砂田 明                                 
 1928年京都に生まれる。1947年神戸高等商船学校卒業後上京、新劇俳優としての
活動を始める。1970年石牟礼道子「苦海浄土」に触発されて水俣巡礼行脚。1972年
水俣に移住。1975年「祖さまの郷土水俣より」を上梓。1979年袋神川に生類合祀廟
「乙女塚」を建立。一人芝居「天の魚」の全国勧進行脚を始める。1981年紀伊国屋
演劇賞特別賞を受賞。1982年金城実作「海の母子像」を水俣、沖縄、長崎等に建立
する運動を始める。詩劇「鎮魂歌」を上演。1992年「天の魚」上演実に556回に
及んだところで病を得、1993年享年65才で没す。              

《京都・嵯峨野の常寂光寺・志縁廟に納骨、同寺には金城実作の記念レリーフがあります。

またチッソ水俣病関西訴訟を支える会では、ビデオ・砂田明一人芝居「天の魚」等の貸し
出しを行っています。FAX:06-6328-0937 E-mail:aah07310@pop02.odn.ne.jp》    




「ひとり芝居」について                

◎東京浅草勧進(1980年2月)           

▼水俣は ゆっくりゆっくりやってくる原爆なのです 
何人もの人から聞きました             
 ゆっくりゆっくり 東京に水俣が起こっているので 
はないでしょうか                 
 どうか 砂田さんのお芝居をごらんください    
 もの言えぬ水俣病の子どもの心が 伝わってきます 
 水俣病の子や孫をかかえ             
 自分も水俣病かも知れない年寄りの思いが 伝わっ 
てきます                     
 どうぞどうぞあなたも 一度は水俣に行ってみてく 
ださい                      
 そうして わたしの住んでいるここは       
 水俣ではないのかどうか 考えてください     
              (丸木 俊・画家)  


◎京都大阪勧進(1980年3月・京都、4月・大阪)  

▼暗やみにろうそくが一本。その前に、黒衣で身を包み、奇怪な面をつけた老人が一人うずくまる。
灯のまたたきが、ぽっかりと大きく開いた口を照らし出す。その口が、やがて水俣を語り始める。憤
りを、嘆きを、また救いを――。                              
 砂田明の一人芝居《海よ母よ子どもらよ》を京都・深草のスタジオで見た。水俣乙女塚勧進興行と
うたい、招魂の儀とも説く通り、まさしくこれはまつりであった。話は、石牟礼道子の『苦海浄土』
の一節から堀り起こした老漁夫の一人語りだが、そこには病で自由を失った人間だけでなく、ネコも
犬も魚も貝までも、水俣病のためいのちを絶たれたものすべての鎮魂のいのりがあった。呪術的な秘
儀とでも呼べる演劇始源の姿を見たものだった。ろうそくのほの明かりが死者を呼び戻す灯明であり
、白塗りの、ハニワにも似た面の趣が鬼道の随伴老と映ったのもそのためだ。          
 このところ一人芝居が多い。それも坂本長利の「土佐源氏」、江守徹の「審判」など、芸を極めた
舞台が目立つ。が、砂田のこの作品は明らかに次元を異にする。演技の行き着くところというより、
魂の帰り着いた場とみるべきか。技術面では、むしろ稚拙さを残している。その稚拙さが力となって
、観客を素朴で広びろとした自然信仰の世界へ引き込んでいくのはおどろきというほかない。彼は現
代の巫女でもあるのか。水俣にひかれ、水俣に住んで八年、この語りを一編の告発劇、怨念のドラマ
に終らせず、生類一切の営みの原理へ、その高みへ上らせた点に、確かな歳月を見届ける。    
                          (1980年3月26日 朝日新聞夕刊)  


◎熊本大学勧進(1980年4月)          

▼水俣病は数十年にわたってじわじわと毒(水銀)によって蝕ばまれた肉体、神経そして心とムラ(
地域共同体)の破壊である。                                
 二十年水俣病と係わり合いをもってきて、病気を治すことはおろか、心の傷すら癒すことのできな
い哀しさ……せめて、水俣で何がおこり、どうなっていくかを忠実に伝える媒介老でありたい。しか
し、所詮、水俣病はありきたりの医学用語、ハンター・ラッセル症状群(有機水銀中毒の代表的・典
型症状)などでは決して、決して語りつくせない奥深さをもつ存在である。現代科学の一つの結果と
しての水俣病が、その現代科学の信仰の一つである客観化・データー化をもってしても(そのこと自
体不可能だが)、その実体が鮮明にできないという皮肉がわれわれに多くの示唆を与えてくれる。 
(中略)                                         
 私は長いこと、演劇というジャンルの中で水俣病がとりあげられる可能性を考えてきた。しかし、
正直いって、どのジャンルより難しく、いくつかの試みは失敗が多かった。水俣弁を使い、たとえそ
れらしく病気を演じてみせても、事実経過を忠実になぞらえてみても、そのしらじらしさは否定でき
ない。その理由の分析は専門家にまかせるとしても、水俣病の世界は現実に存在しており、その深さ
の前に挫折したといわざるを得ない。                            
 砂田明の創造した世界には、すべてではないにしても確かな水俣病の世界がある。手を差しのべる
と、すぶすぶと奥の知れない世界がそこにあり、淡々と語る語韻の中に激しさがあって、泥くさくて
スマートではないにもかかわらず、美事である。                       
 ――舞台は、黒幕と一本の灯明だけ。                           
 縁先から家中まる見えのこの小さな爺さまの家に、ある日、あねさんが訪れる。あねさんは爺さま
の心を温かく溶かし、重い口を少しずつ開かせる。水を吸いとる綿みたいに爺さまの話をすーっと吸
いとってしまう。このあねさんこそ『苦海浄土』の作者、石牟礼道子さんである。        
 しかし、あねさんは目に見えない。あねさんに語りかける爺さま(砂田明)の独り芝居である。独
り芝居であるけれど、舞台にはばあさまや息子、胎児性患者で孫の杢太郎、それにネコや魚、不知火
海の生き物、死者まで……にぎやかに登場してくる。                     
 幻想的な独特の砂田の世界であるが、極めてリアルであり、その背景になるリアリティは砂田の十
年にわたる水俣土着生活にあるといえよう。この狭い簡素な舞台――日ごろわれわれは豪華な舞台に
慣れ過ぎているが――その空間がかくも広く、水俣病の世界を閉じ込め、そして心的世界に開放して
くれることに驚く。同様に、あの無表情な一見奇妙な仮面があのような深い悲しみ、怒り、喜び、愛
情を表現できるとは。現代の能と評されたことが理解できる。 この舞台はもちろん、水俣病告発の
芝居である。しかし、そこには声高な″水俣病告発″や″公害反対″の声はない。親子三代にわたっ
て水銀に侵されながら、死んでいった人々やすべての生き物への限りない愛情が、悲しみが、たんた
んと語られる語り口から、人々の心の中に大潮のようにひたひたと満ちてくる。「魚(いお)は、天
のくれらすもんでござす。天のくれらすもんをタダで、わがいるとおもうしことってその日を暮らす
――これより以上の栄華の、どけぇ行けばあろかい……」 と語る爺さまの言葉は、われわれを支え
ている文明とその価値観を、鋭く問い直していることに気づく。                

 水俣病は多くのすぐれた人々と作品を育ててきたが、また一つすばらしい作品を創ってくれた。 
 砂田さんにはこの一人芝居をいつまでも演じつづけて欲しい。     (原田正純・医師)  

     《「海よ母よ子どもらよ ―砂田 明・夢勧進の世界― 」(樹心社・1983)より》