No.4 『素晴らしき哉、人生!』
(“IT'S A WONDERFUL LIFE”)

 今回は、私の一番好きなクリスマスムービーである『素晴らしき哉、人生』(すばらしき「かな」と読みます。念の為)について書きます。年末になると必ず観たくなる映画が何本かあり、私の場合は’46年のこの作品や、翌年の『三十四丁目の奇蹟』、クリスマスを過ぎた頃ですと『アパートの鍵貸します』、といったところです。
 監督のフランク・キャプラは、’30〜’40年代に多くの傑作を撮った、古き良き時代のアメリカ映画を代表する監督の1人です。元々はイタリア系の移民ですが、言わば一種のアメリカンドリームを映画界で体現した人で、終生「アメリカ」に対して感謝の念を持ち続けていたように思います。キャプラの映画に多く見られた「貧しくても真面目にやっていればきっと何とかなる」的な、ややもすれば気恥ずかしくなるようなテーマがあれほどの説得力、そして力強さを持っていたのは、何よりもキャプラ自身が「アメリカンドリーム」を心から信じていたからだと思います。
 この作品は、フィリップ・ヴァン・ドーレン・スターンの原作からフランシス・グッドリッチ、アルバート・ハケットとキャプラが脚色し、ジョー・スワーリングが追加台詞を執筆したものです。音楽は当時のキャプラ作品の常連ディミトリ・ティオムキン。
 クリスマスの夜、ある町に住むジョージ(ジェームズ・スチュワート)という男が自殺しそうだという場面から、この映画は始まります。ジョージは子供の時から世界中を旅して回る事を夢見てましたが、住宅金融会社を経営する父が急死した為に悪徳事業家ポッター(ライオネル・バリモア)に会社をつぶされぬよう、大学もあきらめて社長を継ぎます。そして幼なじみのメアリー(ドナ・リード)と結婚し、貧しい人達に住宅を与える事に身を粉にして尽くします。
 しかし彼が自分に屈しないのが面白くないポッターは、ジョージの叔父ビリー(トーマス・ミッチェル)が読みかけの新聞と一緒にうっかり渡してしまった八千ドルをネコババしてしまい、その為にジョージかビリーが責任を取らねばならぬ事になります。何故自分ばかりがこんな貧乏クジをという絶望感から、ジョージは自殺しようと考えたのです。橋の上からジョージは川に身を投げますが、そこに現われたのはまだ翼がもらえない、二級天使のクラレンス(ヘンリー・トラヴァース)でした・・・。そして最後に奇跡が起ります。
 約130分のこの映画の殆どは、天使の派遣を決めた神様達が、クラレンスにジョージのこれまでの生い立ちを説明する形で、様々なエピソードが描かれます。こう書くとえらくかったるい映画のように思われるかも知れませんが、語り口が上手いというのか、観ている間はそんな事は感じません。逆にこれらのエピソードの全てが最後の奇跡の場面に集約され、私は何度観てもこの最後の場面で泣いてしまいます。毎年ビデオで観終わった後に、また少し巻き戻してはまた泣いてというような事を、5〜6回繰り返し・・・いかん、思い出すだけでまた泣けてきた。
(中断)
 失礼しました。という訳で何を書いているのか分からなくなってきましたが、未見の方はぜひ一度ご覧下さい。大きなレンタル店には置いてありますし、ここ数年ではBSでもクリスマスの時期に放送される事が多くなっています。アメリカでは、クリスマスの頃になるとTVで繰り返し放送されるのが、この『素晴らしき哉、人生!』と『三十四丁目の奇蹟』です。
 大ヒットした『ホーム・アローン』では、家族が出発する前にTVで流れているのが『三十四丁目・・・』ですし、旅行先のフランスのホテルでTVをつけると、フランス語の吹き替えでこの『素晴らしき哉・・・』が出てきました。つまり、『ホーム・アローン』はこの2つのクリスマスムービーに対するオマージュだった訳です。というよりも、今考えると製作者のジョン・ヒューズは、’90年代のフランク・キャプラになりたかったのだなという気がします(失敗してしまいましたが)。
 『ホーム・アローン』は、作品的にはあまり評価されなかったように思います。しかしその評の多くは「あまりにもマンガだ」的論調のものが多く、大体コメディにマンガだといって文句をつける事自体どうかとも思いますが、例えばこんな事を書いたライターがいました。「いくらマンガとはいえ、今時アメリカ映画で黒人やホームレスが1人も出てこないなんて」と。この人達には、まず今のアメリカで「古き良き時代のアメリカ映画」 のような作品を作ろうとするならば、もはやマンガのような形にするしか方法がない、という視点が欠如しています。
 確かに今時のアメリカ映画で上記のような事を無視するのは出来ません。では「古き良き時代」はどうだったかというと、例えば黒人は、人種差別という全く違う理由で登場してきません。ある意味では、あの時代のシンプルで力強いストーリーは、(余計なサブストーリーを考えなくても済む)白人優位社会の産物だったと言えなくもありません。
 では、『ホーム・アローン』はその点をどうしたか。この映画の舞台はシカゴの郊外です。工業都市のシカゴでは、比較的裕福な白人層が街から少し離れた所に住居を構え、そこが一種の白人居住区のようになっています。『ホーム・アローン』はそこが舞台なので、黒人もホームレスも出てこないのが当り前の設定にしてあるのです。また寒冷地ですから夜中に玄関先に水をまけばすぐに凍ってしまうような場所だという事も、日本で言えば北海道の内陸部のようなもので、充分な説得力を持ちます。
 『ホーム・アローン』は確かに「マンガ」のような映画ですが、今時は「マンガ」にも最低限のリアリティーは必要な訳で、この映画はちゃんとその部分を確保した上で作られています。ですからコメディとしての技術評であるならともかく、先に書いたような理由でこの映画の評価を下してしまうのは、あまりにも不勉強なのではないか、と当時感じておりました。クリスマスソングの使い方について言えば、オリジナルを使えたシーンと、そうではないシーンの効果の落差がはっきりしすぎていたように思いました。
 話がかなり脱線しましたが、『素晴らしき哉、人生!』はアメリカで45周年記念、50周年記念のビデオが出たりと、これからもずっと愛されていく傑作です。「古い映画はかったるい」などと言わずにぜひどうぞ。本当はレイトショーでもいいから映画館で年末に1週間位やってくれるといいんだけど。あ、でも泣くからヤバイかな。
おわり
(追加)これを書いた後で気になった事があり、確認してみました。それは『グレムリン』のタイトルバックのシーンですが、あれは『素晴らしき哉、人生!』の終盤、J・スチュワートが「メリー・クリスマス!」と叫びながらベッドフォード・フォールズの町を走り抜ける場面、昼と夜の違いはありますが明らかにあそこの再現ですね。そう言えば『グレムリン』の舞台となる町は、キングストン・フォールズ。これだってそうですよね。
 それにしても『グレムリン』を初めて映画館で観た時(初日のオールナイトでした)、タイトルバックでダーレン・ラヴのあの曲が鳴り響いたのには、驚いたというより何だか訳が分らなくなりました。音楽はジャック・ニッチェ(この頃は映画の仕事が多かった)なの?と思いましたがジェリー・ゴールドスミスなので、私の知る限りこの人はここにこういう曲を持ってくるセンスはないはずだが・・・等、頭の中がグルグル回りながらも、まるで人工雪の世界のような画面を観てとにかく感激したのを覚えています。
 映画としては正直に言って、見所はこの場面だけだったかもしれません。しかし続編の『グレムリン2』の方は、よくもまあ、これだけのバジェットを使って、まるで自主映画のような趣味趣味映画を作らせてもらえたもんだ、という程の怪作で、正にオトナのための「マンガ」でした。エンドロールでチャック・ジョーンズが全開になるに至っては、思わず「ジョー・ダンテ君えらい!」とホメてあげたくなりました。後半殆ど『素晴らしき哉、人生!』とは関係ない文章になりました。すみません。
(’99.11.8 加筆)
再度おわり


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