特別史跡 金井沢碑

所在地 高崎市山名町字金井沢二三三四
指定年月日 大正十一年五月二十三日

 上野三碑の一つであるこの碑は、江戸時代中ごろ土中から発見され、農家の庭先で洗濯石(きぬた)として使われていたが、 不幸が続いたので現在の地へ移し祭られたといわれている。したがって、出土地、出土状況ははっきりわかっていない。
 碑文は、輝石安山岩の自然石に、楷体の薬研彫(やげんぼり)で百十一字を九行に刻んである。
 この碑は、聖武天皇の神亀三年(西暦七二六年)に上野国群馬郡下賛郷(高崎市下佐野)の屯倉 (天皇の料地をあずかる役人)の子孫が先祖と現在の父母の菩堤のために宗団を作り、仏に供養
した旨を刻んだものである。
 国分寺建立の詔が発せられる十五年前のことであり、民間の仏教信仰を知る貴重なものである。

碑文
上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子孫為七世父母現在父母
現在侍家刀自池田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次蹄(※)刀自次乙蹄(※)
刀自合六口又知識所結人三家毛人
次知号万呂鍛礒ァ君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文

        神亀三年丙寅二月廿九日
読み方
上野(かみつけぬ)の国群馬(くるま)の郡下賛(しもさぬ)の郷高田の三家(みやけ)の子孫、 七世の父母現在の父母の為に、現在侍る家刀自(いえとじ)、池田君目頬(めずら)刀自、また児加那(かな)刀自、 孫物部(もののべ)の君午足、次に蹄(※)刀自、次に乙(おと)蹄(※)刀自、合せて六口(むたり)、 また知識(ほとけ)に結べる人三家の毛人(えみし)、次に知万呂(ちまろ)、鍛師礒(かぬちいそべ)ァ君身麻呂(みまろ) 合せて三口(みたり)、かく知識に結びて、天地に誓(の)み願(こ)い仕え奉(まつ)る石文。

        神亀三年丙寅二月廿九日
(※)「蹄」は案内板には「馬」偏に「爪」と書いてある。

昭和五十八年三月三十一日
文部省
群馬県教育委員会
高崎市教育委員会

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