「ねじれた差別」の臨床教育学
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 一、複合差別の位相
 差別を論じることはむずかしい。一つの事象にはいくつもの方向から光をあてることができるからである。ある人の側に立って差別と思われることが他の人には差別とは思われないことがある。社会的な存在としての個人は、多くの文脈を同時に生きているからだ。ひとつの文脈で差別をうけている弱者が、べつな文脈の中では強者であることはいくらもありうる。また、差別をうけている人々は社会的な弱者としてしばしば複数の差別を同時に経験していることが多い。だが、その複数の差別のあいだの関係は、当事者個人のアイデンティティのなかでも複綜し、葛藤を起こしている場合がある。
 こういった複数の差別の状況を、上野千鶴子は『複合差別』と命名し、次のように述べている。
「複数の差別が、それを成り立たせる複数の文脈のなかでねじれたり、葛藤したり、ひとつの差別が他の差別を強化したり、補償したりという複雑な関係にあり、その関係を解き明かす必要がある」
 さて、このような「複合差別」は日常のいたるところで見うけられる。差別は主観的なものだと言う人もいる。しかし、差別が問題になる場合、それは差別される側からの指摘が大半である。これを「主観的だ」、「差別は悪い」と言うことは簡単だ。だが、その差別の根源を見据えない限り被差別に苦しむ人はなくならない。
 片隅の差別、見過ごされがちな差別、に最近の私はこだわろうとしていいる。ささいなことにも「これはおかしい」と声を上げること、が今の子どもたちに必要なのではないか、と考えはじめている。
 
 二、マンガの中の複合差別
 まず、図1、図2を見ていただきたい。この作品は、ビッグコミックというマンガ雑誌に連載されている。『C級サラリーマン講座』(作者、山科けいすけ)の一部である。現代のサラリーマンの実態をよく描いている、と支持者も多い作品らしい。私は、個人的に、この人の画風が嫌いで、ほとんど読まずにとばしていた。どのような点が嫌だったかというと、登場人物の形相がすごくて、何か背景に「異形のものを嗤う」という思想が感じられて私の感性では耐えられないものであったからだ。読後感にザラザラとしたものが残り、精神衛生上よくないと、思っていた。であるから、図1・2の作品を見たのはほんの偶然からだった。古新聞・古雑誌を整理していた時、まるで私に見てほしいといわんばかりにパカッとこのページがあいたのである。
 私はまず「ひどい」と思った。次に不快になった。
 私自身、この2つの作品の中に差別される側の「自分」をみたからであろう。図1では「ミュージカルスターとは程遠い存在の女」として、図2では「大震災で被災した女」として、これは許しがたいと怒りをおぼえたのだ。この作品を「面白い」という人はどんな人だろうとさえ思ってしまった。そこで少し山科の他のの回のものよく見てみると、
 
 
 
 
中年男女の恋愛を「オエーッ」と気持ちの悪いものとして描いたり、並はずれて(?)ヒドイ男性の顔を描いたりしながら、読者が決して笑われる側にいないことを前提として、思いきり「異端」を「嗤い者」にしているのである。
 まず図1について考えよう。
 容姿のいくぶん優れない女性が、パラグァイへ行ってミュージカルスターになるという。上司は「がんばりなさい」(内心退職を喜んで)と言う。日本では「スター」などと到底相手にされそうもない女性がパラグァイに行けばスターになれるって?これがどうして笑えるのだ。作者は女性、OL、いわゆるブス(私はブスという表現は大嫌いだが、あえてここでは山科の文脈で)、そしてパラグァイを嗤っているのではないか。
 @パラグァイは、日本に比べて経済的に貧困である。
 Aかつて、日本で貧困であるが故、新天地を求めてパラグァイへ農業移民をした人々が多くいる。が、パラグァアイへ行っても貧困からぬけ出せず、かといって日本へ帰れない人々が多いことは周知の事実である。まさに重層的な複合差別がここに見られる。
 次に図2を考えてみた。
 ここには大きく3つの差別が描かれている。
 @水がほしい、飢餓状態にある女性、A男に「水がほしけりゃ尻出して並べ」といわれている性的に差別された女性、Bおそらく、ふだんは女性に相手にされないであろう風采の上がらない男性
 しかし、図1とは違ってここに山科のズルさが見えかくれする。「あきれてモノも言えない」上司の存在である。作者はきっと言うであろう。自分の意図するところは差別ではない、と。私は言葉でどう説明されようと、この作品のインパクトは、「ふふふ・・・大震災が起こったら、これで女はよりどりみどりですよ」というセリフの差別性にあると言いたい。ビッグコミックは男のために作られた雑誌でしかなかったのかと、少しガッカリもしているのだが、男性諸氏はこういったマンガを、どういう文脈でみているのだろうか、興味深い。
 ともあれ、こういった「差別のねじれ」が我々の日常生活には多くあるものだ、ということを、この二つのマンガから再認識させられた、とは思っている。
 
 三.教室における複合差別
 最近の学校現場での病理現象、すなわち「いじめ」、「不登校」、「学級崩壊」などは、この複合差別という観点から見ることができるのではないだろうか。
 子どもの世界は、大人の世界を映し出す鏡であるとよく言われる。ねじれた差別でいっぱいの大人と接する限り、子どもの世界は歪む以外にない。 たとえば、学校でどのような子どもがいじめにあうかを考えてみよう。太った子、学力の低いと思われる子などが標的にされやすい。
 Aという子とBという子がいたとしよう。Aが少数派であり、他と少し違っており、さらに、Bが自分と比べてAを劣っていると価値判断したとき、BにとってAはいじめの対象となる。ここに差別が発生する。「劣っている」というのはなにもテストの点数が悪いとか、走るのが遅いといったこととは限らない。言葉、髪の毛の色、家族、、、あらゆるものが差別のための標識となっていく。 そして教室現場で経験したことであるが、いじめた側の子どもを検証していくと、必ずといっていいほど、当のいじめっ子自身もなんらかの「差別」を受けていた事実につきあたる。塾での序列化、家庭での扱い、担任教師の態度など、子どもたちはいつも他者と比較され、心休まらない状況に追い込まれているように思えるのである。
 さきほどの山科けいすけのマンガを思い起こしてみよう。同じ差別の構図が描けていることに気づくだろう。
 学校教育における複合差別、この根にあるものをさらに深く読みとっていくこと、これが私の現在の大きな課題である。
 
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