名演2006年7月例会 関西芸術座公演
原作/妹尾河童 脚色/堀江安夫 演出/鈴木完一郎
妹尾肇は、海や山で囲まれた神戸の町で毎日忙しく遊びまわっている。胸に大きく“H”と編み込んだセーターを着ていたので、友達から“H”と呼ばれている。
洋服仕立て職人の父と、熱心なキリスト教徒の母という、ちょっと変った家庭に育ったHは、自由奔放で好奇心と正義感が人一倍旺盛。持ち前の好奇心で、いろいろな事件をおこしていく。
時代と共に、周囲でさまざまな出来事が起こっていく。いつもHにレコードを聞かせてくれたうどん屋のお兄ちゃんが特高に捕まったり、オトコ姉ちゃんが兵役から逃げて首を吊ってしまったり。世の中は一気に戦争色が強くなっていく。そして神戸も大空襲を受け、焼け野原となる。矛盾だらけの世聞に、「この戦争はヘンや」とHは怒りはじめる…7月13日(木)6時45分
14日(金)1時30分
6時30分
名古屋市民会館中ホール
地図
解説
キャスト・スタッフ
配役
関連サイトリンク会費 月額一般 2600円 22歳以下 2000円
高校生以下 1300円
入会金 一般 2900円 22歳以下 2300円
高校生以下 1600円
新入会の方は、会費と入会金が必要です。それ以外の入場料は必要ありません。 くわしい名演の入会方法はこちら日程申込フォームはこちら(会員専用) 関西芸術座代表・柾木年子さんのお話 6月12日 名演にて
柾木さんに作品の魅力について語っていただきました。
こちらをクリックしてください。
『少年H』の作者は1930年生れ、私は1934年生れであるので、戦争時代は作者が小学校から中学校時代に対して小学校(国民学校)時代であった。従って、作者との戦争体験の差は中学での軍事教練を除けば大半は共通であり、この芝居は昔日を彷彿させながら観ることであろう。 真珠湾攻撃で火蓋を切った開戦の翌年、小学校1年の担任の先生が召集をうけ、同級生と見送りに行ったことが、戦争との最初の出会いである。軍服姿の先生を見て、恰好いいなあと思った。先生の家族にとっても、まだそんなに悲壮感もなく余裕が漂っていたように記憶している。
当初は連戦連勝のニュースで○○陥落、△△陥落で熱狂した。当時、子供にとっての楽しみは、○○陥落で紅白の饅頭が貰えたことだった。甘いものに目のない子供には名古屋で戦前から盛んであった隣組のお茶会で出る羊羹は垂涎の的であった。よく憶えていることは、シンガポール陥落で饅頭がでると噂が立ち、友達と話ながら心待ちにしていたが、陥落しても支給されず、口惜しい思いをしたことである。
緒戦の勢いも衰え、シンガポール陥落を境にして、次第に形勢不利な状態に転じたのではないかと思う。アッツ島玉砕をはじめ、玉砕という報道が頭に残っている。
『少年H』の時代の年表を見ると、回線の翌年に米陸軍機、東京、名古屋、神戸空襲と書いてあるが、私が最初の敵機に遭遇したのはこの年であったか定かではないが、搭乗者の顔が見えるくらいの超低空飛行の敵機であった。近所の子供達と一緒に手を振って歓迎?さぞ搭乗者も驚いたことであろう。飛行機をみた時は敵とは知らなかった。後で迷い込んできた敵機だということを知った。
山本五十六元帥の戦死とともに日本海軍の壊滅、外地での玉砕、撤退が続き、戦況の不利が明らかになるにつれ、本土攻撃が現実化してきて、子供にとって最も辛かった疎開が始まる。敗戦の前年から集団疎開がすすめられ美濃町のお寺への移動が始まった。私は縁故疎開組であったので、親戚への疎開であったが、わが家では、姉が世話役で小さい妹、弟を連れて、美濃町の叔父の家へ行くことになった。幼い妹、弟達は何もわからないまま、不安、淋しさ一杯であったろうが、母は身を切られるような思いであったろうと思う。
その後、父と私は所帯道具?など満載したリヤカーを自転車で引いて名古屋から美濃町まで荷物を運んだ。犬山を通って鵜沼を過ぎた頃から雪道となり、私はリヤカーの後から押して前へ進んだ。鵜沼から関までリヤカーを押しながら歩き通しであった。疲れたという感覚はなく、必死で押し続けた、関へ着いた時、父は私を不憫に思ったのであろう。ここ迄来たらもう大丈夫だから電車で先へ行ってなさいと言われ、後髪をひかれる思いで電車に乗った。しかしながら予定時間を過ぎても表れず、通常の2〜3倍の時間をかけてようやく到着した。ほっとした気持ちとともに、憔悴した父の姿をみて、何故先に帰ってしまったのかと悔やんだことを忘れることができない。
私はどういう事情があったか知らないが、敗戦の年の3月まで名古屋に残り、名古屋の空襲を経験することになった。毎晩いつでも飛び出せる衣服を着たまま、枕元に防空頭巾と非常袋を置いて寝た。警戒警報のサイレンが響くと、機械仕掛けの人形のように飛び起きて、防空壕へ避難した。ある晩、警戒警報でも両親は起きる気配がなく、何故今晩は起きないのかと思っている内に、空襲警報となり、同時くらいにB29の爆音とともに比較的近くへの爆撃が始まった。両親とあわてふためいて防空壕へ転がった苦い経験もあった。あの時わが家の附近が爆撃の対象となっていたならば、一家全滅となっていたであろう。
空襲のときは私と母だけで、父は消防団でいないことが多かった。当時は男性中心の社会であったので、国民学校5年生の私でも、父の代役のような気概をもって留守を守った。幸いわが家は火災をまぬがれたが、つい200〜300m先の商店街が炎に包まれたときには、流れ焼夷弾が数発落ち、懸命にふとんや砂で消したこともあった。父の消防団の仲間で、焼夷弾の直撃をうけ死んだ人もあった。空襲中はこわいという感覚はなく無我夢中で行動、生死を分けるのは時の運命としか言いようがなかった。
私が疎開したのは敗戦の年の3月末であった。先発した姉達と一緒に美濃町で生活することになった。食糧難で食べ盛りの年頃、ひもじい思いもしたが食糧の逼迫は敗戦の方がひどかったように思う。学校では都会から疎開してきたのはクラスで1割足らず、地元の子どものいじめの対象になった。多勢に無勢で如何ともしがたく、口惜しくもあり辛いことであった。疎開中故郷で親が死んだ子もあり、それに比べればはるかにましであった、疎開生活は6ヶ月足らず、姉達より先んじて8月下旬名古屋に戻った。
お芝居では少年Hがこの戦争はおかしいと感じていたようだが、わが家でも父はどこから情報を入れてくるのか、本人の直感なのか、この戦争は負けると話していた。母は心配そうに、絶対口外厳禁だよと注意した。口にこそ出さなかったが、この戦争は少しヘンだとか、敗けるのではないかと大人でも感じていたのではないだろうか。そのためか、私は美濃町で聞いたいわゆる玉音放送で戦争に負けたことを知っても何の感慨もなくやはり父の言っていた通りにな
ったと思っただけであった。
いま子供時代の戦争体験を思い出して考えることは、戦争はあらゆるものを奪ってしまう、笑ったり泣いたりする感情さへも奪ってしまうこと、それと戦争は国を守っても庶民は守ってくれない、勝っても負けても、死の商人は潤っても犠牲になるのは大半庶民であることである。
戦争体験のある人ない人、戦争を肯定する人、否定する人、それぞれの立場で『少年H』を観て「戦争」について改めて考えてみる、いい機会ではないかと思う。(A14−06 Y・K)
妹尾盛夫
|
門田 裕
|
敏子
|
鴻池 央子
|
肇(通称H)
|
梶山 文哉
|
好子 |
村崎 由佳
|
治三郎 | 金谷 克海 |
シゲさん | 城土井大智 |
山田 | 酒元 信行 |
須貝美智子 | 岩村 春花 |
煙草屋のお婆ちゃん | 梅田 千絵 |
同級生1 | 増田 宏之 |
同級生2 | 城土井大智 |
田森教官 | 金谷 克海 |
神戸二中生徒1 | 増田 宏之 |
神戸二中生徒2 | 城土井大智 |
雑炊食堂の女主人 | 梅田 千絵 |
ラジオの声 | 村上 かず |
<スタッフ>
原 作 |
妹尾 河童 |
脚 色 |
堀江 安夫 |
演 出 | |
装 置 |
柴田 秀子 |
照 明 |
福井 邦夫 |
音 楽 |
|
音 響 |
須川 由樹 |
衣 裳 |
中川 文 |
小道具 |
坂本真貴乃 |
演出助手 | 大井 敦代 |
舞台監督 |
辻村 孝厚 |
制 作 | 柾木 年子 |
宮崎恵美子 |
このページの最初にもどる
名演ウェブ トップページにもどる
最終更新日 2006/07/01