一九五九(昭和三四)年の夏、水俣病の原因として有機水銀説が発表され、続いて十
一月初めに全国紙の社会面にかなり大きな見出しで水俣病と不知火海の漁民乱入事件の
記事がのるまでは、私はこの病気の存在を知らず、その重大さにも気づかなかったこと
を告白しなければならない。
一九五六(昭和三一)年に大学の応用化学科を卒業して日本ゼオンKKに入社した私
は、かけ出しの現場技術者の一人として、高岡工場の建設と試運転に参加し、塩化ビニ
ル樹脂の製造工程で扱う水銀塩を、作業が終わった後では当然のように水で洗い流した
経験があった。工場の試運転や停止のときには殊にそうした「水に流す」機会が多かっ
たのはそれまでの私の経験からも言える。
その後、思うところがあって会社をやめ、大学院の受験準備をしていた私に衝撃を与
えたのが有機水銀説だった。かつて私自身が水に流したことのある水銀から、こんな恐
ろしい病気が起こる可能性があるのだろうか。私はこの疑問を抱いて、加害者としての
立場から調べ始めた。
(中略)
それにしても、一人で調査を進めるのは実に陰気な仕事である。医師でさえ直せない
病気のことを、一つ一つ事実を尋ねてまわったところで、患者の苦しみをやわらげる何
ほどの足しにもならない。患者の悲惨さを直視すること自体が、大学院学生である私の
めぐまれた環境を思う時に苦痛となる。いったい何のためにこんな調査を続けるのだと
いう疑いは、数年間私についてまわった。もし私が水俣市の作家、石牟礼氏たちのグル
ープや、細川博士、伊藤保健所長など、全身をあげてこの病気とそれぞれにたたかった
誠実な勇気ある人々にめぐり会わなかったら、とうにこの仕事を投げ出していたかもし
れない。
調査の進むにつれて工場排水問題の重要性に眼を開かれた私は、一九六三(昭和三八
)年にそれまでのプラスチックスの加工研究を切り上げて衛生工学の研究室に移り、一
生をかけてこの仕事に取り組むことに決めた。問題の広がりの大きさに、それまで全く
自分の専門とは無関係と思い込んでいた社会科学の勉強もしなければならなくなった。
現在までの数年はあらゆる知識を吸収し、それを実際に試してみることから、科学や技
術を評価する試みの繰り返しであった。
しかし私たちの努力は、この病気の新潟での再発をくいとめることができなかった。
恐ろしい水俣病が、まさか再発することはないとたかをくくっていた見通しの甘さを、
自分に責めるほかはない。北陸地方にも水銀の多い魚がいるという水俣工場側の反論を
もっと早く気がついて掘り下げていたら、あるいは再発は防止できたのではないかとの
悔恨は今も心から離れない。 (後略)
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