小耳ラララ…

 その晩、電話を受けたワイフの表情はいつになく真剣だ。保護した子ネコを預けてあるY岡さんのお祖父さんが亡くなったそうだ。すぐに九州の実家に飛ばねばならないのだが…。フクちゃんだけならあてはあるが、子ネコだけはどうにもならない。かくして、ウチで3匹を世話する事になったのだ。
 大きめのキャリーバックに詰め込まれた3匹の子ネコは、保護した時の頼りなさは失せ、見た目に健康的だ。Y岡さん宅で躾も済ませていて、トイレの心配もない。Y岡さんに預けたのは正解だ。付け加えれば、子ネコたちはほとんど鳴かないので、隣室への配慮も無用だ。
 だがしかし、ハナミズだけは子ネコの存在に気付いているのか必要以上に声を上げている。かわいそうだが、この親子を再会させる訳にいかなかった。子ネコが外に連れ出されればもともこもないのだ。窓に段ボールを貼り、ブラインドを下ろして外界とシャットアウトする。それでも餌を上げねば、残るもう1匹の生存に影響するだろう。庭のブロックに投げるように与えるしかなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。里親探しを急がねばならなかった。
 これまで身近な知人から、もう何年も会っていない旧友にまで片っ端から連絡を入れてきたが、いい返事がない。図書館で手に入れた、都内の動物病院のリストを上から順に電話してもみたが、ポスターを貼るぐらいならというのが大方で、酷い所は動物への愛情のかけらも感じられない対応だった。この場を借りて病院名を公表してやりたいが、残念ながらリストを紛失してしまった。
 そんな僕らの苦労も知らず、子ネコたちは次第に慣れて、部屋中を駆け回るようになった。ベッドの下に潜りこみ、ワープロの上を走り、ついには窓の段ボールにまで剥がそうとしている。子ネコが遊んだワープロの画面には『小耳ラララ』と入力され、ごていねいに漢字変換までされていた。天才である。彼らは好奇心の塊、悪意はまるでない。ベッドの上で、無邪気に寝ている姿を見ていると、多少の悪戯は目をつぶって、このまま里親見つからなければ…、そんな気持ちが沸き上がってきた。
 窓の外ではハナミズが餌をねだって鳴いている。このままではいけないのだ。子ネコらを里子に出し、残る1匹を保護し、ハナミズに避妊手術を受けさせる目的がある。心はオニにせなばならない。

 数週に渡りかなりの件数、動物病院に電話したが、やっとヒットが出た。子ネコを探している人がいるらしい。光明が見え始めた。

 

いろちがい

  責任

 新中野の動物病院は大きくないが、女医さんがフレンドリーな、感じのいい病院だった。里親の希望者が2人いたが、1人の女性は里親として多少問題があり、紹介しないそうだ。そんな人でも紹介して欲しいのが本音なのだが、これは女医さんの好意と受け止めた。
 紹介されたのは若い女性で、一目見るなり子ネコを気に入ったようだ。唯一の雌であるサバトラをもらってくれた。いい人にもらわれて、ひとまず安心である。
 実は僕の苦労を耳にはさんで、協力を申し出た人がある。いや、何かと条件はあるが、まずはネコを見たいというのだ。
 昼間の閑散とした地下鉄車内で、子ネコを抱えた僕らはアイドルだ。誰もがキャリーバッグを覗き込んで顔の筋肉をゆるませていく。子ネコの愛らしさには、ヒーリング効果があるに違いない。僕もワイフも鼻が高い。
 協力者はワイフのお気に入りの茶トラを預かった。仕事中で、今夜連れて帰るが、自宅の先住ネコとの相性をみてからという条件つきである。僕にとっては同僚であり、切羽詰まった状況で信頼するよりなかったが、ワイフは何か得体の知れぬ不安を感じていた。こんな時のワイフは恐ろしい程カンが冴えている。子ネコを見つけた時もそうだった。
 ワイフは1人で引き返した。場合によっては取り返す覚悟だった。が、嫌な予感が的中してしまった。たまたま店にきた女性客が連れ帰ったというのだ。何という事だろう、まるで衝動買いでもするように生きている子ネコを連れ帰ったのだ。信用した僕もバカだったが、同僚も無責任過ぎる。なにより、無計画な人間の手に渡った事が悔やまれた。ワイフは住所を調べて相手に連絡をつけたが、その女子大生は煙たがっている様子だ。お節介な人間だとでも思っているのだろう。ワイフはただただ子ネコの心配から、しつこく付きまとった。飼育法のマニュアル本を渡し、細々と説明した。そこまでやらなければ不安だったのだ。その後の事を話すと、ワイフの不安通り、この女子大生はネコを飼う事を断念し、実家に送り付けた。ほとんど連絡も取れず、そういった断片的な情報で、この茶トラの子ネコの消息は跡絶えた。捨てなかっただけマシであるとか、手放した張本人がお節介を焼きすぎだとか色々言う人もあるだろうが、子ネコの幸福を願って里子に出したのだ。僕らには保護した責任があった。相手は生き物で、その幸福度は里親に依存するよりない。
 この女子大生を許すことはできない。だが、僕らにも問題があった。今後は、里親の希望者とは面接する事にしよう。問題があれば、勇気を持って断わろう。新中野の女医さんがもう1人の希望者を紹介しなかった、あの態度を見習わなければならない…。

 

  ネコ探偵の残したもの

 残った黒ネコの里親が決まった。練馬の動物病院で、やはり女医さんの紹介だった。女医さんというのは何かと親身になってくれて、地域でも信頼されているようだ。里親さんも、その後も度々手紙や写真を送ってくれる。若い女性だそうだが、いい人に引き取られホッとした。
 しかし、すべてが終った訳ではない。まだ、駐車場の窪地に1匹、子ネコがいるのだ。この数週間の間にいくらか成長したのか、捕獲されかけた経験からか、すばしっこく、なかなか捕まえる事ができないでいた。それでも健康状態は良くないようで、目を潤ませ、時折くしゃみをしているようだ。急がねば第二のハナミズになりかねない。
 高円寺の駅のホームから見える不思議な看板が以前から気になっていた。ペット探偵と書かれたそれは、何とも奇妙な響きだ。探偵というハードボイルドな匂いがどうにもペットと釣り合わない。それはそうと、最後の頼みでワイフはこのオフィスを訪れた。
 不思議な商売だが、そこはやはりプロである。すでに居場所が分かってるような、ネコなど探偵が出る幕ではないという事か、ワイフは大きなネズミ捕りのようなワナを借りてきた。オリの中の餌を捕ると入り口が閉まるアレである。
 僕たちはこのオリの使用を昼間に限り、1時間おきに確認するように決めた。何しろ借り物であり、また夜間にオリでネコが騒いでは近所迷惑である。何より、この私有地である駐車場に勝手に入り込んでいるのだ。借りた期限は5日。ワイフと交代で休みをとった。
 とにかく雨が降らないのが幸いだ。昨日までの2日、オリに近付こうともしなかったそうだ。僕の当番の日、その日3度目の点検に出向いた。栗の木はだいぶ葉を落とし、真昼の陽光をオリに透かしている。オリの入り口が閉じている。走った。何かが中にいる。次の瞬間にはフゥっとため息が出た。オリの中ではハナミズが不愉快そうに僕を見上げ、小さな声でニャァと抗議していた。

 子ネコが捕まったのは翌々日。それも逃げ惑うネコをワイフが手で掴み、オリに投げ込んだというのだ。こんな方法だったが、高いレンタル料を払った甲斐はあったかもしれない。
 黒い子ネコは、捕まえてみるとやけに人なつっこかった。あれだけ逃げ回っていたのがうそのようだ。心配していた病気も、まだ初期症状で問題ないらしい。僕らは里親探しを再開し、子ネコを部屋へ上げた。ハナミズは庭先で憐れみを誘うように鳴いている。
「子供を奪ってゴメン…」
悲しげな声に僕たちの胸が締め付けらる夜が、近所のOLに子ネコを渡すその日まで続いた。

 

ぱとろーる

  はなちゃん入院する

 病院をかえた。大きくはないが、ペットホテルを兼ねた入院施設のある病院だ。もちろん、ハナミズの避妊手術が目的である。
 子ネコたちを里子に出して以来、ハナミズは庭で寛ぐ時間が増え、スキンシップの機会も増した。給餌のおりに容易く捕まえる事ができる。
 避妊手術に先だって、ハナミズの鼻を診てもらう必要がある。何せ、当初ネコエイズを疑ったほどの症状で、治療を施した訳ではない。この数ヵ月、栄養状態を改善して、いくらかは良くなったかもしれないが、相変わらずくしゃみと鼻水が止まらない。

 熱血漢な印象の獣医師の診断は、ウイルス性の鼻炎。初期ならば投薬で治せるが、ハナミズの場合、症状が進行し、完治の見込みはないという診断である。差し当たって命にかかわることはないというが、正直ショックは隠せない。それよりも、この鼻炎の為に避妊手術が受けられない事が問題なのだ。何もハナミズの体が手術に耐えられない訳ではない。麻酔用マスクの汚染が懸念されるのだ。そうと聞いた時、たかがそんな事でと思いはしたが、ここは命を扱う病院である。院内感染でも起こそうものならハナミズ1匹の問題ではなくなるのだ。
 獣医さんも手術が必要な事は重々承知している。ただ手をこまねいている訳ではない。一つの提案がなされた。それは昔ながらの注射による麻酔だ。それは誰にとってもリスクを背負う結論だろう。専門の麻酔医のいる人間の手術でさえ、時として事故が起きる。この熟練の獣医師にはほとんど経験のない事だったのではないだろうか。互いにリスクを背負う条件の元、ワイフは承諾書に署名した。

 手術は成功し、ハナミズは抜糸までの5日間入院する事になった。数ヵ月ぶりにネコのいない夜を過ごす。静かで落ち着いた夜だ。 成すべき事をやり遂げ、ひとまず安心した。のんびりTVでも見ながら落ち着いた夕食をとっていると、子ネコたちが駆け回ったベッドが目についた。あの上で、小さな柔らかいいきものが寝て起きて遊んで…。かけがえのない貴重な時間だった。大変だったが、満たされた毎日だった。ハナミズは今、病院の小さなオリに入っている。昼間、見舞いに行ったワイフの話しでは、お腹に大きい絆創膏を貼っていたそうだ。うるさく鳴いて、騒いでいるそうで、無理をお願いした獣医師の先生には申し訳なく思う。
 5日後、病院から戻ったハナミズはまず部屋へ上げられた。さすがに疲れていたのか抱き上げても抵抗しない。と、その瞬間、お腹の真ん中に千円札大のハゲが目に入った。相変わらず不貞腐れたような、鋭い目のハナミズを抱きしめた。
「ウチのコになりなさい」
ハナミズは小声でウニャっと鳴いた。

 

  Y岡夫妻の野望

 Y岡さんが子ネコを欲しがっているという話はフクちゃんを貰って間もない頃から聞いてはいた。それならハナミズの子供を1人ぐらい引き取ってくれてもとも思ったが、あの4兄弟に夫妻の望むネコはいなかったのだ。Y岡さんの言葉で言えば、富士額の白黒ネコ、目の回りから八の字に黒いブチがある事が条件だった。で、やってきた子ネコは小さくひよわそうな白と黒の毛玉のような奴である。名前はジムシーとつけられた。

 ところで、ひょんな事からこのジムシーを数日預かる事になった。子ネコ4匹を育て、里子に出した実績を買われたのか、いずれにしても子ネコの躾などやって貰った恩に報わねばならない。それに子ネコが身近にいるのはうれしいものだ。
 それはそうと、ワイフのネコアレルギーは大丈夫なのとお思いの方もいらっしゃるでしょう。結論からいうと、ワイフはネコアレルギーを克服したのだ。していた、と言った方が正しいだろうか。ワイフはこのところ漢方薬に凝り、薬局に出入りしている。最後の黒ネコの里親はそこで知り合ったそうだが、頻繁に薬を買っては僕の体で人体実験していた。抵抗力や免疫力を高めるのが東洋医学の考えらしく、普段タバコを欠かさない僕には不向きであるが、彼女はいつしか超人的な免疫力を身につけた違いない。そこに、子ネコたちが身近にいる環境を作り、逆療法でアレルギーを克服したというのが僕の推理だ。もっとも、子ネコたちは保護してすぐに洗い、清潔にしていたからかもしれない。反応したのはネコというより、ネコに寄生する虫や埃に対してだったのかも。とにかく、ワイフはネコアレルギーを克服したが、誰もがこれで治るとは断言できない。
 さて、わが家にやってきたジムシーは見るからに弱々しく、よたよたと部屋を徘徊していた。少し便がやわいようで、尻が汚れている。このところ部屋を堂々と出入りしているハナミズも、僕の目の届く範囲では気にもかけていない様子だ。僕とワイフは、子ネコに手を煩わす心地よさをかみしめて、至福の数日を過ごした。
 Y岡夫妻はアクティブに世界中を駆け回っている。気がつくと南の島にいるような感じだ。彼らにとって一番の気掛かりは2匹のネコ。だが、今は預かって貰える場所を確保したのだ。思えばハナミズの子供たちを渡した時からそういう謀略をめぐらした訳ではなかったろうか。もっとも、そういう幸せな目論見であれば、僕もワイフも大歓迎である。

 後日、Y岡宅で再会したジムシーは、張りのある筋肉質な四肢の大ネコに成長していた。あの富士額がなければ分からなかったろう。

 

うるうるしてる

  きしめん

 ようやく落ち着いたワイフの言葉を再現すると、こういう事だ。窓から部屋へ上がってきたハナミズの口元には、あろう事かスズメがくわえられていた。まだかすかにスズメは動いている。咄嗟にスズメを奪い取ろうとしたが、それに驚いたハナミズは、首を強く噛んでとどめを差してしまったと言う訳だ。ワイフは、かつて実家でかわいがっていた小鳥を踏んで、ハゲをこしらえたトラウマがよみがえったに違いない。これはネコにはよく見られる行動で、信頼する者への土産とも、獲物を見せて力を誇示しているとも言われている。この当時、正しい知識を持ち合わせず、冷静さを失った事が小さな犠牲を生んだのだ。泣きながら庭にスズメを埋めるその横で、ハナミズはのん気に身繕いでもしてたいたに違いない。
 それにしてもノラの狩猟能力はすごい。紐などで遊んでやると、頭を低く下げてジッと飛びかかるチャンスを伺っている。持ち上げたお尻を振るのは、ダッシュするタイミングをはかっての事か?。産後の弛んだお腹を揺らして、2メートル程もあるブロック塀を一気に登る脚力もハンティングには不可欠だろう。先の欠けた片方の牙も、微かに裂けた耳の傷跡も、決してダテではないのだ。

 ハナミズが下痢をした。慌てて病院に担ぎこむが、原因がいま一つはっきりしない。妙なものを食べさせた覚えはないので、狩りで得た食料に問題があったのかもしれない。獣医師の診断は、寄生虫である。そういえば、里子に出した子ネコたちからも寄生虫が出たという。この厄介者の正体を突き止めるために先生は埼玉県からサンプルを取り寄せた。実は都内にサンプルがなかったのだ。つまり東京では極めて稀な寄生虫だったのである。僕らの知らないところで、ハナミズはどういう生活をしているのだろう…。先生の話では、カエルを食べたからではないかという。そういえば、駅のそばで20センチもある大きなカエルを見つけてビックリした事がある。高円寺の街は本当に侮れない。
 ハナミズを病院へ連れていったワイフは先生から例のサンプルを見せて貰った。瓶一杯に詰め込まれたそれは、まるで平打ちのうどんのようだったそうだ。その話を聞いて以来、僕は立ち食いそば屋でうどんを食べなくなった。
 それからウチではたっぷりのドライフードを用意する事にした。頻繁に病院に虫下しを貰いに行くのは不経済である。だが、この事が、追々大変な事態を起こそうとは、僕もワイフも知るよしもなかった。ハナミズは部屋で腹一杯ドライフードを食べて外に出て行く。これでひとまず心配ないと思った矢先、今度はトカゲをくわえて帰ってきたそうだ。

 

すずめ…

  お腹のひみつ

 僕らは時々、ハナミズの行動に驚かされる事がある。例えば、部屋から庭へ出たい時、網戸ぐらいは自分で開けて出ていく。引き戸の構造をちゃんと理解しているのだ。さすがにガラス窓を開けるには力がないが、ジッと僕らの目を見つめて催促する。人間の心理を見透かしているような鋭い目つきだ。あの目で見つめられれば言う事を聞かずにはいられない。それから教えもしないのに、ネコ用のトイレで用を足している。過去に使った経験があったのか、子ネコたちの匂いが残っていたからか定かではない。残念だが永遠のミステリーである。
 異変に気付いたのはワイフだった。ハナミズは何度もトイレを出入りし、りきむ表情が心なしか険しい。おしっこじたいたいした量がでていない。尿道結石か何かの症状だ。翌日病院に連れていく事にする。
 ハナミズは病院に行く事に抵抗しないので楽だ。いや、むしろ病院が好きだと思えるふしがある。肛門で検温しながらゴロゴロ喉を鳴らすその姿は変態そのものである。結局、ワイフの予想通りFUSと呼ばれる尿道の病気である。ハナミズは背中にコブが出来る程点滴を打たれた。実はこれが治療法。背中に出来たコブをゆっくりと揉みほぐし、薬を行き渡らせるのだそうだ。付き添い人参加型の楽しい治療で、ハナミズもご満悦のようだ。その日は療養食を貰って帰った。
 それまで与えていたドライフードは普通にスーパーなどで手に入る、コマーシャルなどで知名度の高い商品だった。もちろん、十分に水分を与えてあげれば問題はないというのだが、一度症状が出てしまうと、恐ろしくてそれまでのドライフードを買う気になれなかった。病院で貰った療養食は高価で、処方箋でも必要なのか、一般のペットショップの店頭には並んでいない。僕は中野でも特に有名なお店でようやく見つけ、そこで購入する事にした。むろん、高い値段がついている。それにしても、勝手にウチに来て勝手に居着いてしまったくせに、何と金の掛かるネコなのか。

 その後、食品添加物について調べたワイフによると、FUSはドライフードに含まれているマグネシウムが結晶化するのが原因らしい。普通のペットショップで手に入り、値段も妥当なドライフードを買い始めたのはそれから間もなくだった。それまで与えてきた療養食は、病気治療を目的としていて、体力の落ちたネコの為に高カロリーな内容である。ハナミズの見事な太鼓腹はその時なしたものである。いや、資質もあったろうが、彼女の大きく張ったお腹を見る度、僕はひどく責任を感じてしまう。ただ、彼女がそれ程に気にしていない事だけが救いである。

 

  サスペンスな午後

 大家さんは、まだ若いが高円寺界隈に数件のアパートを持っている。如何な理由でそれだけの物件を手にしたかは想像がつくが、割にマメで掃除や補修は自らやっている。物腰の柔らかい優しい人だ。だが、今は敵にまわしてしまった。庭に伸び放題の雑草を刈っているようだ。なぜ断定出来ないかというと、家の中には僕と一緒にハナミズがいる。まかり間違って見られようものなら大変な事だ。
 今のところハナミズはおとなしく僕に抱かれているが、そろそろ飽きてきたようだ。頻りと腕を逃れようと抵抗し始める。大家さんが庭で作業をしている間に、玄関から逃がす事も考えたが、若く美人の奥さんを連れて来ている事も有り得る。

 以前、ワイフが植えたヒマワリを刈り取られた事があった。ワイフはゴッホの絵にあるような放ったらかしな感じを出したくて、特別花壇を仕切っていなかった訳だから大家さんに責任はないのだが、ワイフの落胆を見かねて抗議の電話を入れると、すぐに、どこで手に入れたのか、大きなヒマワリを刈り上げられた庭に植えてくれたのである。大家さんの気遣いには頭が下がった。

 ハナミズはついに僕の腕を抜け出してしまった。ちょうど大家さんは部屋の前で電動草刈機を回している。僕は足音を忍ばせてハナミズを追い、抱きかかえてユニットバスに飛び込んだ。ここの小さな窓から、わずかに玄関の状況が見える。奥さんはいないようだ。ハナミズは小さな声だが抗議の声を上げている。今こそ玄関から放すか。いや、大家さんは手に危険な凶器を持っている。彼にとってネコはアパートの秩序を乱す敵だ。思い余って切り刻まれるかもしれない。今でこそ優しい顔をしているが、初対面の頃はいくらか危険な匂いをいくらか残していた。

 ワイフと物件を見にいった日、渋滞する青梅街道に待ち合わせて、やってきたのはポンティアックファイアーバードトランザム。僕らは、この皮張りのリアシートの乗せられて案内された訳だが、狭い新高円寺の住宅街を、大家さんはこの大きなアメリカ車を平気な顔で飛ばしていた。

 庭側の窓に、西陽がさし始めている。そろそろハナミズも限界に近いはずだ。僕の腕に抵抗する手足の爪の食い込み加減が違う。腕が酷く痛むが、まだ作業は続いていた。この部屋に棲み続ける限り、今後もこんな事が繰り返されるに違いない。しかも、大家さんはいつ現れるかなど予告もしない。すでに、僕と大家さんはいい関係を保てない。もちろん一方的に僕らが放棄したのだ。ようやく草刈機の音が止まった。撤収は即座に完了した事を窓から確認した。ようやく解放されたハナミズは、刈り上げられた庭に戸惑っていた。

 

みつこしでみたすこてぃっしゅふぉーるどのこねこ

ねぼけてあびしにあんのみみをかじってた

  嵐の夜逃げ

 東京という所のいいところは、欲しい情報が容易く手に入る事だ。例えば今回のようにネコと暮らせる部屋を探すにしても、ちゃんとそれ専門の業者がいるのだ。関東一円から情報を手繰り、条件にあう物件を探す。手数料は家賃1月分であった。高いか安いかは、利用者の切迫度によるだろう。
 それにしてもハナミズは大したネコである。ついには引っ越しまで決意させ、数十万に出費を強いた。それなのに知らん顔で、昼間っからベッドを独り占めしている。
 新居は、高円寺を遥かに遠く離れた都下、それも周囲に畑も広がる田舎街。家賃は上がり、通勤も辛くなるに違いない。だが、下見に来た時その環境に一目で気に入ってしまった。窓から緑の山なみを眺める生活は、退屈な都市生活を過ごしてきた身には刺激的だ。だが、それを手に入れるために散財した。貯金は底をつきて、引っ越しは自力で行うはめになった。幸いネコがらみのイベントなので、Y岡夫妻をうまく引き込む事が叶った。Y岡氏は以前引っ越し屋のバイトを経験しているので心強い限りだ。
 引っ越し当日に向け、準備は着々と進んだ。部屋に段ボールが散乱し、日増しに慌ただしさを増したが、ハナミズはこういった事に頓着しないので助かる。神経質なネコなら連日大騒ぎだろう。この準備に明け暮れ、数日はロクに電話や手紙を受ける時間を惜しんだ。そして、引っ越しの前日、不意に送られてきた電報に、僕は絶句した。何という事だ。僕の祖父が急逝したという内容だった。ようやく両親に電話がつながると、葬儀は明日だという。何としても参列したいが、引っ越しをキャンセルする余裕もなかった。ワイフやY岡夫妻に相談し、夜間に決行する事に決めたが、一つ問題が出てきた。物件を管理する不動産屋から待ったがかかったのだ。理由は火災保険。契約期間外に何かあっては困るというのだ。これは逆に、日付けをまたげば構わないと解釈した。実際には荷物の搬送までに予想以上の時間を要したので、結果的に予定の日付け、8月1日を回ってしまった。それにしても、夜の夜中に家具を運び出す姿は、近所の人にどう映ったのだろうか。
 トラックの足元にキャリーバックに収まったハナミズが積み込まれた。事態を分かっているのか、おとなしくしていた。全ての元凶が明日からの新生活に馴染めるのか不安だが、僕にはそれを確かめる事は出来ない。新居に荷物を運び込み、Y岡夫妻を自宅まで送ったその足で、僕は羽田に向かった。夏休みの混雑の中、葬式を理由に座席を確保し、飛行機は離陸、台風の上陸した九州へ向かった。まさしく、嵐の引っ越しとなったが、現地でも葬儀に洪水と大変だったようだ。僕は着陸出来ず上空を旋回し続ける飛行機の中で、束の間の休息をとった。

 

つづく
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