はじめてベトナムを訪ねて
         ーー戦争はいつ終わるのかーー
                                    N
 
 ベトナム、この言葉は私ぐらいの世代には、特別な響きを持つだろう。1960年代後半に「青年期」を過ごした者にとって、「ベトナム戦争」が身近なものだった。私自身、初めてのデモは、ベトナム反戦デモだった。「ベトナム反戦」、「闘争勝利」と言いながら、デモに参加したのだ。その時のデモ参加者の余りの少なさに、がっかりしたことを覚えている。
 知人が、ベトナムで商売を始めようとしていると聞いて、一度ベトナムを訪問したいと思った。
 また、6月にあった「市民の意見30 関西」の例会で、作家小田実は、ベトナムの将来に触れて、「第3世界の希望の星」となりえる国であり、G7に対してG77という非同盟会議をつくったと指摘した。また毎日新聞4月25日号で、小田は「もちろん、ベトナムはまだまだ貧しい。問題、矛盾はいくらでもある。しかし、ここ十数年のドイモイ政策のまれな成功によってひとびとの暮らしはたしかによくなって来ている。・・・ここでもっとも大事なことは、真面目に働けば明日は暮らしがよくなるという気持ちを人びとがもちはじめていることだ。この気持ちは・・・経済を活性化する」。
 戦争でアメリカを破った国が、一体どんな状態になっているのか、見てみようと思った。
 
     泥棒天国
 今年1月に海外を船で回り、その時ベトナムに立ち寄ったという老人に、親戚の法事で7月に会った。「ベトナムに8月行くつもりだ」と言うと、彼は、ベトナムで安く買ったという扇子であおぎながら、「百人ぐらいがベトナムに上陸して、市内を観光したが、そのうち20人ぐらいがスリにあった」と言った。
 また、退職後ボランティアでベトナムやカンボジアによく出かけている知人は、「腰につけるウエストポーチも危ない」と私に言った。
 「地球の歩き方 ベトナム 2000〜2001版」で、ベトナムで滞在するホーチミン市(旧サイゴン市)の様子を調べた。「旅のトラブル」というページでは、はっきりと次のように書かれている。
 「到着後すぐに盗難や詐欺まがいなどのトラブルに遭うケースが増えている。・・・特にホーチミン市、ハノイといった都市部の治安の悪化は著しい。・・・犯罪で一番多いのはスリ、ひったくり、置き引きなどの盗難だ。・・・特に大都市ホーチミン市は『泥棒天国』と呼ばれるほど盗難事件が多発している。最も多いのがバイクに乗った二人組によるひったくり」。
 「後を絶たないシクロ・バイクタクシー・タクシーのトラブル」。(シクロは、大きな三輪車で、前の荷台に人や荷物を載せり、その後ろに漕ぐ運転手がいる。バイクタクシーは、バイクの後ろに人を乗せて、目的地まで運ぶ)。「それならタクシーは大丈夫かというと、残念ながら近年はそうでもない。料金を巡るトラブルが多数報告されている」。以下、具体的な事例が紹介されている。なかなか、大変な所に行こうとしていることがわかる。
 
      メーターはどこだ 
 7月31日夜中に、ホーチミンに着いた。現地の旅行社が迎えに来ていて、彼から何枚の旅行の注意書きを受け取った。1枚目のCに「シクロ(三輪自転車)とバイクタクシーは利用しない事」と明記してある。
 旅行1日目(8月1日)、現地で1年半、滞在しているKさんとともにタクシーを使った。Kさんがベトナム語で行き先を交渉してくれたので、もちろんトラブルはなし。Kさんの知り合いでバイクタクシーをやっている人がいて、バイクタクシーを利用する。Kさんが料金の交渉をしてくれてトラブルなし。
 旅行2日目(8月2日)、現地旅行者のツアーに参加するため、ホテルの前にいたタクシーに乗り込む。走り出したが、メーターがない。「メーターはどこだ」と言うと(英語で)、やっとメーターを押す。昨日とは違う道を行っているので、気が気でなくなり「違った道を行っている」と言う。運転者はなにも答えない。しばらくして、目的地に着くが、メーターに示された1万5000ドンに対して、2万ドンを出すと、4000ドンしかお釣りをよこさない。その時にはすでにメーターお表示は消されている。「1000ドン足らない」と言っても「お釣りがない」の一点張り(ベトナム語で言っているので、正確にはわからないが多分そのような事を言っていると思う)で、頭に来ながらもあきらめる。
 旅行3日目(8月3日)、現地旅行者のツアーを終えて、夕方タクシーを拾う。乗る前に、行き先の「SAIGON HOTEL」の名前と「1万2000ドンぐらいのはずだ」、と言う。途中から、確かに道が違う。「違う道を行っている」と言うが、着いたホテルはなんと「金持ち日本人」がよく利用するSAIGON PRINCE HOTELだ。 これは名前が示すように日本のプリンスホテル系列だ。このホテルで使われたお金の相当な量が、ベトナムではなく日本に還流されることだろう。事前にホームページで、何人かの旅行者の体験談をチェックしていたが、その中の一人が泊まっていた豪華ホテルだ。「地球の歩き方」の中で高級ホテルとして紹介されている。ちなみに私が泊まっているSAIGON HOTEL は、中級ホテルだ。SAIGON PRINCE HOTELのシングルの値段は、私の泊まっているホテルの3倍から5倍の値段だ。
 その高級ホテルの前にタクシーは止まった。タクシー料金は、1万2500ドンだったので、1万3000ドンを渡したが、お釣りの500ドンを渡さない。メーターの表示はとっくに消えている。少々文句を言ったが、運転手は取り合わない。ベルボーイが車のドアーを開けたので出た。完璧にきれいな英語を話すベルボーイにSAIGON HOTEL の名刺を示し、場所を聞く。運良く歩いていける距離だ。
 旅行4日目(8月4日/最終日)、同じ現地旅行社の市内1日ツアーを申し込んでいたので、ホテルのベルボーイに頼んで、タクシーを呼んでもらう。メーターの表示は1万5000ドンで、1万5000ドンきっかりを渡す。しかし、その市内1日ツアーは、希望者が2人しか集まらず、中止となる。どうしようかしばらく考えて、一人で市内を回ることを決める。
 まずタクシーで歴史博物館に行くことにする。その現地旅行社で市内の地図をもらい、タクシーの運転手の横で地図を見せながら、「現在はここ、歴史博物館はここ、歴史博物館をちゃんと知っているか?」と確認し、次に料金を聞く。2万5000ドンだという。妥当な金額だと思い、そこで初めて乗り込む。行く道道を、地図と照らし合わせながら、通りすぎる主要な建物を運転手に確認ながら、目的地に向かう。2万6600ドンが料金で、運転手はメーターの表示を消さない。2万7000ドンを渡す。「正直に」メーターを消さない運転手に対して、お釣りは「もういいや」という気になった。運転手は「1時間ただで待っている」と言いったが、「その必要はない。もっと長くここで過ごす」と言って歴史博物館に入る。  
 タクシーに乗ることがこれほど大変だとは、正直思わなかった。相手を信頼できることは、心理的なストレスを減らし、社会生活を円滑にする。相当前だが、「信頼」をキーワードに社会の成り立ちを分析していた経済学者がいたなーと思い出した。
 ベトナム通貨のドンと円の関係は、現在1円=130ドンぐらいだ。私がつりとしてもらえなかった500ドンは、日本円で約4円、1000ドンでは約8円だ。円としては、多い額ではない。しかし「ごまかされた」という悔しい感覚は、お金の多さではないことに気づいた。私にとって、自分が努力しても無視されごまかされてしまった1円も1000円も、同じ悔しい感覚を自分に与えることだろう。ごまかされ無視されることで、自分の「無力感」を感じてしまい、不快感が深く残った。
 日本に戻りしばらくたって、このタクシーの料金の経験を通じて「価格」というもののあり方を、私は考えざるをえなかった。日本に住んでいる私は、表示された価格はほとんどの場合、「一定」だと考えている。しかし、ベトナムでは価格は、多くの場合「一定」ではないと言える。例えば、土産物店では価格は、お互いの交渉で決まる。店の人は、いかに高く売りつけるか、買う人はいかにやすく買うか、という事でお互いが交渉し、ある程度、相互に納得したところで「価格」が決まる。もちろんこれは、なにもベトナムだけに限ったことではない。世界中では、この方がもちろん一般的である。交渉して、「価格が決まる」という「法則」が、メーターの付いているタクシーでも起こっていると考えた方が良さそうだ。メーターが示す「価格」は、「参考価格にしかすぎない、後はお互いの交渉力でどうぞ」、というのが、ベトナムのタクシーだ。「交渉力」がなければ、「かも」になり、「交渉力」があれば「かも」にならない。これは、なにもベトナムだけに限ったことではない。ある状況ではもちろん日本にも当てはまる。
 
      3人のアジア人 
 一人で旅をすると思わぬ人と知り合うことが出来る。
 旅行2日目(8月2日)、参加した現地旅行社のツアーは、1日メコン・デルタというものだ。
 今回のベトナム旅行は、H.I.S.で申し込んだ。往復の飛行機とホテルがつき、現地自由行動というパックだ。現地旅行社は、O.S.C TRAVEL という所だ。JTBが日本で出している「るるぶ ベトナム」にこのO.S.C TRAVELのメコン川クルーズが出ていた。1日、USドルで42$である。
 旅行の1日目、帰りの飛行機のリコンフォーム(予約再確認)のためこのO.S.C TRAVEL の事務所に行き、メコン川クルーズに申し込もうとした。しかし、申込者が私一人で、その場合、2倍の料金を取られるという。O.S.C TRAVEL は、JCBの現地提携旅行社だということもわかった。だからJTBが発行する「るるぶ」で、現地ツアーの最初にO.S.C TRAVEL を載せていたわけだ。一緒に付いてきてくれたKさんは、現地のもっと安い所を勧めた。それが「有名な」シン、カフェという旅行社だ。「地球の歩き方」にもいくつかの現地旅行社が紹介されていた。シン、カフェが主催する1日メコン・デルタは、O.S.C TRAVEL と行程はほとんど同じで、料金はその6分の1、USドルで7$だ。英語のガイドがつく。
 旅行2日目、朝8時15分出発の40人乗りのバスは、日本人が10名弱いた。私は、中年のおじさんの隣に座った。 しばらく走った後、日本人と思っていたおじさんが、実は、ハノイから来たベトナム人、日本に6年間いたという外務省の役人だった。もらった名刺に「First Secretary  Director of Japan  Division  Asia Department」、アジア局、日本部、一等書記官だった。多分、ベトナム政府ではエライひとだろう。メコン川は今回が初めてだという。日本の相撲が大好きで、寺尾のファンだと言った。日本の酒も好きで、特に新潟の酒はいいと言った。(通ですな〜) 途中、トイレ休憩で寄ったガソリンスタンドで、私に一見水の入ったボトルを差し出し、「飲め」という。焼酎だった。私が「ベトナム中部にあるフエに行きたかったが、飛行機の便がうまくいかなかった」と言うと、フエの歴代の王朝の墓を作るために、いかに人民が酷使され、犠牲になったかを説明した。さすがベトナム社会主義共和国のエライ人だ。今度、ベトナムに来るときは、是非北の方ハノイを訪問することを私に勧めた。
 また、彼と一緒にいた20代の若者は、彼の日本語の通訳だという。午後の小船で、彼と一緒になり、色々話をした。独身で一人っ子だという。私にもう一人子供をつくらないのか、と尋ね、私は一瞬返事に窮した。私に仕事の残業のことを聞いた。日本の渋滞を経験していた。今度、関西に来たら是非連絡をしてくれるよう私の住所や電話のメモを彼に渡した。
 
 メコン川の支流
 右手に一部見えているのがボートの先端
 
 
 
 
 
 
 
 旅行3日目(8月3日)のツアーは、新興宗教のカオダイ寺院とベトナム戦争で「アメリカ軍と南ベトナム軍」がとうとう攻略できなかったクチトンネルだ。
 昼食の時、隣に座った日本人Uさんは、見かけは20代だ。しかし、30代半ばだという。3月に会社が合併し、依頼退職という事となった。ちなみに日本の統計では、このような人は「失業者」に入っていない。過去1週間以内に職安に行って「求職活動」をしていないからだ。
 彼は20代の時にワーキングホリデイで、ニュージーランドで1年間、生活したことがあるという。今回の退職を機に、4月からオーストラリア、ニュージーランドを周り、タイで過ごし、ベトナムは北から入ったという。北はまだかなり貧しいところが多く、便所も水洗は珍しいとのことだ。ベトナムはいつまでいるか、まだ決めていないとのことだ。私の忙しいスケジュールにあきれた顔をした。
 「危ないことはいままでなかったか?」という問いに、Uさんはタイでの出来事を語った。現地の人と意気投合して、一緒に食事をしたが、気が付くと泊まるホテルで寝ていた。ドルと円が盗まれていた。食事の途中、2人分の飲み物を現地の人が持ってきたが、その中に何かが入っていたようだ。パスポートは大丈夫だった。レストランからホテルまでの行動は全く覚えていないとのことだ。現地の「友人」が運んでくれたのだろうか。これは不幸中の幸いというべきだろうか?もし、私ならこのような事があれば、かなりめげて帰国を考えてしまうかもしれない。どんな気持ちでアジアを回っているのか、ここに至るまでどんなことがあったのか、知りたいと思った。Uさんとは、次の日のツアーも一緒の予定だったので、次の日、ツアーが終わったら、一緒に夕食をとろうと約束をした。しかし、先に述べたように、次の日のツアーが中止となり、Uさんと話す機会はなくなった。
 
 クチトンネルのガイドは、中年の白髪のベトナム人だったが、Uさんはほとんど言っていることがわかったという。私は、残念ながら、マイクを通した彼の説明は3割ぐらいしかわからなかった。Uさんを通して、自分の英語力の不十分さを感じた。去年ぐらいから、NHK教育ラジオのビジネス英会話を録音して、毎日通勤途中に聞いていた。今年の4月からは、金曜日の放送担当の日本人が変わり、ずいぶん日本語的ななまりのある英語を話す人に変わった。私は、彼の英語は大変理解しにくいので、この人の英語はほとんど聞かず、とばしていた。NHKは、なぜこんな発音の人を登場させているのだろうかとも思った。しかし、今回の自分の英語理解力は、きわめて狭い範囲のものでしかないことが、わかり、金曜日の放送もきちんと聞こうと思った。
 2日目のメコン川ツアーのガイドは、若いベトナム人だった。彼の英語は、6割から7割ぐらいは分かった。そのガイドが、現在、男が女の子にもてようとすれば、バイクが必要になっていると言った。持っているバイクによって、女の子が男を選んでいると言った。それを聞いて、ホーチミン市を走ってるバイクの多さの一つの理由が理解できた。
 「地球の歩き方」によれば、「交通事故の危険性は日本の10倍」(在ホーチミン市日本国総領事館談
)とのことだ。実際、2日間のツアーで、ホーチミン市内で、バイクの転倒の場面を2回見た。「日本の10倍」は、むしろ控えめで、実際はそれ以上ではないかと思ってしまった。
 多くのバイクは、ほとんどが日本製だ。そのなかでもHONDAが、圧倒的な人気を誇っている。私は目にしなかったが、バイクに乗って客を誘う売春婦は「ホンダガール」と呼ばれている。この多くのバイクがまき散らす排気ガスによって、ホーチミン市の空気は大変悪い。バイクに乗っているかなりの人が、マスクやタオルで口を覆いながら運転している。
 この大量の交通量がもたらすものは何か?交通事故による人的な損害と汚れた空気による呼吸器系の病気だろう。タイのバンコクが、交通渋滞によって、空気が大変汚れていると聞いたことを思い出した。ホーチミン市は、あまり渋滞はないようだが、バンコクに匹敵するような状態だろうと思った。
 
      惨勝と精神の破綻
 ベトナム戦争の歴史を簡単に振り返ってみよう。
1960年:南ベトナム民族解放戦線結成。第2次インドシナ戦争勃発
1965年:米国直接参戦、北ベトナムへの爆撃開始
1969年:南ベトナム共和国臨時革命政府樹立
1973年:1月パリ和平協定調印、3月米軍撤退
      (アメリカはその後も実質的な援助と介入を続ける)
1975年:4月サイゴン(現ホーチミン)陥落
1976年:南北統一でベトナム社会主義共和国に
     〜〜〜
1978年:南部の資本主義的工場経営禁止、華僑や
      南部ベトナム人の国外脱出が発生
      12月カンボジア(ポル・ポト政権)へ大反功
1979年:2〜3月、中越戦争
1986年:12月、ドイモイ(刷新)政策決定
      市場メカニズム(民間経済活動の自由化)と対外全面開放(西側諸国や中国      との和解)
1995年:7月アメリカとベトナム国交正常化 
 
 1日目(8月1日)、私はKさんの案内で、WAR CRIMES MUSEUM(戦争犯罪博物館/「地球の歩き方」では戦争証跡博物館と表示)に出かけた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 米軍が使用した立派な戦車、飛行機、大砲、爆弾などが入ってすぐの庭に展示されていた。細部を見るとまるで立派な工芸作品のようだ。館内では、多くの展示があったが、とりわけ枯れ葉剤の影響を示す写真が印象に残った。枯れ葉剤を撒く前の状態と撒いた後の被害の状態とを比較したもの、枯れ葉剤によって生まれた奇形の子供のホルマリン漬けの展示が胸に迫った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 隣の建物に、日本人写真家、石川文洋さんがベトナム戦争を撮った作品の展示館(98年オープン)があった。そこには、戦争で苦しんだ多くの人々、とりわけ枯れ葉剤の影響を受けた子供達の写真があった。あまりにむごいので、ほとんど写真におさめることができないほどだった。障害の発生日時を見ると、1990年代のものもあり、まだ枯れ葉剤の影響は続いていることに胸が痛んだ。戦争は、残酷だ。戦争をしている期間だけでは終わらない。一体、人間は何をしているのだろう?
 日本語訳の付いた「ベトナムで戦争証跡の数々」という小さなパンフレットが、ベトナム戦争のデータを示している。
 「ベトナム戦争を遂行するために、アメリカ政府は延べ650万人の若者を動員し、直接戦争に参加させた。ピーク時には、南ベトナムの地に54万3千4百人のアメリカ兵が駐屯していた。(アメリカ陸軍の70%、空軍の60%、海兵隊の60%、海軍の40%)
 アメリカは戦争中、785万トンの爆弾(銃弾は含まない)をベトナムに落とし、7500万リットルの枯葉剤(ダイオキシンを含む)を南ベトナムの森林、農村、田畑にばら蒔いた。第2次世界大戦中にアメリカが各戦場に落とした爆弾の量は205万7244トンであった。【注:ベトナムに落とした爆弾は第2次世界大戦の約3.8倍になる】 アメリカ政府の発表した数字によると、アメリカがベトナム戦争に使った費用は3520億ドルであったという。
 アメリカが北ベトナムに落とした爆砲弾は、ベトナムの各施設を破壊しつくした;小学校から大学までの各学校2923校、病院、産院、診療所1850ヶ所、教会484ヶ所、寺、仏塔465ヶ所。
 現在も正確な統計は出ていないが、ベトナム戦争中およそ300万人近くのベトナム人が死亡、400万人のベトナム人が負傷し、5万8千人以上のアメリカ兵が死亡した」。
 その博物館の入り口にある土産物店で、石川さんの写真集やこの博物館の資料集を買おうとしたが、どういう訳かそのようなものは、なかった。代わりに、ミニ戦車やミニ飛行機や薬莢などの模型があった。戦争の何を伝えようとしているのか?何故、日本人写真家による写真があるのに、ベトナム人の写真家の写真はないのか?少し、腑に落ちなかった。
 
 3日目の日(8月3日)、中部のクチトンネルを訪ねた。ベトナム解放戦線や北ベトナムの「手作り」の仕掛けを見た。これも、一気に「死なない」と言う点で、なかなか「効果的な」「残酷な」仕掛けのように思えた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 小田実は、先の毎日新聞4月25日号でこうベトナム戦争の数字を紹介する。
 「ベトナムの勝利は持てる力のすべてを使い果たした上での『惨勝』だった。戦争は究極のところで殺戮と破壊だが、両者は一方的にベトナムに集中している。・・・ベトナム側の死者の数は正確に算定されたことはないが、軍人、民間人あわせて最低200万人。これに対してアメリカ合州国の死者は5万8000人余り。人口1800万人の「南」ベトナムに投下された爆弾、砲弾は1000万トン、枯葉剤5万5000トン、もちろんアメリカ合州国内にはベトナムの砲弾は小銃弾1発も打ち込まれていない」。
 
 1996年、北のアラスカの地で、アラスカの自然とそこに住む人々を愛した星野道夫が、餌付けをされたヒグマに襲われ、野営中に亡くなった。星野の最後の文章を集めた「ノーザンライツ」(新潮文庫、2000年3月)に、「心優しきベトナム帰還兵」という文がある。その中で紹介されたウイリーはクリンギットインディアンであり、ベトナム帰還兵だ。星野はこう書く。
「より多くの黒人が、より危険な前線に送られたように、エスキモーや極北のインディアンもまた同じ運命をたどった。
 『息子はおれの命の恩人なんだ』
 かってウイリーはそう言ったことがある。
 ベトナム戦争で5万8132人の米兵が命を落としたが、戦後、その3倍にも及ぶ約15万人のベトナム帰還兵が自殺していることはあまり知られていない。ウイリーもやがて精神に破綻をきたし、首をつって自殺を図った。が、その時、わずか7歳だった息子が父親の体を必死に下から支え続けたという」(P266)。
 「アメリカ合州国内にはベトナムの砲弾は小銃弾1発も打ち込まれて」いなかったが、ベトナム戦争に参戦した米国の兵士達も、やはりベトナム戦争は戦争の期間だけでは終わっていなかった。戦争終了後、ベトナムでは枯れ葉剤の被害が発生し、アメリカでは精神の破綻の故、戦争当時よりも多くの兵士が、自殺をしていたのだ。
 
 最終日4日目(8月4日)、HISTORY MUSEUM (歴史博物館)で豊かな時を過ごした。日本の博物館や寺院で出会うことができるような多くの仏像、器、織物を見た。日本でこれらを見ても、全く違和感がないほど、日本とベトナムに共通するアジアの文化を感じた。
 
 その後隣の動植物公園に入った。「地球の歩き方」が言うように、珍しい動物はいない。しかし木々は長い年月を経た立派なもので、公園全体の空間の広がりはとても開放的だ。大きく広がった木の枝を見ると、大変心が安らかになった。まるで、イギリスの有名な公園にいるような錯覚をもった。
 音楽が聞こえる。ロック調の音楽だ。ボーカルの若い女性が4人のバックとともに、練習している。舞台の端で振り付けを指導している中年の人がいる。何度も何度も、最後の「きめ」を練習していた。平和を感じた。次の世代が成長していく姿を感じた。日本ともアメリカとも共通するポップスの共通のレベルを感じた。生きていく力を感じ、こみ上げてくるものが有った。
       (2000年、8月18日、神戸にて)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                         TOPへ