不思議とウチのネコたちは皆皮毛が柔らかい。短毛のハナミズでさえ、背中の一部を除いては、柔らかく暖かい。フクちゃんやジムシーと比べると明らかに違う。毛皮として売れば、ハナミズの方がいい値がつくだろう。ただ、背中のまん中にどういう訳か堅い毛の部分があって、それで評価を下げるだろう。敷物にすれば、ちょうどまん中の部分になる場所だ。ミミゾウもポンちゃんも、シルクの手触りといっても過ぎた表現じゃない。触っているだけで気持ちがいいのだ。
ポンちゃんとの激しいスキンシップの途中、不意に脇腹に毛の塊を感じた。本当はマメにブラシをかけて手入れしてやらなければならないのだが、どうもこいつは不精者でブラシやクシが嫌いだ。押さえ付けてでもやりたいのだが、徹底的に抵抗して、そのうちハナミズが間に入ってブラッシングをねだる。あまり必要のないハナミズに限ってブラシが好きなので、困りものだ。その毛玉もあれよあれよという間に大きくなって、いつの間にかお腹全体が大きな塊となった。こうなってくると、もうハサミで切ってなどと言ってる場合でなくなった。とにかく病院へ相談にいったが、やはり毛刈りする事をすすめられた。放っておけば皮膚病など起す事もある。だが、病院で刈ってもらうと1万円ほどするらしい。えっと驚いた。同じ金額で僕は美容院に5回行けるのだ。獣医さんの話では、暴れないように全身痲酔で眠らせるらしい。当然値も張れば痲酔のリスクもある。となれば、自分で少しづつでも刈ってやる方が安全だし経済的だ。腕を磨けばバリカンの費用だけで、今後ただで毛刈りできる。病院の帰り、早速ホームセンターで安いバリカンを買った。
家にかえると、刃にオリーブオイルを塗った。バリカンに付いている機械油を注油するように書いてあったのだが、なめて害のあるものだとまずいだろう。そしてキョトンとしているポンちゃんを押さえ付けて、音を立てて激しく振動する刃をあてた。思ったより簡単に塊が離れていく。これなら楽勝だ。幸いポンちゃんも大人しくしている。が、すぐに突き当たった。ポンちゃんの皮膚は意外に凸凹があり、刃がうまく入らない。その内ポンちゃんも飽きてきたのか体を捩って抵抗した。それでも押さえ付けてバリカンを立てたら、少し皮膚を切ったらしく血が滲んだ。作業は中断である。
そんな事をくり返し、大方の毛玉を刈るのに都合4、5日かかった。作業を終えた後は、僕もポンちゃんもかなり消耗していた。だが、ちょうど家に来た頃の姿に戻ったろうか。これから暖かくなる季節に、ひと回り小さくなり、軽くなった姿にえも言えぬ達成感があった。
ミミゾウと遊んでいたら首に小さな毛玉を見つけた。ニヤリとしたらワイフに睨まれた。
爪切りはワイフの仕事になっている。と、いうより僕が苦手としている作業なので、なし崩しに彼女がやっているのだ。僕は無精者で、自分の爪さえ切るのが億劫な事がある。たまに切っては深爪する事もあるのに、ネコの小さな爪をとても切る事はできない。正直なところ、どこまで切っていいのか分からない。うっすら透き通った中に白い芯の部分に触れるか触れないか、その見極めが難しく、おっかなびっくりで先だけチョンと切ってるものだから、ワイフも諦め顔なのだ。その点ワイフは手際がいい。ハナミズでもミミゾウでも膝の上に抱えて、あっという間に両手両足の肉球をつまんで押し出した爪を躊躇いなく切っていく。また、ネコたちも安心しきったように大人しいのだ。才能である。だが、ポンちゃんだけは容易にはいかないようだ。そもそもポウまで長い毛に覆われ、黒い肉球を押しても爪がよく見えない。さらにポンちゃんは抱かれるのが嫌いときている。1人では押さえられず、僕も手を貸すはめになるなるのだ。そんな状態だから、切り残しも少なくない。
どうと言う事もない普通の朝だった。仕事に向かうために仕度していた僕に、ハナミズは朝食をねだり、ポンちゃんもその後ろをついてきた。ポンちゃんはよく殴られながらも、ハナミズにいつもべったりくっついている。相変わらず何を考えているかよく分からない。その時、異常に気付いたのは僕が先だった。ポンちゃんの左前足、親指の爪が飛び出したまま大きく彎曲し、黒い肉球に食い込んでいる。冷静に見ればそうなのだが、その時はどういう状態なのか理解できなかった。何しろ尖っている筈の爪が丸まっていて、それがそうだと判断ができなかったのだ。まるで小さなカタツムリの殻が張り付いているような、そんな感じだった。慌ててワイフをたたき起こし、職場に事情を伝えて病院に運ぶ事にした。ワイフは冷静に、爪が伸びてるだけだとすぐに理解したが、家の爪切りは刃先がカギ状のハサミ型なので、無理をすれば確実に肉球を傷つけてしまう。とにかく嫌がるポンちゃんをケージに押し込んで、動物病院に飛び込んだ。若い獣医さんも冷静に対応してくれた。「親指はやりにくいんですよね」と喋りながら、丸いガードのついた爪切り鋏でいとも簡単に丸まった爪を切り終えた。実にあっけなく、1人で騒いで仕事まで休んだ自分が恥ずかしかった。
多くの人たちはたかが爪一つで仕事を休むなんてと思うかも知れないだろう。まったくその通りだ。だが、一つ大きな事を学んだ。普段からネコたちの健康チェックがどれだけ大事かという事を。簡単な事だ、遊びながら観察すればいいだけだ。
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僕ら夫婦が籍を入れたのは、つい最近の事で、それまでは内縁というか、まぁ同棲に近い間柄だったろう。別姓にこだわっているとか、ポリシーがあるとか、特別理由などなかった。何となく面倒くさくてほったらかしにしておいただけだ。それでも実家の両親には後ろめたい思いもあり、ようやく籍を入れた訳だ。たかがワイフの姓が変わっただけなのにどういう訳だか実家が祝ってくれるらしく、九州までお喚ばれしてしまった。まぁ、式や披露宴を挙げない2人に痺れをきらしての事だろう。晴れがましい儀式は本意じゃないが、ちょっと美味しい食事と酒で楽しむだけなら悪い話じゃない。ついでに実家を根城に九州を観光して回るのもいいだろう。
一つ大変な問題が持ち上がった。いつもペットホテル代わりに利用させてもらっていたY岡夫妻(逆に利用された事もあるが)が今ネコを預かれる状況にないのだ。海外に赴任中で、フクちゃんやジムシーは実家で面倒をみてもらっているそうだ。他に安心してネコを預けられる所もないし、本当のペットホテルというのも何となく不経済な気がする。2、3回ペットシッターに来てもらう事も考えたが、今回は思い切って一緒に連れて行こうかとも考え始めた。実家でも外に出さないよう気をつけて、トイレは不要な段ボールをリサイクルすればいい。
だが、当日になってそれが恐ろしく手間のかかる事であったと気付いた。何しろ1週間分の荷物に、4キロ、4キロ、2.5キロのネコの手荷物が加わるのだ。込み合うモノレールでも肩身の狭い思いをして、巨大な羽田空港の中を駆けずり回る足取りも重い。そして、チェックインカウンターで一枚の書類を渡された。それは、動物を持ち込む乗客に、あんたの連れてきた生き物は荷物である、という事と、荷物だから死んでも責任持たないぞ、という内容のもので、それでもいいんならサインしろと書いてあった。もちろんここまで来て連れて帰る訳にはいかない。サインをしてここでネコたちと別れた。ミミゾウが不安そうにケージの中から僕とワイフを見つめていた。この手続きに手間取り、出発時間がギリギリになった。係員に連れられて出発ロビーを走って、何とか飛行機に乗り込んだ時は、2人して息を切らしていた。
飛行機は高く舞い上がり、疲れもあってついウトウトとしたが、目が覚める度に貨物室のネコたちが気にかかった。寒くはないのだろうか。気圧の変化は平気なのか。色々な不安ばかりが脳裏をよぎる。つい最近、着陸時の火災事故を撮影したビデオをテレビで見た。けが人はなかったが、乗客の荷物はどうなったのだろう。こんなにも不安な気持ちで飛行機に乗っているのは初めてだ。
ネコたちの疲れ切った顔を見た時にはホッとした。もうコリゴリである。あっ、帰り…。
ネコたちは予想外に実家でも歓迎されたように思う。トイレの世話など嫌な仕事を押し付けておいて、僕らは遊び回っている訳だが、両親にしてみると久しぶりに帰ってきた息子夫婦に気分よく滞在してもらおうという配慮からの微笑みだったのかな。そんな親心を労りもせず、僕とワイフのバカンスは遠く宮崎まで足を延ばしていた。まったく酷い息子だ。
さて、僕の留守中実家では大変な事態が起きていた。ネコたちは2階の2部屋を開放して、好き勝手に遊ばせておいた。ハナミズとポンちゃんは人見知りする事なく両親にも簡単に懐いたのだ。と、いうよりメシをくれる人間と認識しているだけなのかも知れない。簡単にお腹を見せてゴロゴロしていたのだが、ミミゾウだけはどうしても怯えて人前に出ようとはしなかったのだ。ナイーブで感受性が高いとはあまりに誉め過ぎだろうが、文字どおり連れてきたネコのようにおとなしくしていたのだ。推測だが、他の2人はノラ生活も経験し、おべっかを使う事で生き延びる能力を経験的に身につけてるのだ。その点、子ネコの時分からマンションの一室で育ってきたミミゾウには、僕とワイフだけが信頼できる人間なのだろう。Y岡家に泊まった時は、まだフクちゃんやジムシーのような自分に近い生き物もいた訳だし、唯一の例外だ。そんな中で、実家の母を青ざめさせるような事件をミミゾウは起してしまったのだ。
2階に様子を見に来た母は、ミミゾウの姿が見当たらない事に気付いた。ハナミズとポンちゃんは何ごともなく寝ていたり遊んでいたりしていたのだが、どうしてもミミゾウだけがいないのだ。息子から預かった大事なネコだ。いなくなったといって済む問題じゃない。買って返せるものじゃないのだ。焦って色々と探したに違いない。ネコのいた部屋は、僕のかつての勉強部屋で、捨てきれないでいるガラクタが整頓されずに散乱している始末。それを引っ掻き回してみたが、どこにもいないのである。窓はきちんと閉まっている。うっかり開けていて、逃げ出した後でハナミズがちゃんと戸締まりしたのだろうか。そうとしか思えないのだ。密室からネコが消えてしまったのだから。息子にどう償おう、母はついにそう考え始めたろう。その矢先、恐る恐るミミゾウが勉強机の下から出てきたのだ。もちろん母は、閉じてある引き出しの中まで開けて見ていた。だが、ミミゾウのヤツ引き出しの奥、机の背板とのわずかな隙間に収まっていたのだ。ホッと安心した母の顔が目に浮かぶ。笑うに笑えない。そんなネコに育てた僕の責任だろうか。
ミミゾウにしても無理矢理連れてこられて居場所がなかったからに違いない。今後はミミゾウを連れて旅行しようなどと思わないだろう。とにかく大変な旅行となってしまった。
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マンション中に警報が鳴り響く。明るく晴れた窓の外に煙が上がってる様子もない。念のためベランダに出た。人の気配を感じない。手すりから階下を見下ろしたその瞬間、一階から上がった炎が三階の僕の目の前まで立ち上った。そこで目が覚めた。全身が酷く汗ばんでいた。
知り合いの占師に聞くと、火事の夢は吉兆らしいのだが、その後の僕の運命を思うと気休めを言ってくれただけのような気がする。それに夢占いなんて専門外だったのだ。それはそれとして、火の始末について僕はいささか神経質になった。とはいえ、タバコをやめた今となっては、気になるのはガス栓ぐらい。外出の際チェックする習慣ができた事は、唯一ポジティブな一面だろう。だが、僕がどれだけ火の始末に奔走しても、どうにもならない事だってある。あの夢に見た出来事、集合住宅の宿命でもある隣室からの出火だ。もちろん僕やワイフがいる時間ならまだ何とかなるかもしれない。ハナミズならば窓さえ開いていれば自力で生き延びるような気がする。火の手が回る前ならば、ミミゾウとポンちゃんを安全な場所へ放り出す事もできる。問題は、僕もワイフもいない日中だ。下手すると、ネコの蒸し焼きを3つ作ってしまう。遠い都心にいる僕らはどうする事もできず、帰宅して呆然とするだけだろう。仕事中に火事のニュースなど耳にする度不安になる。だから、火事が起きるなら夜間にと願い、それが本当になってしまった。
それは寝がけの事、翌朝も早起きなので、すでに床についていた。不意になり出した警報に飛び起きた。慌てて外に出たが、どの部屋からも火の手が上がっている様子はない。住人達は不安そうに集まってきたが、誤報ではないかと口々に言い始めたが、ただかすかに焦げ臭いにおいが広がっている。多少の不安はあったが、燃え上がる事はないと言う意見が一致した。とにかく耳障りな警報を消そうと、皆でスイッチを探し、管理会社に連絡を取った1人がボタンを押すまで数十分鳴り響いた。これでゆっくり眠れる、そう思った矢先、派手な赤いライトを回し、サイレンを上げて消防車がやってきた。それもポンプ車、はしご車までも。もういい加減に寝たかったのだが、消防車のライトと消防士の足音と話声で眠れる状況ではなかった。だが、正確な情報を知りいくらか安心した。2件隣の部屋で天ぷら油に火が着き、煙に報知器が反応したそうだ。まぁ、大事にいたらなくて何よりだが、こんな夜中に天ぷら食べるなよ!。
後日、天ぷらさん宅(勝手に名付けた)から菓子折りが届けられた。僕はこうやってネタを提供してもらっているので多少恐縮している。なかなか体験できることじゃないのだから。
忘れたくても忘れられない出来事だ。悔やんでも悔やみきれない。今なお、ああ、あの時ああしていれば、こうしていたならば、そんな後悔に苛まれている。蛇崩の交差点、日曜の昼下がり。平和な午後だった。左折するとすぐに登り坂になるから、多少アクセルを踏み込まなければならない。だが、その時、僕の視角の端に黒っぽい影が目に入った。何ら手をくだす間もなく、後輪の車軸に何かがぶつかる音が聞こえた。何が起きたのか理解できなかったが、慌てて車を路肩へ寄せて振り向くと、黒っぽい生き物が路上に横たわっているのが窓越しに見えた。それでも何があったのか分からなかった。だが、その生き物の尻尾が微かに動くのが見えた。その瞬間に全身の血液が逆流し、顔面は蒼白になっていたろう。急いで車を降りたが、膝が震えて足がうまく運べない。そして、黒いネコの前に立ち尽くした。言葉が出ない。それからどうなったのか、自分でもよく分からなかった。
狭い道だが多少の交通量はある。日曜であったのは幸いだったが、それでもかなりの車が通ったはずだ。それでも路上に立ち尽くした僕とネコを避けてくれたのは、状況に気付いて止まってくれた車が1台あったからだ。その、品のある御婦人に声を掛けられて、やっと我にかえった気がした。ネコは見たところ大きな傷を負っているようには見えなかった。婦人が病院に連れていってはと助言してくれて、恐る恐る顔を覗き込んだ。ハッと言葉を失った。瞳孔が開くとはこういうことなのか。見開いた目は深遠な、恐ろしく透明な暗い闇で、その奥には底がないかのように、それはあの世に繋がるトンネルを感じさせた。それでも微かに息があったようだが、それもまもなく途絶えた。何も言えなかった。僕を正気に戻してくれた優しい御婦人にお礼の一言もいえなかった。すでに遺体となったネコを抱き上げて、路肩へと運んだ。重さをまるで感じなかった。もうそれは、生き物ではなかったのだ。
近くの交番に事情を届け出たが、人間でなくてよかったと気休めを言ってくれた。違うだろう、人間ならお金で解決するだろう、そんな人の道に外れた気持ちが膨らむ程、激しく動揺していた。ネコだろうが人だろうが、僕が一つの命を奪った事に何ら変わりはないのだ。そして、その瞼に焼き付いた、あのネコの瞳の、深遠な、透明な闇を思い起こす度に、僕は自分を責め続けるだろう。「私はこの手でネコを殺した者です。血に汚れた不潔な人間です」と。
その日の仕事を終えて、現場へと戻ってきた。警察からの連絡を受けた区の職員が、亡骸を片付けた後だった。慌てて買った白い花束を路肩に置いた。何の償いもできない僕を許してください…。
体調が悪い。慢性的な睡眠不足は致し方ないのだが、そこへきて夜寝つけないのだ。無理に寝ようとして灯を消すと、壁や天井の薄暗がりの中に浮かび上がってくる。あのネコの、深い澄んだ瞳の闇が…。目を閉じると瞼の裏にまでも現れる。もはや目に焼き付いているに違いない。考えまいとすればする程意識してしまうのだ。床にいながら休まらず、持て余した手足を毛布に絡めて、体を縛り付けるように寝返りをうつと、隣のまくらを使っていたハナミズと目があった。太々しい丸い顔の中心から10時10分の角度でつり上がった目は、眠いのだろう少し瞬膜が出ていて、端を瞼に隠した黒目がこちらを見つめた。覇気のない眼だ。だが緑色に、生きている輝きがある。あの目とは明らかに違う。あれは、恐ろしく透明で、そして深い、暗闇だった。光はすべて通り抜けて、反射する事のない世界が垣間見えた。そう、世界が違って見えた。俗っぽく言えば黄泉の世界とでも言うのだろうか、医学の知識でもあれば物理的にそれを説明できるのだろうが、それをもってしても目の当たりにしたあの闇は、この世の物でない静けさと、そして美しさがあった。
不意に悲しい考えがよぎった。この生命力の塊のようなハナミズにも、いつか最後の日が来る。その時には同じ目をして死んでいくのだろうか。そして僕が死ぬ時は…。ワイフが、ミミゾウが、ポンちゃんが…。深く布団に潜り込んで、泣き出しそうになるのを押さえ付けた。涙が溢れるのを押さえようと目を閉じると、またしてもあの目の闇が浮かんだ。僕の頭の中に黒い雨雲が広がるかのように、恐ろしい死への不安に襲われたのだ。誰も逃れようのない最後の日だ。それを僕はこの手で、あの蛇崩のネコに与えてしまったのだ。償う事のできない罪への報いだろうか。僕は恐ろしい恐怖に見舞われたまま、いつの間にか寝てしまった。これが夢ならばいい…。
その望みも叶わず、僕は罪人のままで、その罪の報いとして愛する者たちと僕自身の氏の恐怖に躍らされている。胃が痛い、吐き気がしてこめかみに鈍い痛みがあった。だが、いつも通り、何事もなく振る舞って、普段と同じように仕事に出る。見栄っ張りな性分はまったく損だ。精一杯プライドを保もとうとすればする程、恐怖が膨らんでいくような気がした。そして、わずかな闇の中に、あの瞳がいつもあった。
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唖然として立ち尽くした。そろそろ寒さが身にしみる季節の、吹きっさらしの河川敷に傍らに立っていた。何が起こっているのか分からないが、こみ上げてくる怒りだの、悲しみなどで不思議に寒さを感じなかった。単純に自転車をこいで来て体が暖まっていただけかも知れない。ただ目の前には、張巡らされたフェンスの奥に2台の重機がだらだらと稼動し、夏に子供たちが遊んだ川を浚い、また砂利を敷き詰めている現実だけがあった。
家に帰って、どういう内容の工事なのか調べようと、インターネットで検索したが、市役所にも、建設省(当時)にも詳しい情報は見つからなかった。ただ、この牛の背という奇景が多摩川百景という名所として登録されていたのだ。選んだのは建設省だ。そして、河川管理は建設省の管轄で、河川敷に広がり市が管轄する公園部分とはちゃんと隔てられているから、この工事は建設省によるものだと理解した。不思議な話だ。自らここは名所であると選出した景観を、自ら破壊しているのだ。無愛想なブロックを並べ、中州に設けた放水路にはパワーショベルの爪痕がむき出しのまま残っている。敷き詰めた砂利は、川の中に突き出した「牛の背」のような粘土質の侵食痕を埋めている。
建設省側の言い分はこういう事だろうか。老朽化する八高線の鉄橋の基部の補強を目的として云々…。そんなに老朽化しているのなら、バス路線を充実させて廃止すればいいと考えるのは極論だろうか。あの路線は、電化された時点で魅力を失っていた。僕には何の未練もないのだ。工事の理由が他にあるのなら聞きたいものだ。水害対策だろうか。大きめの石を針金のネットでまとめただけのブロックなら、堤防を欠壊する程の水圧に耐えられる訳がない。(現に、翌年の豪雨の後、ネットは無惨に引き裂け、流木などが絡み付き、敷き詰めてあった砂利なども流失していたようだ)それとも、わざと壊れ易いように工事を行い、翌年の仕事を確保しようという考えなのか。これはそう思われても仕方のない内容の工事だと素人目に見ても思えてしまうずさんなものだ。
やめておこう、河川の改修工事なんて素人には分からない。ただしこれだけは言える。この工事で僕は多摩川への魅力を失い、この町に留まらなければならない理由がなくなった。ネコと暮らすために移り住んで、多摩川に親しむ事の楽しさに、高い家賃を払い続けていたのだ。そんな事はもうどうでもいい。ネコと暮らせる場所があればどこでもよくなったのだ。それは東京に限る必要もなかった。僕は、遠くの、周りに知る人のいない世界へ行ってしまいたい気分だった。
事故以来どうにも無気力だ。何をやっても身に入らない。仕事もいい加減になっているのが伝わっているのか、気づかってもらっているのか職場を移動する事になった。これで少しは気が晴れるかというと、相変わらずの暗鬱とした毎日をだらだらと過ごしている。とはいっても仕事は仕事。明るく、笑顔を絶やさず、いい人を演じ続けている。だから直接顔をあわす事のない電話では結構印象がいいらしいのだ。そうやって取り繕えば取り繕う程、気持ちが荒んでいくのが分かる。
相変わらずネコの亡霊につきまとわれていた。闇が恐くよく眠れない。このところ慢性的に腹が痛み、こめかみに鈍痛を抱えていた。不意に吐き気に襲われたり、下痢になる事も多い。ハッキリ言って体調は最悪だ。
家に帰っても、特別状態がよくなる事はなかった。むしろ、分不相応な部屋を見回して、こんな部屋に月々何万もの金を払っているかと思うと、働いているのがバカバカしく思えてきた。僕はいったい何をやっているのだ。職場から遠く、住み続けるための魅力さえ失ったこんな場所にしがみついているなんて、ナンセンスの極みだ。ネコたちもまったくの役立たずだ。イヌならば多少の手伝いはできるのだろうか。そしてワイフの愚痴ばかりが耳に触った。物欲、貯金、将来、子供、正直に言えばいいのだ。もっと楽がしたいと、遊んで暮らしたいと。そして、認識すべきだ。子供を作れる程の余裕があるのかと。そのくせに、足手まといなネコを拾ってばかりだ。こいつらに振り回されて、人並みな生活から遠のいてしまったのは事実だと認識すべきだ。
それなのに、ハナミズもミミゾウもポンちゃんも、罪のない顔で、何くわぬ顔で寝て起きて食べて排泄する。僕が働き餌をやりトイレ掃除するのを当然と思っている。それが無性にしゃくに触るのだ。相手がネコだからとかそんな事はどうでもいい。感謝するなり尊敬するなりあって欲しいものだ。無茶な話だ。ネコたちは僕が自己満足のために保護した事を知っているのだ。偽善に満ちた行為だととっくに気付いているのだ。僕はもはやそれを演じれる人間ではない。それどころかネコたちを虐待するか、首を絞め殺してしまいかねない。今、それが出来ないのは、実行して、取り返しのつかない過ちに激しく後悔すると分かるだけの理性が残っているからだ。これを失った時の妄想を妄想と理解できるだけの理性が、かろうじてネコたちとの関係を繋ぎ止めているのだ。だが、それも危うい状態なのが自分で分かっている。いら立ちがつのってついワイフに声を上げそうになる。
『オレ』ばかりが苦しめばいいのか!。
偽善者の皮が剥がれ出して、表面に血が滲んでいる。今はそんな状況でもがいているのだ。
つづく
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