四つの梅の花

 僕は両脇にネコを抱えてワイフの前に立った。片手にはハナミズ。もう片手には見知らぬネコ。そして「はなちゃんとななちゃん」と、紹介されると、ワイフは目の前が真っ暗になった。ハナミズひとりでも大変な思いをしたのに、このうえまた厄介なものを…。そこでワイフは目を覚ました。とんでもない悪夢であるが、彼女の予知夢は侮れない。
 僕は目覚めると、足元に妙な温もりを感じた。毛むくじゃらで柔らかいそれは、すぐに丸まっているハナミズだと分かった。足先で突ついてちょっかいを出すとモゾモゾと動き、しつこく続けると攻撃してくる。最近の定位置なのだ。蹴飛ばしそうな場所なので、安全な頭の側に移動してあげるのだが、気がつくといつも足元にいる。高い金払って新居を用意した僕らに気を遣っているつもりなのか?。この新しい部屋は3階。おそらくもう窓際にノラネコがやってくる事はないだろう。ワイフが夢で見た『ななちゃん』は現れない。多分…。
 部屋を移っての一番の気掛かりは、ハナミズとどう暮らすかという問題。以前のように外と自由に出入りさせるかどうか。外に出せば病気を治すどころか、逆に貰ってくる事もあるだろう。逆にハナミズが近所のネコにうつす事態も考えねばならない。近所のネコが皆ハナを垂らしていたら大変だ。だが、そんな心配は無用だった。ハナミズは時折窓から外を眺めているが、網戸を開けようという素振りすら見せない。3階だからと言っても、ベランダや通路側の窓ですらそうだ。
 僕は引っ越しのその日に葬式で帰省し、一週間程家を空けた。その間ハナミズがどうしていたか具体的には分からない。見知らぬ場所に戸惑いながら、次第に自分の居場所を見つけ、縄張りとしていった過程は想像がつく。この間に、外への興味はたいしてなかったらしい。もし、外ネコを家ネコにしたい人がいれば、引っ越しはいい手段かもしれない。散財は止むを得ないが、万一愛猫が病気や事故に陥った事態の、金銭以上の精神的外傷は計り知れない。一般に、イヌは人に、ネコは家につくと言われている。そういう意味で、ハナミズは新居を認めたのだろう。これで後は、僕とワイフに懐いてくれればいいのだが…。
 その夜、僕は仕事に疲れて帰るなり床に寝そべって下らないTVを見ていた。その僕のお腹に、胸に、不意に重い、柔らかい物がのし上がってしゃがみこんだ。心地いいのか、すっかりリラックスしている。疲れて夢でも見ているのかとも思ったが、ハナミズは僕の顔の上で時折くしゃみし、飛沫が飛んでくる。夢でなかったその証拠に、胸にしっかりハナミズの肉球の後が胸に残っていた。それを見てワイフはいつまでも笑っていた。

ななちゃん?

  医者はどこだ

 窓から奥多摩の山々を眺めるこの都下の田舎街は、まだ夏の盛りなのに強烈な暑さを感じない。それがこの土地の気候なのかと思っていたら、全国的に涼しいらしい。翌年には空前の米不足となった。窓を開け放すと風が通り、僕ら人間には心地よいが、ハナミズは相変わらずクシャミを連発し、ハナを垂らしている。
 高円寺の病院で不治の病と診断されたハナミズだが、抑えれるものなら症状を抑えてあげたいものだ。まずは信頼できる医者が欲しいところだが、残念ながら近所に動物病院がない。涼しいとはいえ、やはり夏の日差しの元、汗だくになりながら1キロ程離れた動物病院に足を運んだ。
 決して古い訳ではないが、なんとも薄暗い待合室に僕とワイフとキャリーバッグに入ったハナミズ。先客には尻尾を怪我したシェルティがいた。僕らを妙に不安にさせたのは、壁中に置かれたホルマリン漬けの臓器の類。研究熱心なのは認めるが、感じのいいものではない。獣医師は初老の優しそうな先生だが、どうにも印象が悪い。尿に結晶が混じっているのを、排出したのだから良しとするのだ。僕らが望むのは、結晶その物がでないように治療して欲しいのだが、その辺りが理解されていないようだ。悪い先生ではなさそうだが、僕らが望む主治医としては十分ではない。
 その日は結局ジェル状の目薬を貰って帰ってきたが、使う事もためらわれた。

 信頼できる病院を探す。これは人間の病院だって大事な事だが、いったいどうやって…。そういえば、子ネコの里親を探した時の病院のリストがあったはずだ。その中から近い所を探して片っ端からチェックするか。いや、そのリストは引っ越しの折に紛失してしまった。ところが、何気なく開いたネコ雑誌に、いくつかの動物病院が紹介されている。そして、その一つが目に止まった。駅で2つ程行ったとなり町。決して行けない所ではない。早速電話を入れて場所を聞いた。受け付けの担当がいるのだろうか、テキパキとした対応である。少し遠いがここに行ってみよう。ハナミズは勝手しろと、窓辺で不貞寝。
 僕とワイフはハナミズを連れてバス、電車を乗り継いで、横田基地に近いその病院へと向かった。広い訳ではないが、清潔は感じの待合室。窓に貼られた里親募集のポスターには、獣医の良心を感じる。壁には数人の獣医の名が書かれている。白衣の女性は看護婦だろうか。ここなら大丈夫そうだ。
 2つある診察室の1つに入ると、若い先生が待っていた。手にいくつもの傷をつけたその先生は、ハナミズをキャリーバッグから出すなり、「妊娠してますね」と、言った…。あーあ…、信頼できる医者はどこに…。

 

 白衣のブラックジャック

 僕らはハナミズの不治の病に手を拱ねいていた訳ではない。ワイフが通っていた漢方薬局から、ネコ用の薬を都合してもらい、餌に混ぜたりスポイトで飲ませたりした事もある。苦いのか激しく抵抗されて断念した。また、高円寺の熱血先生は、外科的に治療する案を相談してきた。顔にメスを入れ、鼻を切り開く、聞いただけでも痛そうな手術だが、それでも完治する見込みはないという…。僕らの経済的負担はもちろん、ハナミズ自身の負担を考えるととても踏み切れなかった。だが、熱血先生の率直な言葉に、ある種諦めと、病気と付き合っていく心構えができたのだ。
 そして今、ハナミズは若い、手に幾多の傷を負った獣医を相手にしている。おとなしくはしているが、これから行われるであろう拷問のような治療への覚悟ができているのか肉球からは流れるように脂汗がにじんでいる。
 診察の結果、鼻以外は健康そのもの。その診断を下した先生の様子がおかしい。どことなく嬉しそうにしていて、ハナミズも些か怯えているようだ。実は、認可されたばかりの新薬にピッタリの症状だったのだ。近年、ガンなどの治療にも注目されているインターフェロン。患者の免疫抵抗力を高めていく、漢方医学に近い発想の薬は、人間に限らぬ新たな医学の挑戦でもある。この若い先生のチャレンジは、ある意味、高円寺の熱血先生にも似ていた。大きな違いは安全である事だけである。そして先生は、この治療方が決して安価でない事を説明した。1本8千円の注射は正直高いのか安いのか分からなかったが、先生の薦める、比較的安上がりな方法をためしてもらうことにした。
 希釈したインターフェロンを鼻から注入するというそのやり方は、直接患部に投薬できるメリットがあるのだろう。鼻からこぼれた薬はなめても平気だという。ハナミズは押さえつけられ、苦しそうにしている。なめてもいいのなら飲み薬にしてくれてもいいのではと思ったが、ここは先生にお任せしたのだ。僕自身は、この治療法を実はTVで見て知っていた。この若い先生もまったく新しいこの方法を試してみたかったのだろう。
 インターフェロンは免疫力を高めるもので、即効性の薬ではない。日を置いてまた投薬する訳だ。それにしても、鼻から薬を入れられるのはどんな感じなのだろう。僕とワイフの意見は一致した。
 僕らはその後の投薬に8千円を惜しまなかった。先生は少し残念そうだったが、ハナミズには注射の楽である。ケロっとした顔で背中に打たれていた。先生には悪いが、これはあっという間に効果があり、鼻水もクシャミも驚くほど治まったのだ。だが、この若い先生の挑戦に敬意を表して、僕らはこの病院に信頼を置くことにしたのだ。

 

れんとげんをとりまーす

いしがたまってますね…

  はなちゃんの怠惰な日

 僕とワイフは休みがかみ合わず、ひとりで休日を過ごす事が多い。こんな日は、互いに創作活動に専念する事に表向きなってはいるが、疲れていたり、意欲の湧かない時はついダラダラと一日を過ごして後悔するものだ。
 なんとかベッドを出てはみたが、ワープロに電源を入れるのが億劫だ…。とにかく朝食を取りながら、朝のワイドショーを流し、読み掛けの雑誌のページを床に開いた。と、それを見透かしたように、どこからともなくハナミズが歩み寄り、雑誌の上にゴロリ転がった。ちょっと、今読んでるんだぞ!。ハナミズは聞こえないふりをして、眠そうに目を細めて堂々と横たわる。挑発しているのか?。いや、ネコのやる事、どなりちらすのはおとなげない…。退屈しのぎに雑誌を開いただけ、そうとでもいうように、僕はさりげなく立ち上がり、キッチンに向った。コーヒーでも飲んで目を覚まそう…。パーコレーターを火にかけた。パーコレーターを使う人は少ないと思うが、火を掛ければ終りというイージーさが割と気に入っている。もっとも火加減を間違うと、粉だらけのコーヒーを飲むことになる…。その一連の作業を終えて振り返ると、ハナミズが餌の皿の前にチョコンと座り、僕を見上げている。明らかに餌を催促する目つき。ボケたのか?、さっき上げたばっかりじゃないか…。それにまだ皿にはたっぷりドライフードが残っている。それでもまだ、恨めしそうに見つめ、微かに抗議の声を上げている。欲しい時はちゃんとゴハンと言え。そんな僕のいじわるにもめげず。しきりとオワーンと声を出している。それが次第にゴハンと聞こえてきたのは、ただの親バカ。そして先におれたのは僕。
 TVの音にハッと目が覚めた。いつの間にか寝ていたらしい。ハナミズは午後の陽が差しこむ窓際の陽だまりで、とぐろを巻くように眠っていた。夢でも見ているのか、時折手足を痙攣させて、しかめっ面から伸びた髭を動かしている。そして落ち着くと、幸せそうな寝顔で体を丸めた。僕やワイフのいない平日の日中も、きっとこういう風に過ごしているのだろう。あやかりたいものだが、そろそろ夕飯の買い物に出かける時間だ…。
 共働きの僕らは家事を分担してはいるが、やはりワイフの比重が大きい。ただ、割と炊事は好きだ。料理を作るのは知的で創造的な作業だと思う。僕はその日のレシピを頭の中に構築しながら、食材を下げて部屋へ戻るとハナミズが眠そうな目をして出迎えた。腹が減ったという顔つきでもある。食って寝て、寝て食って、いい暮らしだ…。ひもじい時に食事を出してくれる奴隷だっている。ああ、そんな生活がしてみたいなどと思いながら米を研ぎ始めたら、今日はワープロの電源すら入れていない事を思い出した。

 

  遥かなるオーストラリア

 転居して数ヵ月もすると、色々と失敗を繰り返しながら店々の特徴も分かってくるもの。あの店は何が安いだの、これを買うならこの店だの…。例えば、各々に規格の違うネコ用トイレはサイズがまちまちで、シーツの広さも店によって違う。日本中で売っているドライフードも、企業努力で10円でもコストダウンしている店には、消費者は敬意をもって売り上げに協力するものだ。この郊外の街は、敷地に余裕があり、大型店舗が多い。薬局、ディスカウントショップ。ホームセンター…。悲しいかな店舗の絶対数が少ないので、購入する品と店が一致してくるのは必然なのだ。
 お気に入りの店がある。典型的な郊外型のショッピングセンターに入っているホームセンターで、動物関連のスペースが園芸用品とともに広くとってある。ここ一店舗でネコ関連の消耗品を全てまかなえるが、ここの担当はキャットフードだ。とにかく、この店は飽きることがない。熱帯魚やカメなど水性爬虫類には暗いが、見ていると心がなごむものだ。特別にアクの強い連中が多いのも特色だが、レッドテールキャットフィッシュは店のアイドルだし、恐竜のように長い首をもつカメはスターである。当初、哺乳類の姿を見ることはなかったが、いつしかハムスターやウサギをも扱うようになってきた。
 ハッと気付いたのはある日の午後だった。足元に置かれた見慣れぬケージの中で灰色の毛むくじゃらがうごめいている。よく見て見ると、それは愛くるしい長いまつげを持ち、黒目がちな瞳で僕を見上げた。動物園で見た事がある、小型のカンガルー…、ワラビーだ。これはペットとして売られているのか…。脳裏によぎったのは、イヌのようにリードをつけて、跳ね回るワラビーを散歩させる間抜けな情景だった。いや、もっと冷静に考えた。そもそもこんな動物を、イヌネコのように養えるのか?。餌は?、運動は?、買うつもりもないのに、様々にシュミレーションしてみたが、やはり未知の動物である。哀れを誘うあの潤んだ瞳に我を忘れそうになりながら、なんとか自我を取り戻そうと必死だ。なにしろ、あの小さなケージがいけない。あんな所に閉じ込められて、健康な訳がない。なんとか救ってやりたいが、その自信はないのだ。
 それにしても、いったい誰が育てるのだろうか。イヌやネコに満足できないマニアがいるのだろうか?。そんな理由で遠く海を越えて、迷惑な話じゃぁないか。おそらく、飼い主が権利を放棄した時にワラビーは自力で生きてはいけないだろう。この店はお気に入りだったが、そんな事を考え出したら妙に腹が立ってきた。結局ワラビーは、何ヵ月も買い手がつかず、狭いおりに閉じ込められた。そんな破廉恥な経営方針が裏目に出たのか、その店は閉店し、ワラビーの行方は分からなくなった。

なにすんじゃい!

  弱点

 ハナミズは怒れるネコである。気に入らない事には徹底的に抵抗し、無礼な振る舞いには鉄拳制裁を行使する。くつろいでいる目の前を断わりもなく横切ろうものなら、寝転がった姿勢からでもパンチが飛ぶ。手加減はしているのか爪は出していない。肉球パンチなど痛くはないが、ネコに叩かれた事で心が傷ついている。ハナミズパンチは心にダメージを与えるパンチなのだ。
 傍若無人なハナミズだが、相変わらずの病院通いが続いている。僕が車で動ける時はまだいいが、ワイフがバスや電車で連れていく時は、狭いキャリーバッグの中でストレスがたまるのだろう、大暴れするのだ。叩き壊すような勢いでバッグを叩き、ついには自らの爪を剥がしてしまった。一面の流血にワイフは戸惑ったが、当の本人はケロッとして傷口を舐めている。痛感が鈍いのか、痩せ我慢なのか分からないが、ハナミズを見る限り、この程度の傷でオタオタするなと諭しているような気がする。念のために、複雑な構造のネコの爪だけに病院で診てもらったが、心配はいらないらしい。ネコの爪は伸びるにしたがい外側の古い層を脱ぎ捨てていく。爪研ぎとはようするに古い表皮を剥ぎ落としているのだ。ハナミズの剥げ落ちた爪は何層にも薄皮の重なりで、指の奥に隠した小さな爪の形にきれいに穴があいていた。余談になるが、剥げ落ちた爪の表皮、これを爪の鞘と呼んでいるが、これは爪研ぎの場所と無関係に落ちている事が多い。そんなにも新陳代謝がはげしいのだろうか…。

 日に日に陽がのびて暖かくなりだした頃、ハナミズが妙に痒がりだした。毛皮の所どころに胡麻粒のような黒いものが見える。ノミだ…。ハナミズを部屋に上げるために駆除に気をつかってきたつもりだったが、卵が残っていたのか、それともフクちゃんやジムシーを預かった時にもらったのか…。どっちにしても衛生的ではない。ハナミズはいつものように、痒みぐらいと堪えてしまうだろうが、一緒に住んでいる僕らも手足に被害を被るようになった。早急に駆除しなければならない。やはりシャンプーが効果的だ。パウダーや首輪は劇薬に違いなく、できるだけ避けたいものだ。駅前の店で、つけ置き洗いで相当ノミを落とせるからと教えてもらい、早速実行してみる。もちろん、ハナミズもシャンプーが好きなはずはなく、激しい抵抗にあう。威嚇し、爪を立てた。Tシャツを濡らし、手に傷をこしらえながら逃げ回るハナミズを押さえつけ、よく泡立てた。そのうち、観念、いや、覚悟を決めたように逃げ回るのをやめた。沸き立つ泡に臆することもなく、その成分が皮膚に浸透するのをハナミズはジッと待っていた。偉いぞと抱き上げた瞬間に、ようやく失禁していた事に気付いた。僕は湯気に蒸されながら、少しばかり勝ち誇った気分を得ていた。

 

  拾ってきた天使

 またその日も、単調な一日が終り、退屈な仕事に疲れ果てた重い足を引きずって家のドアを開けた。部屋に明りが灯っているので、ワイフは帰っているようだが、僕を出迎えることもなく、居間のカーペットの上に、背を向けて座っている。そして、おもむろに振り返って言った。「いいもの拾っちゃった!」背中越しに覗いてみると、ワイフの膝の上で、白とも黄色とも言えない毛の塊がうごめいていた。ネコ…、の、ようだが、動物園で見た大耳キツネのようにも見える。そして太い手足で子ザルのようにワイフにしがみついていた。その生き物は、大きな黒い瞳を潤ませて、僕を見上げた。
 ワイフの言い分は、2件隣のマンションの入口にうずくまっていたのを“やむを得ず”保護した訳だ。前の通りは、側道とは言え首都圏を取り巻く環状線に連絡するバイパスだ。車の往来は少なくない。ワイフでなくとも放っておく訳にはいかなかったろう。ワイフはこの珍客の来訪を喜ぶあまり、僕のエサも用意し忘れていた。
 さて、このネコ、大きさから2ヵ月ちょっとというところだろうか。まばらに長い毛は柔らかく、抱き上げると妙に軽かった。耳を伏せて小刻みに震えている。喉を撫でて機嫌をとると、コリコリしたものに触れた。リンパ線が腫れている。大きな耳の中がダニで真っ黒なのだ。なにか食べさせようと思ったが、家にはハナミズのダイエットフードしかない。もちろんネコ用の粉ミルクなどとっくになかった。時間も遅くコンビニエンスストアで手に入るもので栄養をつけさせなければならなかった。僕は着替える余裕もなく買い物に出て、ペーストタイプのネコ缶と牛乳、それに生卵を買って帰った。
 TVドラマで、冷たい牛乳を子ネコに与えるカットを見かけるが、あまり良くないらしい。ある酵素が消化できず下痢をすると聞いていたので、牛乳を人肌に温め、卵黄を加えて与えた。なにかの本で読んでいた知識が役に立った。念のためにネコ缶はお預け、排泄に問題がなければ明日食べさせてみよう。小さな小皿にそそいだ黄色い濃厚なミルク、もう液体というよりゼリーに近いそれを、この小さな口から舌を伸ばしてなめ始めた。食欲はあるようだ。安心安心…。

 アビシニアンに見られるフォーンという淡いカラーの子ネコを見つめながら、僕は里親探しに奔走した日々の記憶を蘇らせた。しかし、ワイフにその考えは微塵もみられない。ただ、久しぶりの子ネコの世話に満たされていた。今はそれ以上の事を考えられないでいた。夢に見たナナちゃんだったのだろうか…。
 ハナミズはというと、関心なさそうに部屋の隅で静観していたようだが、こっそりミルクの残りをたいらげていた。

 

  えこひいき

 ワイフが道端で拾ってきた子ネコは、大きな耳に溢れんばかりの黒い耳ダニを患い、少しばかり涙目である。おとなしくしているのは性格の問題で、馴れてきてからは部屋中を駆け回っているから、あまり問題はないようだ。不安は、耳ダニと慢性鼻炎、これを互いにうつしあう最悪の結果だった。子ネコを病院で診てもらい、ワクチンをうってもらう事が急務だった。
 子ネコはワイフのデイパックにピッタリ収まりおとなしくしていた。印象の悪かった一件目の病院では簡単な診察を済ませ、日を改めて隣町の病院へ行くと、この子ネコは若い女医さんたちに歓迎された。目の大きな長毛のおとなしい子ネコはどこへ行っても人気者なのだ。一緒に連れて行ったハナミズが、絵に描いたようなドラネコに見えてしまう。
 こんな新参者がチヤホヤされて、ハナミズも内心穏やかでないだろうに。Y岡家のフクちゃんは、新しい子ネコが来るたびパニックに陥っていたが…。僕の読み聞きした知識では、こういったケースでは先住ネコをかわいがる事でネコどうしの関係をうまく保てるそうだ。実際に、僕もその知識に従って、あえてハナミズに目をかけてきたつもりだったが、ワイフも、身近なネコ好きたちも関心は子ネコ以外にないようだ。ハナミズに関していえば、幸いにしてそういう心配はいらないようで、新しい同居人にいたって無関心を装っている。
 実は僕ら夫婦には以前からあるひとつの目論見があった。もし、万が一子ネコを育てる機会があったらハナミズの健在なうちにと考えていた。トイレの場所は守り、僕らの食事を邪魔せず、(彼女の基準で)善悪の区別をつけている。多少の人語を解し、細かいことには執着しない。健康面以外で、手間のかからない事といったらハナミズに優るネコはいないだろう。残念で仕方ないと思った矢先、ハナミズは子ネコを両手で抱え、激しくキックを連発した。子ネコだからと容赦などしない。理性をもつ人間の事なら悪魔の所業と言える行為だが、ハナミズには一言で済んでしまう。スパルタ教育だと…。結局、ハナミズだけが子ネコをひいきする事なく、健全に見守っていた訳なのだ…。

 子ネコの名前がひょんな理由で決まった。それは、最初の病院の道順を電話で聞いた時にワイフが聞き違えて覚えたレストランの店名、ミミゾウとなった。漢字で『耳蔵』と書くとワイフが説明していた。耳の大きな、まばらだが長毛の、洋ネコ風の子ネコである。

 

  み、みぞう…  

  M?

 ミミゾウの耳を覗くと相変わらず黒い耳ダニがこびりついている。ワイフは仕事や家事の合間をみては綿棒で掃除しているがなかなかなくならないものだ。こんな状態が続いてはいたが、ハナミズともどもなんとかワクチンを打つことができた。1本4千5百円は安くはないが、ネコと暮らす者にとっては大きな意味がある。病院で発行してくれる接種証明書こそ、イヌのように管札をつけないネコが僕らとともに暮らしている唯一の証しなのだ。これをもってミミゾウは正式に家族の一員になったと確信した。名前、性別、推定生年月日…、そして、M…?。エム…?、Mってなんだ?。イニシャルか?。色の濃いタビーには額にMと模様のあるネコがいるが、スーパーマンにSのマークがあるのと似ているなんて事を考えていたら、ワイフが閃いた。ミックスのMだ。つまり混血と言う事。ちなみにハナミズは和ネコと書かれている。
 混血である。洋ネコではない。和ネコでない事は素人目にも分かる。骨格が違うのだ。典型的和ネコのハナミズの、押し潰したような平べったい頭と比べると、いかにも丸く、立体的な頭だ。手足も太く、長い毛も、淡いクリーム色も和ネコには見られない。それでも洋ネコではないのだ。いや、ひとつ和ネコな部分がある。左右交互に折れ曲がり、最期に下向きに曲がった短い尻尾。和ネコが輸入された家畜だったというのは以前書いたが、尻尾の曲がったのは南方系だと分類されるとものの本で読んだ事がある。遥かインドネシア辺りを起源としているのだから、洋ネコでもいいじゃないかとも思うのだがどうだろうか…。誤解のないように書いておくが、混血ならダメで洋ネコならいいと言っている訳ではない。あの容姿では洋ネコだろうと思い込んでいて、少し期待外れだったという事だ。血統にこだわるのなら、キチンとした店で血統書を買い、おまけでネコをもらってくればいいだけなのだ。
 拾ってきたネコだから、当然出生はナゾなままなのだが、ミミゾウにはいくつかのヒントもある。爪を切った跡があったので、生粋のノラではない事が分かる。迷ったのか捨てられたのかは分からないが、一度は人の手にかかっていたという事だけが分かっている。もっとも、リンパ線を腫らすまで耳ダニを繁殖させるような保護者なら、たとえ名乗り出ても引き渡すつもりはない。だから、今のところは近所に住むゴールデンレトリーバーの子供ということにしておこう。なぜって、色も頭の形もそっくりだから…。立った耳だけ、母ネコに似たんだろう…。ミミゾウのMはイヌとネコのミックスという訳だ。

 つづく
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