「えっ、丸山定夫って、まだ生きとるの?」
移動演劇さくら隊や園井恵子について、わたしが電話で話していたのを聞きつけた今年92歳になる義母が、丸山定夫は、と言い出したのには驚いた。
「築地小劇場の丸山でしょう。御園座へ築地小劇場が来たときに、観たんだわ」
なんという不覚、わたしは築地小劇場が、名古屋の御園座に公演に来る、という発想ができなかった。生き証人は偉いなあ。
[後日『御園座百年史』をあたったところ、大正15年10月に築地小劇場公演があり、丸山定夫の名前もある。
以後昭和11年まで、築地小劇場、新築地劇団、すわらじ劇園(新築地劇団丸山らも参加)など7回来演した記録がある]
「お義母さん、園井恵子は知ってる?」
「宝塚歌劇の、でしょう。可愛らしい感じの人だったよ」
「丸山定夫は園井恵子と一緒に原爆で亡くなったんですよ。しかも8月6日は園井恵子の誕生日だったの」
「まあ、そうかね。知らなんだがね」
もし、生きていたら、丸山は105歳、園井は義母と同じ92歳という計算になる。
さくら隊も丸山も園井も、初めて聞く名前だけれど、現に生きている義母と同時代の人だとわかったとたんに、親しみが湧いた。
まだ、現在は戦後なのだ。
いや、未来から見たら、ひょっとして現在は、戦前かもしれない。
舞台は昭和20年5月、原爆投下前の広島。紙屋町ホテルに移動演劇さくら隊が投宿している。
さくら隊は実在し、丸山定夫も園井恵子も実在した。
そこへ演劇隊員として言語学の大学教師大島が加わる。日本が滅びるとき、日本語も、日本語を話す人間も絶えるから、全国各地の方言を調査し、後世にのこしたいという大島。ピアノを弾きたいという玲子。
紙屋町ホテルの女経営者神宮淳子と熊田正子も加わって、ホテルはそのまま演劇隊の練習場になっている。
ここまでのメンバーなら、和気あいあいといった雰囲気の練習になったはずだが、そうは問屋が、いや、井上ひさしが卸さない。
富山の薬売りに変装した海軍大将長谷川が、宿をもとめてやってくる。
彼は天皇の密使として全国を調査し回っていた。陸軍の本土決戦の進捗状況を探ること、それが密命だった。
ところが、本土決戦の準備など何ひとつできていないことを天皇に報告されては困る、という陸軍側。場合によっては長谷川を刺せ、との命を受けて、陸軍中佐針生が長谷川を尾行してきている。
紙屋町さくらホテルは、移動演劇隊の宿だから、一般客は泊めない。ただし、さくら隊に入隊するなら大歓迎。
長谷川も針生も入隊を条件に宿泊することになる。
さらに、特高の刑事戸倉がやってくる。
ホテルの女主人神宮淳子はアメリカ生まれの二世である。アメリカ国籍の淳子はスパイ活動の可能性のある敵性外国人だ。特高戸倉は彼女を密着監視せねばならない。
ところが……。
これはいいところへやってきた。さくら隊は『無法松の一生』をやるんだが、そのなかの名場面がどうしても一人足りない。あなた舞台に立ちませんか。
というわけで、威張りちらしていた特高戸倉を強引にさくら隊に引き入れてしまう。
珍妙な劇中劇稽古のはじまりだ。
国土は疲弊し、敗戦色濃いなか、厳しい統制下で、演劇を愛し懸命に生きた人々。暗澹たる外界とは対照的に、さくらホテルの中はあかるく暖かい夢のような場所だった。
神宮淳子は言う。
「『すみれの花咲く頃』のコーラスをしたとき、突然、世界がちがって見えたんです。なんていい気分なんだろう、わたしはいま、一人ではできないことをしている、一人の人間の力をはるかに超えたなにか大きなもの、なにか豊かなもの、なにかたのしいもの、それを望んで、それをたしかに手に入れている」
移動演劇さくら隊
昭和16年大政翼賛会のもと、劇団を国家の統制下におくため、日本移動演劇連盟がつくられた。
昭和17年、丸山定夫、徳川夢声などが苦楽座を設立。園井恵子も加わり、後に丸山の率いる移動演劇連盟さくら隊として各地を巡演した。
昭和20年8月6日、爆心地から750mの堀川町の宿舎で被爆。居合わせたメンバー9名のうち5名が倒壊した宿舎の下敷きになり即日死亡。丸山、園井ら4名は爆風で庭に飛ばされ、原爆症に苦しみながら10数日後に相次いで死亡。
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最終更新日 2007/01/05