とにかく郊外に住むようになって朝が早くなった。元々朝は苦手で、毎朝目を覚まして体を叩き起こすまで苦痛にも似た葛藤を繰り返している。まして、空模様が怪しい朝はそれだけで憂鬱になってくる。暖かくなってきたといえ、まだまだ外は吐く息が白い…。
いわゆる新興住宅地だ。まだ畑も多く、敷地の広い農家も多い。そういった屋敷にはクスノキなどの大木が多く、朝の早い時間には小鳥が涼しげに声を上げている。どうせスズメだ…。確かにスズメの声だ。見慣れた地味な色は春を迎えて冬よりもスマートになっている。それを寝ぼけ眼で見上げたその間近を飛び去った、青い鳥がいた。正しくは、青みがかったグレイの、長い尾をもった鳥だ。野鳥の知識はないが、特徴的な尾と色に、おそらく以前になにかで見たのだろう、咄嗟にオナガだと直感した。正直驚いた。田舎とはいえ、万単位の人間が住む住宅地であんなきれいな野鳥がいるなんて。それまでスズメとカラスぐらいしかいないと思っていたのに、早起きしたことで意外な発見をしてしまった。
それからというもの、普段から木立や電線を見上げて歩くようになった。こうして見上げてみると、空は実にバラエティに豊んでいることを知った。シジュウカラ、ムクドリ、ヒヨドリ、河川敷にいたのはシラサギでなくコサギだと知った。これはこの田舎町だけでない。大手町のお堀端の街路樹がオナガのコロニーだし、六本木のちょっとした木立のなかにヤマガラを見つけたこともある。つまり、僕らは身近にいた鳥たちに気付かないまま暮らしていたのだ。それに気付かないのは、一番身近な野生動物に関心を持ってないだけなのだ。だが、絶対に思い違いをしてならないのは、野鳥がいる事と自然が残されている事とは次元が違うという事。前述した大手町などは、昭和天皇の意向で皇居内の緑を自然に近い状態にしていることもあるだろうが、僕が上げた野鳥の名は比較的俗化した環境に強い鳥たちなのだ。あのきれいなオナガが、実はカラスの仲間と聞けば納得だろう。あの美しい容姿から発せられる声を聞いて、幻滅したのはワイフだけでないとは思うがどうだろう…。
ハナミズが朝日に輝く窓に駆けよった。屋根の下に住んでいても本能で分かるらしい。いや、よく聞いてみると、軍用機の爆音をかき消すアルミサッシ越しにスズメの声が聞こえる。関心を持つことで見えなかったものも見え、聞こえなかったものも聞こえてくるのだと知った。相変わらず朝は弱いが、白い息を吐きながら歩くのも悪くない。今度河川敷にまだ見ぬ小鳥たちを探しに行こう…。
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ネコは喋るという事を以前に書いたろうか。表情やしぐさ、目つきや瞳の開きかげんでネコの訴えたい事を多少理解できるし、ネコもまた人間の言葉を少々分かっているフシがある。だが、これはちょっと意味が違う。会話を試みるネコというのはあまり見たことがない。それは、僕が疲れて帰った夜のことだ。ミミゾウは玄関を上がる僕の足につかまり立ちして懸命になにか訴えてるのだ。もちろん、単語も文法もない、知る限りのボキャブラリーを懸命に吐き出しているようだ。小さな子供が今日初めて体験した出来事を興奮して親に伝えるあの光景にそっくりだ。特に空腹な訳でも、トイレが汚れてる訳でもないようだから、本当に自慢話を聞いて欲しいだけのようだ。文法はないといったが、なき声には日本語のような文節らしきものがある。おそらく、ミミゾウなりに解釈した日本語か、それをまねて喋っているに違いない。黒目がちの期待に満ちた眼は、自ら発する日本語が僕に伝わっている確信を感じる。むろん、デタラメだ。それが分かった時に、ミミゾウはネコの自覚が目覚めるに違いない…。今はまだ、4足の人間の子供でいるのだ。
それにしてもなんと不思議ないきものだろう。足音だけで僕ら夫婦と他人を見分けてしまう。だれが玄関の向こうに近付いてきても、ミミゾウはいったん駆けよるが、それが僕らでないと分かるとウゥーっと威嚇すような唸り声を上げる。本当にイヌではないのかと自信をなくす一瞬だ…。そして、僕やワイフだと気付くと、これまたイヌのようにお腹を向けて床に転がる。これはこれで、ネコだという僕らの認識を揺るがせてくれる。これでいて彼自身は人間と思っているに違いないからややこしいのだ。
ワイフが誕生日に、手塚治虫の『ジャングル大帝』のハードカバーを買ってくれた。マンガ史に残るこの名作、僕は『鉄腕アトム』よりも好きだ。あらためて読むと、実に深いテーマを持っている事に驚かされる。近年リメイクされたアニメでは削られてしまったが、オリジナル版ではレオは人語を喋り、人間とコミュニケーションしていた。まったく荒唐無稽な話だとも思ったが、ミミゾウの行動を見る限り、少なくとも言葉のコミュニケーションを動物たちもとりたがっているのだと考えてしまう。手塚治虫のマンガには、よく喋る動物が出てきたが、きっと先生の身の回りにもミミゾウのようないきものがいたのではないかと想像してしまう。それ程までに、手塚マンガの表現は実にリアルなのだ…。
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ハナミズとミミゾウの2枚の皿にドライフードを盛ながら、ワイフは大きくなれよーと声を上げた。小さいままいてくれればいつまでもかわいいままなのに…。いや、言葉とは裏腹に、ここに盛られているドライフードは低カロリータイプのダイエットフードなのだ。小さな子ネコにダイエットというのも気がひけるのだが、止むを得ない事情もあるのだ。なにせハナミズの豊満な肉体を、これ以上膨らませては健康に関わってくる。そうでなくても子ネコ用のネコミルクを何度もネコババしてるのだ。ミミゾウにはあとでこっそり僕等のおかずを分けてやろう。
それにしてもワイフの溺愛には困ったものだ。食卓にミミゾウを登らせ、小皿まで用意している。ダイエットフードを与えていても、将来腹の突き出したデブネコにしてしまうかもしれない。彼女はこの手で幾多の動物を手にかけてきたのだろう。彼女の実家にいた生き物はみなコロコロと丸い。昔育てていたウサギは二重アゴだったと自慢していたし、愛犬のジロは、見事なハム体型だ。このジロちゃんは短い四肢が幸いし、今話題の南台東島犬という事で通している。義理の弟も、実は幼い頃肥満児だった秘密を暴露した。今ではとても想像のつかない話だ。ところが、不思議なことに義理の父は実にスマートなのだ。日本画の先生である義父は、アーティストとしての繊細な印象がある。ちょっとヨイショしすぎか?。それはともかく、実家の生き物が太るというジンクスは両親には当てはまらない。それはワイフが面倒見ていなからに違いない。彼女の過剰な愛情のかけ方は、大量のコレステロールを備蓄させ、種族を超えて共通する体型を作り出す結果となっているのは明白だ。ハナミズはすでに取り返しのつかない事になっているが、せめてこの小さな生き物だけでも例外としたいものだ。幾分洋ネコの血を受け継ぎ、絹の手触りの被毛を持つネコが肥満では格好がつかない。
何の疑問も持たずにミミゾウはダイエットフードをカリカリと食べてくれる。よしよし、いい子だ…。ワイフには悪いがいつまでも小さな子ネコでいてくれ…。などと心の中で考えている僕自身はどうかというと、長年の不摂生がたたり、慢性的な運動不足も手伝ってワイフの企みにはまっているようだ。いや、それが彼女の趣味というわけではないのだろう…。その証拠に、僕のスネアタム程に成育させた太鼓腹を見る度に、なにかと愚痴をこぼされている始末だから…。
そのわが目を疑う光景を目にしたのは、引っ越してきて間もない暑い夏の午後だった。その光景に見覚えがあるのはブラウン管の中の事で、郡上八幡、四万十川といった清流と呼ばれる川での話だ。多摩川である。郊外といえ10万からの人間が生活し、更に上流にも同様の営みが連続している。そんな生活排水に汚れているであろう水面に、次々と小学生であろうか飛び込んでいるのだ。牛の背と呼ばれる奇景の、鉄橋の橋脚から落ち込んだ小さな滝壷に上がる水柱を、僕とワイフは暫しここが東京都であることを忘れて見ていた。
当時まだ電化されていなかった八高線の鉄橋から上流にさかのぼって、福生南公園へ続く土手沿いの道は、対岸の滝山城跡を覆う緑が迫り、河川敷もほとんど造成されてないために、人の手が入っていない原始の雰囲気が漂っている。もっとも知識に長けた人には、この緑が見せかけの自然だと一目で見破れるに違いない。それでも、真の自然に触れたことがない僕らや、冒険心に溢れた子供たちの好奇心を焚き付けるには不足はない。後は、管理するにつけ遊ぶにつけ、この川に関わる人たちが守っていくしかない。僕らにできる事はあるだろうか。
ワイフはアレルギー持ちで添加物などにはうるさい。僕のように皮膚の感覚に鈍い者には神経質に見えてしまうこともあるが、本人には切実な問題だ。手荒れも酷い。僕は平気で、素手で食器を洗える。が、排水口に呑み込まれる白い泡を見ながら妙に切なくなった。石鹸は泡に付着させる事で汚れを取っていく訳だが、油汚れのように粘着性の強い汚れは落ちにくい。そこで、界面活性剤という成分を汚れに浸透させて浮かび上がらせるらしい。これが合成洗剤の洗浄力のカラクリだ。この界面活性剤は分解されることなく川へ流れ込み、様々なものに浸透していく。水は表面張力を失い、水生昆虫は窒息し、それらを食べる魚が死に絶えて食物連鎖が崩れていくのを想像する。そこまで大げさでなくとも、わずか一滴で皿の油を全て弾き飛ばす洗剤を、子供たちが戯れる川に流してしまう事に抵抗は感じないだろうか。
わが家のキッチンにはフキンソープという台所石鹸が置かれた。グラスやステンレスは多少白濁するが、衛生的に問題はない。油の切れが悪いのも、事前に拭いたり、油を減らすことで何とかなる。なにより、一つ百円程度と安いのが魅力だ。僕らにできる事は微力だが、こんな容易いことに大勢の流域住民が気付いてくれれば、安心して子供たちを川で遊ばせられる。危険だの安全だのは経験的に覚えていくものだ。
ん?、ネコの話がないって?。川のたどり着く先はミミゾウ君の好きなサカナのいる海じゃないか。
僕よりも早くミミゾウが気付いた。と、言うよりも、ミミゾウが窓に駆けよってようやく警報に気付いたといった所だ。窓から見下ろす向かいの家々の合間をぬって、途切れ途切れに見えた灯りが小さな踏み切りで一つの光の列となった。ミミゾウは、窓から通りすぎる列車を見るのが大好きだ。男の子である。お気に入りは、二重に連結したディーゼル機関車で、終りがないように延々続く貨車の列をいつまでも眺めている。
この部屋にはいくつか自慢できるものがあるが、この窓の下の鉄道もそのひとつだ。なにしろここは、東京で唯一電化されてない路線である。つまり、この線路を通るのは電車ではない、『キシャ』なのだ。一見電車と見分けのつかない旅客車も、床下のディーゼルエンジンからもうもうと黒煙を吐き、セメントを満載した貨車を引っぱるのは武骨なディーゼル機関車なのだ。その重厚な音を、単線の、送電線のない広々とした河岸段丘に響かせる。ノスタルジーだ。それ以外の何ものでもない。まして、この路線の多摩川に架かる鉄橋には、昭和20年の衝突事故で多くの復員兵が濁流に呑み込まれた悲しい歴史がある。そのエピソードを知って以来、乗客の少ない夜間の列車にはかない寂しさを感じている。それは戦地から戻ることのなかった人たちの、望郷の想いだけを乗せているかのように…。
その当時はおそらく蒸気機関車だったのだろう。沿線に住宅が立ち並ぶ今となってはSLを走らせる事はできないだろう。環境の事も考えれば、早々に電化した方がいいに決まっている。そして、それは現実に、数年後に行われ、この踏み切りを都心と同じ電車が走り抜けるに違いない。線路に刻まれた悲劇は忘却の闇に葬られ、華やかな都会化の波がこの田舎町に訪れるだろう。その時は、僕らは町に魅力を失い離れていく時かもしれない。
下り線と入れ替わりに登り線が通るらしい。ミミゾウがまた窓へと駆けた。多摩川をまたぐこの区間は駅間も遠く、単線ゆえに交互に行きかう間隔が長い。ラッシュ時においても頻繁に踏み切りが遮断されることはない。ミミゾウは寝ていようと食事中だろうと窓へ飛んでくる。それ程にディーゼル機関車が好きなのに、車に乗るのは嫌いだ。リアシートのキャリーバックの中で、小鳥のさえずりのようにカン高く、情けない声を上げる。病院へ連れて行かれる事をちゃんと分かっているようだ。かしこいと思うのはただの親バカ…。
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世の中には泳ぐのが好きなネコがいるそうだ。トルコのバン湖周辺にすむ、名前もずばりターキッシュバンはそんなネコだと聞く。湖を泳ぐ白いネコの映像を以前TVで見た事がある。また、イリオモテヤマネコやトラは獲物をとるために水に入る事もあるそうだ。ペットフードのコマーシャルには、気持ちよさそうに入浴するネコがいる。まったくうらやましい話だ。
ハナミズもミミゾウも部屋の外に出る事はまったくない筈なのに、どういう訳だかノミをもらったらしい。僕らが媒介になったのでなければ、こっそりスペアキーを使って出かけているのだろう。それはともかくとしてノミを放っておくわけにはいかない。ネコたちが皮膚病になるばかりか僕らも痒い思いをしなければならないのだ。
いつもの動物病院で薬を買った。相変わらず新しもの好きで、出たばかりの新薬を試してみたい風であった。それは液体の呑み薬で、ネコの血液に混じって血を吸ったノミとその卵を駆逐するというシロモノらしい。長期的な駆除に最適なのだそうだが、食事に混ぜて与えられるのもありがたい。欠点は、即効性に欠ける事だ。つまり、薬の効果が出る前に、一度ノミを落としてしまわねばならないのだ。
という訳で、ネコたちにシャンプーする事になった。暴れる事を予想し、Tシャツと短パンを履き替え、タオルとドライヤーを用意。まずはミミゾウを風呂場に連れていく。雰囲気を察してか、抱き抱えている腕の中でもう暴れている。声をかけ、宥めながら背中から程よい暖かさのお湯をかけると、かすれるような情けない声で悲鳴を上げた。心配なのか、好奇心なのかハナミズが覗きに来た。ミミゾウは、声は出ても体はすくんで動けないのか、淡い長毛は見る見るしおれてカサを失い、半分程度の大きさになった。全身を十分に泡立てたらそのまま少し待つ。ペットショップの主人に聞いたノミとりシャンプーのコツなのだ。扉に爪を立て、ハナミズに助けを求めているその背中の泡がだいぶ消えてきた。そろそろ時間だろうとお湯を出した途端、僕は強烈な反撃を受けた。ミミゾウは爪を立てて僕の体をよじ登ると、頭にしがみついた。引き離そうとしても簡単に下りてはくれないようだ。無理をすれば食い込んだ爪で流血するだろう。とすれば解決方は一つ。頭にしがみついたままのミミゾウにシャワーを浴びせるよりなかった。落ち着きのない子ネコにシャンプーするのは骨がおれる。僕はびしょ濡れのまま続けてハナミズを洗うことにした。さすがに彼女はシャンプー如きで暴れたりせず、堂々とした態度で全身を洗わせてくれた。誇り高いネコだ。が、気がつくといつの間にか失禁していた。余程恐ろしかったのだろう…。
Y岡夫妻が一月程家を空けることになった。二人が南の楽園で長い休日を過ごす間、寒い冬の日本に残されるフクちゃんとジムシーを預かる事にした。総勢4匹、どういう事になるのか楽しみだ。
部屋の空気が緊張している。予想通り、フクちゃんは神経質にミミゾウを威嚇し、ステレオの上から牽制している。この部屋の全てが敵だ。見慣れぬ家具も、壁も天井も。気を許せるのは人間だけである。それと比べるとジムシーは環境への順応が早い。ネコ同士ですぐに打ち解けられる才覚があるのか、何も考えていないのかもしれない。ミミゾウのように遊んでくれる相手を欲していたのか、すぐさま部屋を走り、テーブルに乗ったりやりたい放題である。行為そのものはミミゾウと大差ないのだが、体が大きい分ダイナミックだ。棚に飛び乗った衝撃で目覚まし時計が床に落ちて破損するなどの軽度の被害をもたらした。そんな騒ぎを気に止める事もなく、ハナミズはいつも通り寝て食って欠伸して…、大物である…。
総勢4匹を一緒に遊ばせようとワイフは目論んで、ネコじゃらしを改良した。プラスチックの柄に紐をつないで部屋の隅から隅へ振り回せるようにした。各々家具やクッションの陰に身を潜め互いの出方を牽制しあっていたが、次第に尻尾が立ち、尻を震わせていった。不思議なのは、彼らが交互に飛びかかっていく事だ。同じ標的に同時に飛びかかる事はない。これもネコの本能がなせる技なのか、トラブルを回避させる自制心が働いているかのようにじっと我慢しているネコを見ることは珍しいものだ。しかしこれは想像するに、ハナミズという大物のボスの元に統制されているようだ。
低いテーブルの下をしなやかに白黒の塊が駆け抜ける。大柄のジムシーの姿は機敏さにかける分時に華麗に見える。追いかけるミミゾウの姿が頼りないからそう見えるのだろうか。いずれにしても2匹の体格差は大きい。だが、ミミゾウと2匹で本棚を占拠したり、噛み合って絡まったり、また立ち上がって殴りあう姿を見ていると精神年齢に差はないように思えてきた。大きなナリをしていても、ジムシーはまだ遊ぶことに夢中なコドモである。そして、こういう仲間をミミゾウも欲していたようで、普段の遊び相手であった僕らは一抹の淋しさを感じた。だが、まだフクちゃんがいる。彼女も人間と遊ぶのが大好きだ。膝の上で簡単に丸まって、喉をゴロゴロと鳴らしてくれた。
当初、彼らを平等に扱わなければと気づかったが、どうやら彼らは彼らのペースで好きにやっているようだ。僕ら人間はその合間のわずかな時間を遊んでもらえれば十分に幸福だった…。
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まだ暗い、明け方だった。足元にひんやりとした感触を覚え慌てて飛び起きたワイフは寝ぼけ眼の僕を布団から追い出して敷布団を洗面所へ持ち出した。またか…。このところ頻繁に繰り返される光景だ。どうしたことだろう、ワイフの努力もあってほぼ完璧にトイレをマスターしたかに見えたミミゾウだったが、このところ布団に用を足す癖がついた。布団に匂いが残らないよう水洗いしているが、おかげで敷布団や掛け布団がない夜があったり、ついには高円寺から持ってきたベットを放棄するにいたった。
トイレをマスターしたというのは正確ではなかった。たしかに決まった場所で用を足すが、砂を掛けているつもりでトイレの縁をゴシゴシと磨き、肝心な汚物はほったらかし。小用の為に置いたペットシーツを敷いたトレイでは、シーツをビリビリに破く程激しく前足をかいた。それが正しい作法でないと分かっているのか、用足しを終えると逃げ出すように走り去るのだった。
僕にもワイフにも合点がいかないのは、作法はともかくトイレで用を足す、その事だけはきちんと躾たはずで、この連日の行動を起す以前には粗相する事は決してなかったのだ。どういう事なのか本人に質したいが、以前のように喋ってはくれない。喋っても人間の能力では理解できない言葉ではあるが、それさえも発してくれないでいる。
「ないしょだよ」
そう言っているように、カン高い声でニャアとネコらしく声を上げた。
いくらか暖かくなってきたとはいえ、フローリングの床に布団なしに寝るのは辛い。なにより足腰に堪え、睡眠不足も手伝って二人して心身ともに疲れはじめた。この頃になって、ようやく一つの可能性に気付きはじめたのだ。これは縄張りを主張する行動ではないのかと。もともとイヌに近いミミゾウの事だから、そんな事があっても僕ら夫妻には不思議とも思わない。一般的には、ネコ科の動物にはスプレーという発情行動がある。動物園でトラが客にオシッコをかけるなんて事を聞いた事があるが、オスの個体が主張する縄張りに自分の匂いをつける為に木や壁にお尻を向けてサッとかけるのだ。羽村動物園でヤマネコのそれを見た事があるが、スプレーと気付いて即座に逃げたのでオシッコをかけられるという難を辛うじて逃れた。この知識がなければ恐らくまともに食らったに違いない。だが、匂いをつけるのが目的だから少量で済むのだという事も分かった。そういう意味では、ミミゾウの行動はそれと一致しない。まさしく地図を作る量の放尿である。これが発情行動かどうか分からないが、まもなくミミゾウは1歳を迎えつつあった。
その日ミミゾウはあまり元気がなかった。昨夜から食事を取らず、水さえも取る事を許されなかったからだろうか。こんな時ミミゾウは黒目がちな眼を潤ませながら、「どうして」と、訴えるように僕らを見つめるのだ。普段なら、これに負けてついつい何かしら与えてしまうのだが、今日はそういう訳にいかなかった。時間がきてミミゾウをキャリングバッグに押し込むと、一晩断食を付き合わされたハナミズにドライフードと水が与えられた。
病院へ向かう車のハンドルを握りながら考えたのは、生物としての機能を奪い取ってしまう事は人間のエゴかという事だった。ハナミズの時の、切羽詰まったシチュエーションがない事は、残酷な決意を今さらながら鈍らせた。何より、小さな頃から見続けてきた二つの塊が、今日を境に失われることに寂しさを感じていたのかもしれない。「代わりに鈴を入れてみたらかわいいだろう」こんな冗談が最期の抵抗だった。
いつもの病院では、若い獣医たちが待ち受け、去勢手術の承諾書にサインをするとミミゾウは頑丈なケージに移された。あの訴える様な眼が格子越しに見つめていた。
暖かい春というより初夏に近い日だった。サクラは既に散り、木々は鮮やかな新緑に彩られている。手術の間、僕らは手持ちぶさたで立川まで足をのばし、昭和記念公園で時間をつぶした。色とりどりの花の季節だ。1年のサイクルで植物は花を咲かせ、虫をよび受粉し、子孫を残していく。自然の摂理である。ここでネコのサイクルを断ち切る事は、決して自然な行為とは思わない。エゴイズムでしかない。だが、今はこれ以上の選択肢はない。怠れば望まれない子ネコを増やし、ミミゾウに成就する事のない欲望を抱かせ尽きることのない苦痛を味あわせるのだ。そう自分に言い聞かせた。ワイフも心無しか言葉すくなで、会話もぎごちない。健康な体にメスを入れる事を後ろめたく思っているのだろうか。
5時近くになって電話を入れると、もう引き取っても大丈夫だという。病院で受け取ったミミゾウは、まだ麻酔から覚めきらず、夢でも見ているようだった。その虚ろな表情を見つめながら、僕はもう引き返せない所へ来てしまったのだと自覚した。このネコの生涯の幸福は僕とワイフとの責任なのだと。その契約の印として毛刈りされた空き袋を痛々しく赤く染めていた。
ミミゾウはまだ麻酔から覚めきっていないようで、家に連れ帰っても布団の上でボーっとたたずんでいた。春の柔らかな夕日が白い壁紙を輝かせながら、その柔らかな体を優しく包んでいた。ミミゾウは大きく黒目を広げて、いつまでも遠くを見つめていた。
つづく
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