめており素肌が露出している部分はほとんどない。血液の色がそのまま表れる特徴的な赤い目もサングラスで隠れていた。日差しを避けてのことだろう。──それと人々の好奇の視線を避けてのことかもしれない、と、小さく悔悟の念を感じるミューラーは思った。 しかしながら、ミューラーは同時に、先ほど目にした新聞記事の一節を連想せずにいられなかった。 (犠牲者は残したという。『白い悪魔』という不吉な言葉を…) ──それこそ失礼なこじつけだ。考え過ぎか…。 ミューラーは即座にその考えを振り払った。 |
既に同人誌の方をご覧になっている方に云っておきますと、
構成が同じなので気が付きにくいと思いますが、
冒頭の「事件」描写は同人誌版の冒頭と同じ事件ではありません。
ここでは、先にミューラーが見てきた事件の方。
しかし…1章でブラドの名前が出てきやしない(汗)。