高校教育改革
T.文部省の考える高校教育改革
 
 中央教育審議会は、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第1次答申を96年7月に、第2次答申を97年6月におこなった。第1次答申と第2次答申では、スタンスが異なる。前者が総論的であるのに対し、後者は各論である。どちらかというと第1次答申の方が、格調が高い。また、第1次答申は、「高校教育の多様化」という言葉を1度しか使用していないのに対し、2次答申では、「中等教育全体の多様化・複線化、あるいは多線化」という言葉を多用している。本章では、第2次答申に沿って文部省の考える高校教育改革について考察する。
 
1.高校教育の複線化
 
 第2次答申は、教育の目標を「個性的な人材や創造的な人材を育成することは、我が国が活力ある社会として発展していく上で不可欠である」と述べている。グローバル経済社会において有為な人材を、あらゆるチャンネルを通じて養成するという考えである。さらに、「優れた才能を持った子どもたちの学習を豊かなものとしていくことを考えるときには、同時に、学習の進度の遅い子どもたちや、様々な試行錯誤をしたり回り道をしながらじっくりと学んでいくことを志向する子どもたちについて、個に応じた指導を行うなど、十分な配慮をしていくことが求められる」と述べている。 これを、文部省の寺脇研は、「十四期の改革提言は、専ら、偏差値輪切りの結果、低いランクづけをされた、高校へ行かされている生徒達に配慮したものでした。いわゆる『エリート』とは言われない子供達のための改革だったのです。」(『21世紀へ教育は変わる』)と言っている。また、「そして今回の第十五期中教審では、『公立の中高一貫教育』や『数学と物理の分野に限定した大学への飛び級』が打ち出されました。今回だけを見ると『エリートを優遇する事ばかり言っている』と批判されますが、十四期中教審以来今まで十年近く『受験学力でいえば真ん中よりしたの層をどうするか』を一生懸命やってきたのです。それが軌道に乗りつつある今、個性重視のひとつとして『飛び級』があってもいいのでは、ということなのです」(同)と述べている。基本的には、「普通科単位制高校」・「公立中高一貫校」や「飛び級」を通じ、日本の経済社会に有為な能力・個性を持った人材の早期発見、育成を構想し、「できない子」用に大半の普通科を3年制の総合学科に改組する方針である(コンプリヘンシブ化)。もちろん総合学科も、優れた才能をもった生徒の発見・育成をおこなうから、そのような生徒の大学進学は、以下に述べるように可能である。
 
 個性重視・才能重視の考え方は、「経済構造が変化し、社会の価値観が多様化するなど、我が国社会が先行き不透明な変化の激しい時代を迎えるということを考えると、18歳の時点での試験の合否は、もはやかつての程の大きな意味を持たないようになり、その後の人生においていかに学び、真の実力を身に付けていくかが重要になってくるということを強調した上で、以下、具体的な提言を行う」として、大学入学者選抜の改善を述べている。特に、アドミッション・オフィス(A・O)の整備を提唱している。
 進学率の上昇と生涯学習需要の高まりに伴い、大学の役割は、「より幅広い層の国民に対し、それぞれの関心や意欲に応じてその能力を十分伸ばしていくための多様かつ充実した教育機会の提供」(大学審答申)が一層重要となっていくのである。しかし、「企業内の能力主義が徹底し、社会にも能力を重視する意識が浸透する」(第2次答申)社会では、個性・能力を中心とした競争は一層激しくなっていく。
 80年代半ばの重厚長大型産業のリストラは、大量の失業者を生み出した。最近の第三次産業のリストラも大量の失業者を生んでいる。これによる、社会の変化は、貧富の差の拡大による、犯罪の増加である。個人の変化は、勤勉、まじめに働けば良い暮らしができるという労働観の崩壊である。また、年功序列型賃金や終身雇用制の動揺もそれに拍車をかけている。そこでは、労働の移動が、必然的に起こるから、新しい労働観が、必要となってくる。つまり、自分の置かれたその位置で、自分の生きがいを見いだしていくという価値観である。
 そして、教育の目標を、労働の移動(職場、仕事の移動)をスムーズに行うことに置く。つまり、現状の中で、自分の生き方を見出す人間を育てることを目標にし始めた。これに対応する言葉(高校教育改革に関する答申類に使用されている言葉)は、「個性の尊重」、「多様な価値観」、「違いを認める」などである。寺脇は、「自分ができること、自分にしかできないことというのがあって、それで生きていく、自分なりに世の中の役に立てばいい、という発想がもてる教育をしていけばいいと思うのです」。そして、「将来、全体の六割が総合学科、二割が普通科、残り二割が専門科になる」(同)と述べている。
 
現行の教育制度











 











 

 国私立
  中
  高
  一
  貫
  校
(パブリック
  ・スクール)

 
 





 

3年制高校
普通科進学校(グラマー・スクール)

 





 





 

3年制高校
その他普通科
(モダン・スクール)

 





 

3年制高校
職業科
(テクニカル・スクール)

 





 





 


       3年制中学校


 
 
 
文部省の考える教育改革















 

国私立
 中
 高
 一
 貫
 校
(パブ
リック
・スクール)

 



 















 

 公立
  中
  高
  一
  貫
  校

普通科タイプ
総合学科タイプ
専門学科タイプ
 
 







 

3年制高校
普通科
進学校
(グラマー
・スクール)
 







 

普通科
単位制
高校



 







 







 







 

3年制高校
普通科
その他
(モダン
・スクール)
 







 

3年制高校
総合学科
(コンプリ
ヘンシブ
・スクール)
 







 







 

3年制高校
専門学科
(テクニカル
・スクール)

 







 







 


         3年制中学校




 
 
[太枠の中高一貫校と普通科進学校・普通科単位制高校は、エリート化。細枠の普通科と総合学科は、従来の普通科高校]
U.高校教育改革
 
1.総合学科
 
 偏差値教育の打破やいじめなど、今の学校教育の問題を解決するための教育改革は、早急に必要である。総合学科は、有効な一つの方法である。しかし、中高一貫校や普通科単位制高校などエリート校を残したままでは、解決しないであろう。原因の根本は、経済成長(経済のグローバル化)であり、それが持つ拝金主義である。「何でも金」という社会を変えなければ、総合学科が謳う偏差値教育の打破やいじめ・不登校・少年犯罪は解決しない。そのためには、健全な地域経済社会の復活しかない。それは、イギリスにおけるサッチャー政権の改革の失敗が、物語っている。
 
 
2.学級崩壊
 
 現代の教育病理の原因は、偏差値教育であり、受験競争の激化である。夜遅くまで有名進学塾に通う小学生。小学校高学年になれば、塾に行かない子は遊び相手がいなくなる。また、受験競争による過度のストレスはいじめに発展する。最近、小学校高学年において「学級破壊」という現象が起きている。『臨床教育学の小窓から』(まつざき あおい『まなざし』)によると、「授業のレベルが低いといってクラスの仲間を引き連れて教室を出ていき、『俺が教えたる』といって校庭で授業をしたり…、…授業中ウォークマンを聞く、ハイパーヨーヨーで遊ぶ、おやつを食べる、ゲームをすると何でもありのクラスの核になったのは、いづれも大手進学塾での学業優秀児である。神戸だけの現象かと思ったら、東京でも中学受験を控えた『学業優秀児』が荒れてクラスをかきまわすケースが増えているようだ。…いじめている子は大抵、大手進学塾の優等生であり、いじめられているのは塾にいっていない学力の低い子どもだという。私学受験をして、それぞれが希望の学校に入れるのならまだしも、半数以上が落ちるという現実があるのだ。この『落ち組』が中学に行ってさらに悪質ないじめをしている」と述べている。
 
3.初等・中等教育改革への批判
 
 学校教育・教育社会の現状を考えるなら、いまなんらかの改革が必要であるということは言うまでもない。しかし、問題はなにをどのように改革するかである。『教育改革』(岩波新書)で藤田英典は、「企業活動・経済活動にベンチャー性や創造性が問われているとしたら、それに対応する責任と必要性はむしろ企業や政財界の側にある。学校教育が、そういった個性・能力を伸ばすのではなくて、企業自らが、労働者の持つ潜在的な適応力・創造力を生かし、あるいは、引き出すことができるように自己改革することにある。早い段階から専門化したり、先端的な知識・技能の教育を重視することは、“能力の浪費”を招きかねないだけでなく、基礎学力、基礎教養の低下を招く恐れがある。さらに、…それは、政策担当者が行う社会的選択としては、きわめて無責任で危険なものと言わざるをえない、なぜか。それは、これまでの考察からも示唆されるように、初等・中等教育が生活道路のような社会的インフラだということを見落としているとしか考えられないからである。たとえていえば、現在進められている改革は住宅街やオフィス街の真ん中に高速道路をつくるようなものである。しかも、その高速道路は高架式ではない。というのも、高架式にすることには、初等・中等教育の場合、構造上無理があるからである」と教育改革を批判している。
 
4.教育改革はリージョナリズム
 
 受験競争・偏差値教育の弊害は、誰もが認めるところであり、「学歴社会から学習歴社会への転換」というスローガンは受け入れられやすい。しかし、この変化は、知識量を競争することから、個人の生まれながらに持つ能力や個性を伸ばし、それをグローバル企業がどう評価するか競うという変化であり、より深刻な競争になる虞がある。
 アメリカ政府は、ペリー以来日本政府に市場開放を要求しているが、ここ数年は、規制緩和(特に金融・証券・保険の自由化、大店法の改正など)を要求している。これらは、アメリカの多国籍企業の要求ではあるが、日本の多国籍企業も国民経済を解体してグローバル市場を確立するという目的は同じであるため積極的に応援している。例えば、銀行や証券系のシンクタンクの専門家をマスコミ(商業新聞や商業放送)に登場させ、これらの規制緩和が如何に国民経済にメリットがあるかを、繰り返し繰り返し述べさせいる。しかし、大規模店舗法についてアメリカの例を見ると、規制緩和は、地域社会を破壊し、雇用を奪い、消費者価格も思ったほど下がらず、メリットよりデメリットの方が多そうである。
 教育も然りである。教育における規制緩和が及ぼす影響を考えて、教育改革を行わなければならない。「21世紀を展望した我が国の教育の在り方」を考えると、グローバル経済化の要請による教育改革は、現在の社会を大きく変化させる可能性がある。今までの日本の教育制度は、単線型であり、それが戦後民主主義のベースとなった。第15期中教審は、「形式的な平等の重視から個性の尊重への転換」を打ち出した。それは、現行の教育制度の柔軟化・弾力化とともに、複線化構造を指向している。つまり、総合学科、普通科単位制高校・中高一貫校や飛び級制といった教育制度の複線化は、形式的な平等を阻害する可能性がある。当局は、高校教育改革の中で総合学科、普通科単位制高校をどう位置付けどの程度設置しようとしているのか、同じく、公立の中高一貫校と飛び級をどう位置づけ実施するのか。これを見極めることで当局の意図が、判明すると思う。
 大切なのは、高校教育改革は、社会改革であり、その点から考えるということである。私たちが目指す教育改革は、グローバリズムに対抗するリージョナルな視点を持った共生社会を目指すものでなければならない。
 
V.民主的学校作りと教育改革
 
 新しく、総合学科などを導入する学校に於いて、ほとんど教員の声を無視した形で導入の決定が強行された例がある。そのような学校では、強引なやり方で決定されたことに対する反発が強く、多くの教員が投げやりな気持ちになっている。このような状況を、教育改革というのだろうか。トップダウン方式の改革は、混乱を招くだけであり、結果的にいいものができない可能性がある。教職員の意思を尊重し、現場から改革を作り出すことが大切である。
 この度、98年9月の「今後の地方教育行政の在り方について」(中教審答申)は、「小中学校、高校などの職員会議を校長の補助機関と位置づけ、校長を補佐するスタッフの拡充のため、主任制を抜本的に見直す」という内容の答申を行った。本県においては、これを、先取りするかたちで、83年に「職員会議に関する規程の整備について」という通知が、出された。県教育長は、「職員会議の規程のない学校や内容の不適切な学校が見受けられる」として、「1.職員会議の性格は校長の職務遂行上の補助機関であるということが明確にされていること。2.校務運営に関する校長の決定権が明示されていること」を指示した。その結果、全県的に職員会議規定の改悪が行われ、校長が独善ですべてを決済できる体制となった。その後、90年度に「高塚高校校門圧死事件」・「県農業高校入試改竄事件」などが起こったことは、記憶に新しい。現在、高校現場では、組合の組織率が低下し管理職に異を唱える者が少なくなり、黙々と働く教員が増えている。このような学校で、生徒の権利・自由は、守られるのだろうか。教員が孤立化し、自分のいいたいことをいえなくなるということは、教育、ひいては市民社会の危機でもある。
(1998,11)
 
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