生き物の感覚とは不思議なもので、視覚による情報より聴覚や嗅覚による情報がに頼って行動するものも少なくない。そんな中でネコは比較的視覚に頼っている部分が大きいと思う。正面を向いて並んだ2つの目は立体視に都合がいい位置だ。それどころか黒目を細めたり、拡張する事で露出を調節する機能まで備えていて、人間のそれよりはるかに構造的に優れている。オートアイリスのみならず、微かな光を眼球のなかで増幅させて物体を認識する能力まで兼ね備えている。ただし、基本的に動態視力を重視した作りなので、詳細な情報は得られないかも知れない。スチールカメラの高感度フィルムは粒子が荒くクリアでないのと同じだ。ネコにそこまでの情報は必要ないのかも知れないし、聴覚や嗅覚といった人間より優れた機能を重ね合わせて、情報の収集が可能なのかも知れない。それはそれとして、この特殊な構造、機能のおかげでネコの目は実に美しく、夜に光って見えるのだ。
ここのところハナミズの目の輝きが気になっている。人でもネコでもまともに目を見れない訳だが、以前にはなかった光り方に、つい目が向いてしまうのだ。ミミゾウやポンちゃんのと比べてみたが、微かな緑色をおびた光を放っているように見える。ちなみにミミゾウたちの目を表現すると、吸い込まれるような深い闇の黒といった感じだ。
ハナミズを病院へ連れていった際、率直に先生に質問をぶつけてみた。先生も随行したワイフもそういえばといった感じで、特別気に掛けてはいなかったようだが、調べてみると確かに表面に細かい傷があるようだ。だが僕が危惧していた白内障にはいたってはいないと聞いて少し安心した。実は角膜が微かに白濁していてそれが光を乱反射させていると推理していたのだ。だが、いずれ目を患う可能性は高い。これを治療する方法はないのかも聞いてはみたが、今の所その技術は開発されていないそうだ。人間の白内障は手術で治せるそうなので、技術的には不可能ではないと思うのだが、手術にかかるネコへの負担を考えた場合に本当に必要な処置かどうか分からない。まして白内障にかかるのは老ネコがほとんどだろうから、経済的負担を考えても割にあわないという事かも知れない。問題はネコが残りの余生をどう幸福に生きていけるか、その一点だけだ。たとえ視力を失ったとしても人間との絆を深めて愛情に溢れた日々を送る事ができればそれはそれで幸せなのかもしれない。
ネコは以前より長く生きられるようになった。当然白内障のような老ネコに多い病気も増えてくる。こうなると、人もネコの病気と付き合っていく術を会得しなければならないのだ。
いつもネコたちの世話をお願いしている友人が、遠く北陸に越してしまった。九州に法事で帰るのだが、今回多少の出費は目をつぶってプロのペットシッターさんにお願いする事になった。動物病院に預けるのが一番安心なのは分かるが、ネコたちのストレスを考えると、あまり家から出したくないし、ウチのように固体数が多いと費用もばかにならない。これまでの経験から2日程度は留守にできる事は分かっているから、5日間の旅行なら3日目に1日だけ来てもらえばいい訳だ。現にこれまでそれでやってきたのだ。
事前の打ち合わせにシッターさんに来てもらった。ネコたちはいつも通りの反応だ。いつもフレンドリーなポンちゃんはスリスリすり寄って、ハナミズはクッションの上でふて寝だ。ミミゾウはいつもなら押し入れだの食器棚の後だの隠れてしまう、ところがその日はどういう風の吹き回しかお客様にあいさつするように出てきて、なんとお腹を見せて寝転がったのだ。ネコ好きの人は分かるのか、いつもの警戒心は微塵もない。まったく心を開いている。ミミゾウに変化があったのか、それともこれがプロのシッターの実力なのだろうか。どちらにせよ、ワイフが腹を痛めた唯一のネコであるミミゾウが僕ら以外のニンゲンになつくというのが何となく悔しく、少なからず嫉妬してしまった。
旅行中シッターさんからメールが届き、ネコたちの状況の報告を受けた。それによるとミミゾウはやはり臆する事もなくシッターさんと遊んでくれたようだ。これが虚偽の報告でない事は、彼女のホームページに載せられた写真でも証明できる。いったいミミゾウの身に何があったのだ。
そういえばミミゾウのヤツこのところ随分活発だ。何かといえばドタドタ部屋中を走り回っている。夜の夜中も構わずドタタタタ。朝は朝で、人一倍大きい声で缶詰を要求する。決まって朝の6時頃だ。せっかくの休みもあいつのおかげでゆっくりする事ができないのだ。最近のお気に入りの居場所は、パソコンデスク横のシステムラックの上だ。キーボードを置いたスライドテーブルに飛び乗りスキャナーを踏み台にしてMacにジャンプして、17インチCRTの上を横断して背丈程の棚の上にスルスルとよじ登っていくのだ。途中にあるキーボード、マウス、留守番電話、どれもただの踏み台でしかない。いつか派手に倒壊させてくれるかも、そう思っていたら、今度はテーブルに置いた郵便物や筆記具を床にぶちまけてくれた。ついでにポータブルCDプレイヤーを巻き込んで、お風呂で聞くためのケースが割れてしまった。まったくこの野郎は、と睨み付けると、悲しそうな大きい瞳がこっちを見つめていて、あっさり許してしまう自分が情けない…。
次から次へと体調を崩してくれるハナミズなのだが、今度は歯槽膿漏で食事がとれなくなった。かかりつけの病院に無理を言って、夜間に診てもらい、そのまま緊急入院、翌日に手術とあいなった。歯を失う事は歳を考えれば仕方のない事だが、大変なのは手術の後数週間後に始まった。また何も食べられなくなり、またしても病院に担ぎ込んだのだ。先生は歯茎が歯石をとった自身の歯を異物と判断して免疫機能が働いてると噛み砕いて分かり易く説明してくれたが、それでも僕の頭ではよく理解できなかった。分かったのは、これからは月に1度くらいは病院でステロイド剤を注射していかなければならないという事だった。だが、口の痛みが治まれば、ハナミズは何事もなく、最近ではハナ水もおさまり、かえって調子が良かった程だ。
それは連日残暑の厳しい9月の事だった。帰宅した時にはいつも通りくつろいでいるように見えたハナミズだが、先に帰ったワイフによるとまるで動かなくて気掛かりだというのだ。まるで食事をとらず、口元に持っていっても匂いすら嗅ごうともしない。体に触れると不快な声を上げるのだが、まったく抵抗できない。なにより立つ事が出来なかった。下半身が麻痺してるようにも見えたし、激痛を訴えているようにも見えた。素人考えで、何かの事故で足に怪我を負い、その痛みで食がすすまないのだろうと考えた。一晩様子を見て、改善する気配もないので朝一番で病院へ連れていくと、先生は意外な反応をした。動かせない足には興味を示さず、腹の張り具合を気に掛けていたのだ。先生の指摘で触れてみると、腹が異常に膨れていたのだ。レントゲンで見ると、腸には排泄物が溜ったままとなっていた。この数日、ハナミズがトイレに入ったかなど気にもしていなかったのだ。結局緊急入院となり、病院で排せつさせる事になったのだが、足の方は何の処置もしなくて大丈夫なのだろうか。便秘が下半身の麻痺に影響してるとはとても思えなかったのだ。
僕らは週末で面会できなくなる前に一旦ハナミズを引き取った。病院でもやはり食事をとらなかったらしい。それなら家で様子を見ても同じ事だと思ったのだが、何より狭い檻に閉じ込めておくストレスを取り除いてやりたかったのだ。
帰ってきたハナミズは、少しふらつきながらも自力で歩けるようになっていた。先生の見込どおりで、排便とともに回復してきたようだ。だが、相変わらず食事をとれないまま。缶詰のフードを一口二口食べて終わり、基礎代謝分のエネルギーも補充してないのは明らかだ。連日病院で点滴を打つ日が続き、そのつど体重をチェックするが、かつて4キロを超えていたのがみるみる3キロ程に減っていった。
ハナミズはプライドが高く、頭がよく、そしてきれい好きだ。少なくともトイレ以外の場所で粗相をした事はノラの頃を除いて一度もない。だからその日、トイレの縁がオシッコで汚れていたのはミミゾウかポンちゃんの仕業と思っていた。ところが、ハナミズが足をふらつかせながトイレに入るのを見ていると、腰が縁の内側に収まらず、尻がはみ出したまま尿を垂れ流した。もはや足腰の感覚がないのかも知れない。もちろんウンコは出てない。ハナミズは砂をかける仕草も見せず、また足をふらつかせながらクッションへと倒れこんだ。そんな弱々しい姿を見ながら、床まで流れた尿を拭き取っていると、不意に高慢で誇り高いかつての姿を思い出して悲しくなった。
「今度ばかりはダメなのか。果たして冬を乗り切る事ができるのか…」
僕はいつしかそんな事を考えるようになっていた。
そして体重はついに3キロを切った。ふくぶくとして、避妊手術後も妊娠してると間違えられた体型は見る影もなく、肋骨が浮き、中身のなくなった腹の皮だけが空しく垂れ下がっている。撫でた時の指に触れる背骨の感触は、まったく別のネコのものだ。骨を覆うものが皮以外なにも感じられなかった。とにかく、自力で少量の便を出すようになってからも症状は改善せず、痩せ衰えていくばかりだった。血液検査の結果も、特に悪い所が見られず先生も頭を傾ぐばかりだ。数値に出ない程度で腎機能が低下していると判断するよりなかった。
以前にあったような風邪の症状では?。こんな発想が沸き上がった。歯茎の痛みをとるステロイド剤は最後に打ってから日も浅いし、ハナが垂れないのは脱水の為かもしれない。どうせ免疫機能が落ちているのだ。一縷の望みを掛けてインターフェロンを打った。これは部分的に正解だったようだ。わずかながら症状が持直したようにように見えたのだ。自力で水を飲み、食事を欲しがるようになった。もっとも食べる量は微々たるものだが、彼女はまだ生きる気力は失っていない。だが、そんな素振りとは裏腹に、体重の減る状況にストップは掛からない。2.7キロ、2.6キロと計るごとに数値は下がり、ついに2.4キロ、ポンちゃんが家に来た頃と同じくらいになってしまった。
悲しいのは、ハナミズに栄養をとらせようと缶詰に切り替えたのに、肝心の彼女は微量しか食べられず、おこぼれを貰っていたミミゾウとポンちゃんが逆にウェイトを増やしている事だ。こんな悪循環をいつまでも続けている訳にはいかない。何らかの手を打つ必要があるのだが、それが何なのか皆目見当もつかなかった。
インターフェロンの効果も、僕とワイフを落胆させる結果に終わったと言っていいかもしれない。確かに症状は大幅に改善されたが、食事の量が増える事はなかった。ハナミズの体重は2.4キロから落ちこそしないが増えもしなかった。先生は休日返上で面倒を見てくれて感謝しているが、回復の兆しが見えない状態が続き、別の病院で診てもらおうかとも考える事もある。もっとも、病院を変えたところで回復する見込は薄く、それは僕自身よく分かっていた。
こうなってくると、あとは神頼みか、根拠の乏しい民間療法に頼るよりないのかもしれない。とは言え、ハナミズ自身には生きようという意欲は見受けられる以上、健康を取り戻す為の何かが、まるでジグソーパズルのパーツのように欠けているだけのような気がする。それは合理的な根拠にもとづいた何かの物質なのだろうが、プロフェッショナルである獣医の先生でも見つける事が出来ないのだ。
ワイフはここ1、2年ほどフラワーレメディなるものに傾倒している。以前からハーブを使ったアロマテラピーをやってはいた。僕は何度かモルモットにされたが、確かに効果はあった。香りで気分を落ち着かせたり、高揚させたりというのは理屈は分からないが全く理解できないという事ではない。人間の嗅覚器官にはそういったセンサーがあるのかも知れない。だが、花のエキスで体調を整えたり、体質を変えていくというのはどうにも難解だ。だから、どことなく半信半疑で、少なからず眉唾なイメージを持っていたのだ。そんなある朝、ハナミズに異変が起きた。それまで回復しないものの症状が落ち着いていたハナミズの首が動かなくなってしまった。神経の問題か、麻痺か痙攣か分からないが、首を持ち上げる事ができずに苦しんでいるのだ。僕にはどうする事もできず、オロオロするだけだった。ところが、ワイフがレスキューレメディと言う小瓶からとった液体を手にとり、首や背中を撫でると、不思議な事にハナミズは間もなく首の自由を取り戻した。偶然かと思ったが、その晩にも同じ事が起き、同じ処置で治す事ができたのだ。不思議な出来事だったが、生き物にはまだ科学で解明されてない機能が隠されているのかも知れない。
その後、ハナミズの行動を観察した結果、また歯茎が痛むのだろうと判断し、病院でステロイド剤を注射してもらった。インターフェロンとの効果とあわせて、何とか食事の量が増えてきた。時には物足りないのかドライフードも食べているようだ。相変わらず脱水症状は続いているものの、ひとまず安心である。だが、予断は許さない状態は続いているのだ。
食欲のないハナミズの為に色々と骨折っている訳だが、一向に改善するようすはない。それでもわずかばかり口にするからには諦める訳にはいかないのだ。だが、ここで大変な問題が起きてしまった。食がすすめばと思って缶詰に変え、さらにおかかをかけた贅沢なメニューを用意したのだが、これがミミゾウとポンちゃんの食欲を刺激しない訳はなかった。案の定ハナミズの食べ残しを平らげ、こういう事が頻繁に続いたために朝晩3人に缶詰をあげるのが習慣になってしまった。
まず朝はポンちゃんの悲鳴のような声で起され、それに気付いたミミゾウがかすれるような声で催促する。夜、家に帰った時も同じだ。特にポンちゃんはかなり食い意地がはっている。身体中で空腹を表現している。すぐに食べさせないと怒るぞ、そんな勢いなのだ。ところが肝心かなめのハナミズは皿に大量に残したまま立ち去ってしまうので、早く片付けないとハイエナたちの餌となってしまうのだ。しかもミミゾウは気が弱くて、押しの強いポンちゃんに負けてしまい、気が付くと自分が食べている皿に頭を突っ込まれている有り様だ。で結果、ポンちゃんのお腹に貫禄が出てしまった。
缶詰のキャットフードはどうしても単価が高い。そして安価で栄養のバランスにすぐれ、歯垢のつきにくいいい事づくめのドライフードばかり消費量が激減してしまった。ウチのドライフードはウェイトコントロール用の低カロリータイプ。本当はこれを食べてほしいのに、ハナミズがあんな状態ではウェットをあげない訳にはいかない。なにかいい手はないものか色々考えてみた。
夕刻、晩飯の仕度をしようとキッチンに立つと、例によってポンちゃんが足元に絡み付いてきた。冗談じゃない、こっちだって腹が減ってるのに。床を這う白い毛玉は縦横の比率が以前と大きく変わっている。上から見ると一目瞭然だ。餌場に駆け寄り、皿に余っているドライフードをわし掴みにして、新しい皿に盛ってそこに缶詰を開けた。そうこうやってるうちにミミゾウも寄ってきて、足元で催促の声を上げ始めた。ハナミズの分は取り分けて、ドライとウェットをスプーンで混ぜた。そして取り分けた分には病院で買った高カロリータイプの療養食を混ぜた。その間にもミミゾウとポンちゃんの催促はエスカレートしていく。それを足で払いながらやっと3皿を混ぜ終えた。
3人ともそれぞれ口にして、半分程残した。想像通りミミゾウとポンちゃんはドライの部分を残しているが、一応は満足そうだ。ダイエットさせる目的にはかなっているという判断で、ドローというところだろうか。そしてハナミズも摂取カロリーは微妙に増やす事ができた。本当に微妙にだ。まったく先が思いやられる…。
ハナミズの診察を待合室で待っていると、突然入り口から激しい音がした。驚いて振り向くと、大型犬がガラスのドアに激突していたのだ。特にケガはないようだが、音の大きさから考えて相当の衝撃だったろう。だがイヌは激しく尻尾を振って中に入りたそうにドアを何度も叩いた。見かねた先生が診察室から出てくると、狂ったように喜びの声を上げてちぎれんばかりに尻尾を振った。正直言って驚いた。イヌもネコも、だいたい病院は嫌いで、嫌な注射を打たれたくないし、注射を打つ先生は嫌いなんだろうと思っていた。ところが先生が大好きで、よろこんで病院にやってくるようなヤツもいるのだ。
この先生はこんな郊外の街に小さな病院を開業してる若い獣医師だが、地域の人たちに信頼され、いつ行っても人の絶える事はない。人間はもちろん治療に来た動物たちにも愛されているとは、獣医師名利につきるのではないだろうか。実際ネコとの接し方も、なるべくストレスを与えず、絶えず声を掛けて遊んであげるように診察をしているようだ。そして優しいだけじゃない。たまの休日にも急患を診て、休み返上で働いているタフマンなのだ。このところ毎日通っているが、小さな病院なので、先生にはまったく休みはない。プライベートな時間も、入院している患者の世話もあれば、三宅島避難島民の人たちが連れてきた動物たちの世話までしている。もはや仕事の同一線上にこの先生の生活はあるようだ。僕らとは違う次元で、深く動物たちを愛しているのだ。1人2人の世話で根を上げているような僕には絶対にまねが出来ないだろう。なによりも、動物たちからも好かれるあの才能が羨ましくてたまらない。
そんな先生の評判を聞き付けて多くの人がイヌネコ、時にはハムスターなんて連れて来るので待合室はいつも賑やかだ。場所柄大型犬も少なくない。ゴールデンとラブラドールレトリーバーや、シベリアンハスキー、バセットハウンドなんて愛嬌のあるヤツもやってくる。今は流行りなのか、シーズー、ウェルシュコーギー、ダックスフントロングヘアなどが多いだろうか。話を聞くと、1日4時間は運動させるというコーギーの子もいる。イヌと暮らすのも大変だ。
ベンチでボーっと順番を待っていると、隣からブーブーと鼻を鳴らす声が聞こえてきた。隣の女性が抱いているシーズーが発している音だ。風邪でもひいているのかと思ったら、その子は病院が嫌いで、こういう抗議の声を上げているのだそうだ。少しホッとした。
ハナミズときたら、今回の症状に限らずこれまで何度ももうダメかと僕らを悲しませる状況に陥っては、その都度奇跡の生還を果たしてきた。だから、いつしか不死身だったり、妖怪だったんじゃないかと考えるようになっていたのだ。そのうち尻尾も二つにわかれて人語を喋るのも時間の問題だとも思っていた。だが、今回はさすがに9つ目の命を燃やし尽くそうかとしているような気がする。日増しに弱っていくハナミズの姿を見ていると、ねこまたという妖怪は実は古の愛猫家が産み出した願望の産物だと言う気がしてくるのだ。愛するものが永遠の命を得る事、たとえ妖怪だとしても、自然の摂理に逆らうものだとしても、それは願わずにはいられない必然の願いなのだ。
ハナミズの体重は2.2キロまで落ちた。全盛期の半分近くになっていた。ここ数日は自力で食事をとれず、注射器を使って口にペーストを流し込んでいる。点滴は毎日だ。病院に通うためにワイフは最近車の運転を恐れなくなった。
ハナミズの、二周りも小さくなった体は軽く、抱き上げるのに苦労はない。それでも口に無理矢理注射器を突っ込まれ、フォアグラをとるアヒルのようにキャットフードを押し込まれるのは苦痛なのだろう。手足を突っ張って抵抗するのだ。だが、その力強さが僕らを彼女の延命にかき立てているのだ。抵抗する力までも失えば回復の見込は薄く、これ以上無理強いしたくないと思うに違いない。まだまだ余力を残している以上、回復させる為にベストを尽くしたい。そして、彼女に流動食を与える毎に、僕には不思議な感情が沸き上がるのだ。
僕らは彼女の子供の頃を知らない。恐らくその時期はあったはずだが、その時間を取り戻す事は永遠に不可能だ。疑似体験としては、彼女の4人の子供たちを一時保護した事があった。あの時はアパートの一室で、あばれ回る子猫たちに翻弄されながら、同時に里親を探すという大変な日々だった。確かに大変だったが、間違いなく満たされた幸福の日々でもあった。あの至福の時間は2度と戻らないし、ましてハナミズとそういう時間を共有する事もない。彼女は家に来た時にはすでに大人で、僕ら以上に人生を経験していた。あの鋭い目つきは生きる為の厳しさとすべてを悟った果てのものだった。その彼女が今、授乳期の子ネコのように僕らの世話で生きている。ハナミズは歳を経て、今あらためて僕らの子供となったのかもしれない。もしくはそれを演じている事が、彼女の本当の優しさなのかもしれない。なにせ彼女はねこまたなのだから、人間のような感情は持ち合わせていない訳がない。
クソッ!、残業だ。やっとの事で家に帰り着いたら、駐車場の車輪止めに足を引っ掛けて転んだ。右足の太ももと脇腹をコンクリの車輪止めに強く打ちつけて激しい痛みが走った。でかい痣ができていた。ダウンジャケットを着ていなければ、肋骨の一本も折ったかも知れない。
翌日も残業になった。相模線の小さな駅まで急いだが、すでに電車は出た後だ。次の電車まで40分も待たなけりゃならない。切符を買うのを思いとどまって、バス停を見回したら、横浜線の駅まで出るバスが止まっている。迷わず飛び乗った。だが、その運転手が運賃表の切り替えを間違えたらしい。駅に着いたのに、運転手は乗客に乗ってきたバス停を1人づつ確認していた為にずらりと列を作った。おかげで電車に乗り遅れて、結局相模線とほぼ同じ時間に橋本に着いてしまった。
今の僕は少しでも長い時間をハナミズと一緒にいたいのに、そんな時に限ってこのザマだ。いや、時間だけじゃない。年末に向けて何かと支出の多いこの時期に、ハナミズの治療費に激しく出費を強いられていた。というのも、ここ一月は点滴の為に毎日休みなく病院に通い、一度の治療には約2500円を要した。もちろん治療は点滴に限らず、時には抗生物質やステロイド剤、インターフェロンをも投与し、フードも高カロリーな療養食を特別に買った。口にフードを押し込むための注射器、これなんかは安いものだったが、部屋は24時間暖房をかけた。光熱費がいったいどのくらいになっているのだろうか。
そこまでやってあげても回復するどころかかえって衰弱している有り様だ。ついには入院となり、1日の費用が5000円にはね上がった。
気持ちが荒んできているのが自分でも分かる。かけがえのないものを守る為に、痛みをともなうのは仕方のない事だと、自分自身に言い聞かせるしかない。そうしないと、僕自身の奥底に巣食っている悪魔の誘惑に負けてしまいそうになる。いや、実は自分でも分かっているのだ。ハナミズの命が惜しいのではない、そうやって自虐的に尽くしている自分自身の自己満足に過ぎないという事は。むしろ、早く死んでしまえば楽になるし、このエッセイのネタにもなる。そんな気持ちがまったくないと言えばそれは嘘であり、偽善なのだ。ああ、なんて事だ、こんな気持ちを抱いては、すぐに後悔してしまう。なんて弱い人間なのだ。
家にハナミズのいない夜が続き、それでも不意に彼女を探してしまう。ワイフも無意識にその名を呼んでいる。こんな日々がいったい、いつまで続くのだろうか…。
つづく
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